畔上賢造

目 次

             [ 祈り ]  [ ただの人 ]  [ この世 ]  [ 孤独 ]  [ 独立独歩 ]  [ 人生 ]  [ 独立伝道 ]
              
             [ 福音 ]  [ 救い ]  [ 信仰 ]  [ 生活教 ]  [ 無教会 ]  [ 天国 ]  [ 復活 ]

             [ 略歴 ]  [ 主要信仰著書 ]  [ 参考文献 ]  [ 記念講演会 ]

             

                                         〔注〕『著作集』‥‥『畔上賢造著作集』 発行所 畔上賢造著作集刊行会 

                                                                     [ホームページ]


  祈り

            我らは信仰の強きをのみ貴んではならない。むしろ信仰の正しきを念とせねばならぬ。強きが良しと

           言いて、過って不信者の抱く如き祈祷の効力についての迷信を抱いてはならない。祈祷そのものに或

           効力が伴うのではない。熱心に祈りたる故に神が御心を動かされて信者の祈を聴くと云うのではない。

           これ人の熱心を以て超自然を動かさんとする異教的精神である、かゝるものは宗教と云うよりは寧ろ

           魔術である。魔術の虜となりては人は正しき信仰に立つを得ない。確信はもとより必要である。われら

           はイエスの名によりて祈らば何事にても聴かるゝとの確信を抱かねばならぬ。たゞその祈の性質其者

           について或る貴き制限―実に有難き制限なるかな―あるを忘れてはならない。

                                            (『著作集』第6巻.394〜395頁)

 

            ‥‥‥‥‥結局は御意を成したまえというのであれば祈る必要がどこに在るかと。‥‥‥祈らずとも

           必要不可欠のものは悉(ことごと)く与えられるのである。また如何に熱心に祈ったところが、人の意が行わ

           れるのでなくて神の意が成されるのであるならば、人の祈ることは全然無用であるというべきであろう。

           ‥‥‥‥いかに祈ったとて、聖意は成るのであり我意は成らぬのであるから、祈っても祈らなくても何の

           変りもない筈である。したがって純理論的に言えば、祈ることは全然不必要であると言えないことはない。

 

            純理論的にいえば、全くその通りであるかも知れない。しかしながら、すべて宗教的事態は理論どおり

           にゆかない。殊に基督教にありては、逆説(パラドクス)が真理であり矛盾が却(かえっ)て真実であることが多い。

           祈の第一義は神への要求の陳述ではなくて、神と我らのたましいとの交通にある。われらは友に向っても

           のいう如く、神に向ってものいうのである。しかし一切の事を知りたまう神は、われらの心のねがいをもよく

           知りたまう。ゆえに同一の願を幾たびもくりかえして祈る必要はない。しかし彼とものいうに当っては、どうし

           ても感謝と願とが祈の焦点となる。願う必要はないと言われても、我らの魂はおのづから願う、願わずには

           居られない。この矛盾の中に、人間の愚かさもあるが、またその貴さもあるのである。活けるたましいの呼

           吸、それが即ち祈である。

                                             (『著作集』第11巻.261〜262頁)

 

               宗教生活の主体は祈祷である。必しも口に出しての祈たるを要さない。又必しも静座黙祷たるを求めない。

           その生活の凡てを貫いての「祈りごころ」こそ宗教生活の本体である。語を以てする祈祷及び黙祷は、この

           祈り心の一表現たるに過ぎない。そして祈り心と云うのは、人が神に向って語るこころである。人の霊が神の

           霊との接触を求める動きである。たましいの呻きであり、霊魂の歌である。

                                              (『著作集』第12巻.89〜90頁)

 

                                                                         [畔上賢造 目次]  [ホームページ]


  ただの人

            私はたゞの人である。特別なる或者ではない。私は宗教家でもなく、聖書学者でもなく、科学者でもなく、

           文学者でもなく、詩人でもない。又その他の何者でもない。私は勿論(もちろん)天才ではない。私には何の

           特長も特能もない。たゞ私は極めて有(あ)り触(ふ)れた凡人の一人――路傍(ろぼう)の石や雑草のように

           唯(ただ)(あ)るだけの人間である。

                ‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            もし強いて私に値があるとすれば、それは唯私が在(あ)ると云(い)うことだけである。ともかくも私が宇宙

           間に存在しているということ――私が五尺の空間を占領していると云うこと、それだけが私の値である。

                ‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            私は唯在るだけのものである。ほかに何の価値なきものである。しかし神が私を在らしめたが故に私は

           在るのである。神が私を在らしめずして私の在る筈がない。神が私を在らしめたと云うのは、私という者を

           在らしめる必要が彼にあったからのことである。‥‥‥‥‥そして之が私の最も強い、最も深い、最初に

           して且(か)つ最後の私の據(よ)り處(どころ)である。

                                               (『著作集』第11巻.3〜4頁)

 

               とまれ、私は人間でありたい。天の使にもなりたくない、又聖人にもなりたくない。また謂(いわ)ゆるクリス

           チャンにもなりたくない。私はたゞの人でありたい、しかしイエスの心を少しでも――出来ればたっぷりと―

           有った人でありたい。私の理想は全心にイエスの精神を充たした唯の人である。‥‥‥‥

            ‥‥‥‥私の理想は、叢(くさむら)や庭をとびまわっている雀である。何の美しい姿もなく、うるわしい声も

           なく、平凡無味な、あの雀である。私は特殊の人であり度(た)くない、大衆の一人であり度い。私は天才者

           の孤独を厭(いと)う。私は多くの兄弟姉妹と共に、賑かに人生の行路を歩みたい。大衆の一人として平凡

           無味の人間として、何の取柄もない唯の人として、しかし主イエスの心だけは胸にしかと抱いて、私は人

           生の行路を歩みたい。

                                               (『著作集』第11巻.10〜11頁)

 

               私は弱い人間である。私は修養によって悲痛に堪える道を知らない。心を枯木死灰の如くせよと言われ

           ても、其(それ)もできない。人生を一場の悪夢と思いてその哀楽悲喜にこだわるなと教えられても、私にとっ

           ては人生はあまりに厳粛なる事実である。私は天使でもなければ獣でもない。私は唯の人間である。そして

           私は人間としてあり度(た)い。

                                                (『著作集』第11巻.211頁)

 

               人間は人間である事が最も貴い。宗教家とか学者とか伝道者とか神学者とか法律家とかいう者になって

           しまうと、凡て物の見方や感じが偏執的になってしまう。頭も心も柔軟性を失って、動脈硬化の状態となる。

           殊に宗教家というやつ程イヤなものはない。

                                                (『著作集』第11巻.457頁)

 

                                                                       [畔上賢造 目次]  [ホームページ]

 


 この世

            今日に於ても、不信者の間にいくらも良い事がある。不信社会の大体の動き方は別として、とにかく個々的

           に真・全・美がたしかに在る。その数や分量の大小は第二として、とにかく在ることは慥(たし)かに在る。‥‥‥

            クリスチャンは基督教道徳の立派さのために眩惑されて、良いことは基督教の内部にのみあると誤想しては

           ならない。そしてパウロの勧めたように、一切の良き事は良き事として充分にそれを認識しなくてはならぬ。

                                                (『著作集』第5巻.807頁)

 

            二十世紀の初頭のころはまだまだ人間世界に望があった。まだまだ良いところがかなりに在って、やがて

           此世は更に良くなるように感ぜられた。人類全体のこゝろに、ぼんやりながらも、そうした感じが共通していた。

           それが人類の通念であると言ってもよかった。しかるに欧州大戦を契機として、全世界に急速な荒乱が起り、

           人類は急遽として墜落の一路をたどりはじめた。この荒乱と墜落とは年とともに激しくなって、今や暴力万能

           の野獣時代にうつったように見える。‥‥‥‥‥

 

            恐らく今日では、誰ひとり人類世界の将来に若干の望をもっている者もあるまい。遠き将来を慮るとか、如

           何にして人間の世界を改善しようかなどいう根本的の事を考える人はなく、たゞみな目前の苦難を何とかして

           乗切ろうと願っているだけである。それも大部分は自己中心であって、たゞ自己の小安をはかることに没頭し、

           そのためには如何なる大切なものを犠牲にしてもかまわぬという心構えである。人間のこゝろが物質的に堕

           するとともに、また著しく寸時的となった。理想も何もなく、たゞ目前の事を自己中心のこゝろで、然るべくやっ

           てゆくだけである。おおよそ進まざるものは必ず退く。そして理想なきところただ退歩、墜落、荒乱の一途をた

           どるのみである。いまや我らは、人間世界については望を絶つよりほかに道がない。

 

            かく此世に即する一切の望を棄てる。おのれの肉の生命に望を絶ち、家族や友人に望を絶ち、人間世界に

           望を絶って、ほんとうに唯ひとりである自分自身を、茫々たる大宇宙の中に見いだす。かくたゞひとりとなって、

           大宇宙と相対したときに、人は神に、キリストに、永遠の生にぶつからずには居られない。

                                                 (『著作集』第11巻.276〜278頁)

 

               悪しき者のはびこっている時には、その勢い旺にして手のつけようがない。しかし、捨てゝおくがよい。神は

           活きていたもう。天を無視し人を無き者のように振舞う輩の、地にながく勢威を張り得る筈がない。奢る平家

           は久しからず、間もなく地よりその痕を絶つであろう。

                                                  (『著作集』第12巻.31頁)

 

                躁ぎたい者には勝手に躁がせておくがよい。動きたい者には勝手に動かせておくがよい。暴力を揮う者に

            はかってに揮わせておくがよい。横車を押す者にはかってに押させておくがよい。たかが人間のすることであ

            る。いくらやっても知れたものである。神が一たび声を出し給えば地は溶けるではないか。

                                                  (『著作集』第12巻.32頁)

 

                今や自己中心の時代である。如何なる事を行っても、正しいと信じてやったと云えば、或はやりたいから

             やったと云えば通る時代である。愚者の確信ほど恐ろしいものはない。この種の人が今や世界に充満して

             いる。

               ‥‥‥‥‥‥‥‥‥

              今や自己宣伝の時代である。或は堂々とあるいは偽装して自己宣伝をする。悪い事をしておきながら、

             堂々と自己宣伝をすれば、熱心だとか、真心に富むとか言われて褒められる。「心の静なるもの」などは

             落伍者となる。何でもうるさく騒ぎたてるに限る。これが現代人の道徳である。

              

                                                  (『著作集』第12巻.49〜50頁)

 

                  何という不安時代であるか。十年前に比して、否五年前に比して、否三年前に比して、全世界が何とい

              う変り方であるか。おも苦しい黒雲が、ありとあらゆる空間を蔽(おお)うてしまった。‥‥‥‥国難と云うが、

              実は世界難・人類難である。たゞに経済難だけではない、思想上・精神上・道徳上の混乱である。‥‥‥

              人間の内的生命の根底が破壊されつゝあるのである。有史以来、人類は最大の危機に立ったのではな

              いかとも思われる。

                                                   (『著作集』第12巻.79頁)

 

                   この世はわれらの国ではないが、少くともこれを第二の故郷と云うことができる。永遠より永遠にむか

              って旅するわれらは、或る歳月のあいだこの世にとどまって、若干の足跡を地上に印するのである。われ

              らは徒らにこの世を厭ってはならない。

               この世は悪の世界である。けれども亦神の支配したもう世界である。故にこの世が全く暗黒であるという

              ことはできない。暗黒の中にも光がある。悪の中にも善がまじっている。

                                                   (『著作集』第12巻.151頁)

 

                   どんないやな世にも、必ず良いところがある。泥水の中にも蓮が育つ。どんな汚れた社会にも、必ずそこ

              に働き得べき世界がある。‥‥‥‥‥黙々として働いているのがよい。そして已むを得ないときには叫ぶの

              がよい。

                                                   (『著作集』第12巻.324頁)

 

                                                                         [畔上賢造 目次]  [ホームページ]


 孤 独

            私はまた人間の孤独を、この砂漠の夕ぐれにしみじみと味った。恐らく人間ほど孤独なものは宇宙間にな

           いであろう。他の動物も孤独ではあろうけれども、かれらはそれを痛感しない意味に於て孤独ではない。しか

           るに人間は集団的の生活をしていて、家族があり、友人があり、おおくの知人があり、十八億の同族を地上に

           持っていて、孤独ではない筈であって、実は限りなく孤独である。そこに人間の孤独性の深刻さがある。

                                                   (『著作集』第11巻.274頁)

 

                孤独は人間本来のすがたである。人にして孤独ならぬ者は一人もない。衆とともに在るときも孤独である。

            ひとり在るときも孤独である。孤独は人間本来のすがたであるから、その在る場所によって左右されるもの

            ではない。

                                                    (『著作集』第12巻.148頁)

                                                                         [畔上賢造 目次]  [ホームページ]

                             


 独立独歩 

            ‥‥‥‥‥‥けれども師も友も、決して私を新たに生んだ人ではない。私に福音を与えた人ではない。私

          を生命に入れた人ではない。師より聴いたところそのまゝが直ちに私の信仰とはならない。又そうなってはなら

          ない。私は師より福音をきいた。しかし私は他の聖なる者より福音を受けたのである。

           もし師より聴いたことが福音を受けたことであるならば、私はそれだけで充ち足った筈であった。然(しか)るに

          事実はそうでなかった。私は師より福音をきいたのち、ひとり曠(こう)野の旅にさすらった。その時私は、真に福

          音を黙示として与えられずしては何の力ともならぬことを痛感せしめられた。彼のごとき大なる教師に就いて学

          んでさえ、学んだだけでは、それが或準備とはなりても、そのまゝ直ちに生命とはならないことを知った。その

           時の私の驚きは多大であった。私は一時はうちのめされて、再び起ちあがりえないように思った。しかるに無

           になった私のたましいの底に、少し或物のあることが判った。それを仔細にしらべて、私はそれが人間的の一

           切の関係を絶した、此世ならぬ或物であることを知った。それは溶鉱爐の中の不用物を悉(ことごと)く拭い去った

           のち、底にごく僅か残った黄金のようなものであった。‥‥‥‥‥‥かようにして私の新生涯は始まった。黙示

           は徐々として――極て少しづつ――けれども極て確実に私の上に加えられ進んだ。私は遂に苦悩の谷を通り

           越して、陽光ゆらゆらとただよう光の世界に導きいれられた。私は明かに知った、自分に与えられた福音は、

           人に由らず専らイエス・キリストの黙示によることを。

            ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           ‥‥‥‥しかし私は誰人なりとも、人の奴隷とはならない。肉体が人の奴隷たるはまだしもよい、霊の奴隷た

           るは人間最上の屈辱である。私は小さい者であるが、黙示によりて福音を示されし事を信じ、その故に自己の

           弱小無力を怖れずして、敢てクリスチャンたることを自信し、敢て福音の宣伝者として働くのである。誇って斯く

           いうのではない、ただ当然の事をいうに過ぎない。人から見ては如何であっても、神が私を愛し、私にその獨子

           を示し、又彼の十字架の真意を示したもうたのである。この意味に於て、私は人からは全く独立である者として

           神に帰属せしめられたのである。茲(ここ)に私の不動の立場がある。

                                                       (『著作集』第4巻.495〜497頁)

 

              ‥‥‥‥‥‥‥そして此の独立たるや、他の事においてはいざ知らず、宗教的生命においては絶対的のことで

           なくてはならぬ。換言すれば、独立なきところ生命ないのである。

            ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           ‥‥‥‥‥‥げに真理を示されたこと、或る天職に召されたことについては、われらは人よりの絶対的独立を

           確保せねばならぬ。その事のために師や先輩が自分を助けたことはあり得よう。彼らの誘導が我の上にこの幸

           をもたらすべく働いたことはあり得よう。しかしそれは結局、上よりの啓示および聖召に到る途中の或断面であっ

           て、事それ自身の本質は全く彼らから独立して、完全に上よりのものでなくてはならぬ。

                                                       (『著作集』第4巻.502〜503頁)

            

            人は一個の個体である。また独立の存在者である。某教会員であるということは、地にありての一つの偶然事

           であって、本質的の何者でもない。人は教会員たるよりも先づ本質的に一個の独立者として神の子とせられねば

           ならぬ。そして某教会に加入するとか、加入せぬとか出席するとかせぬとか云うような地的偶然事のほかに、衷に

           とゞまるところの聖霊によりて凡ての事を教えられる、一個独立独往の基督者であらねばならぬ。然らずしてはた

           とい或教会の忠実なる会員であり得ても、信仰の独立と確実とを具備するクリスチャンたることはできぬ。温室で

           育てられた花は浮世の風にあえば忽ち凋んでしまう。クリスチャンは逆風と戦いて亭々として立っている喬木のよ

           うに育てられねばならぬ。此世の波風は常にクリスチャンにとっては逆風である。この逆風に会いて動揺し、困迷し、

           遂には根こそぎ吹きとばされるような有様では、神国建設の聖業のためには一弱卒たるをも得ないではないか。

                                                       (『著作集』第6巻.548〜549頁)

 

            私は信仰の問題を純個人問題であると考える。イエス以外の誰人かの樹(た)てた或宗派の中に、又はイエ

           ス以外の誰人かの起(おこ)した或潮流の中に己の立場を置くことは、信仰の純主観性を害うことである。形の

           上の籍などは何處(どこ)にあっても構わない。しかし魂は自立でなくてはならぬ。魂はイエスに直属しなければ

           ならぬ。イエスと我魂との間に誰人をも介在せしめてはならぬ。

                ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            私には主義というものはない。私は教会主義者でもなければ、無教会主義者でもない。

                ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            私はたゞ一個の私としてあり度(た)い。何派の何某でありたくない。孤立と云えば孤立かも知れぬ。しかし孤立

           でありても、党人であるよりは遙かにましである。‥‥‥‥‥

                ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

             私は基督教会の芬々(ふんぷん)たる宗派的闘争を好まない。我らの愛する国は、否われらの属する全世界は、

            今や危急存亡の秋に立っている。目をあげて見よ、今の全世界に漲(みなぎ)る滔々(とうとう)たる毒流は、今や

            まさに全人類を一呑みにして、之を底なき抗に押し落さんとしているではないか。この時に当って何の内輪争い

            ぞ、何の区々たる紛争ぞ。「全世界の労働者よ一致せよ」と叫びて、社会改革に狂奔しつゝある者を見よ。中に

            不逞の徒も多くあろう、しかしその覚悟は少なくとも今日のクリスチャンにまさる。我らクリスチャンは、今や全日

            本を思い、全世界を思うべき時に際会している。内部の小争に耽るべき時ではない。            

                                                (『著作集』第11巻.5〜8頁)

 

                人も知るごとく、私は内村鑑三先生の弟子である。‥‥‥‥‥けれども我らはキリストに在りて一人々々であ

            る。先生は先生、私は私である。私はその信仰や思想の――或はまたその生涯の大部分を先生に負うている。

            それにも拘(かか)わらず、先生と私とは別々である。‥‥‥私は先生の伝道事業を継承する者でない如く、先生

            の思想や信仰を継承する者でなく、又必ずしも先生の起した或流派の中に属する者でもない。‥‥‥‥されば

            他のことは知らず、信仰と伝道との事に於ては私は独立独歩である。今まで然(しか)りし如く将来も然るのである。

            器の大小は天の定め給いしところにて、人力を以て如何ともするを得ない。開拓者としての先生の偉大に至りて

            は、今さら事新しく云うまでもない。しかし鷲がひとり蒼空を翔ける如く、雀もひとり林間をかけめぐる。姿の大小、

            羽音の強弱は今さら致し方ない。しかし鷲も雀も、おのおのその世界に於て独立独歩であり得る。

                                                (『著作集』第11巻.11〜12頁)

 

                私の現在最も願っていることは、先生(注:内村鑑三)から出来るだけ遠く離れたいということである。先生の没後、

            弟子の中には益々先生に近よろうとする人がある。彼らはたびたび先生の墓をたづねる。先生の遺物をなつかし

            げに抱く。先生の多年福音を説いた講堂に集まる。そしてその柱にも壁にもしみ込んでいる先生の息を呼吸しよう

            とする。先生の教を受けた人々を糾合して、一集会を造ろうとする。何しろ万事が内村先生を中心として回転する

            のである。‥‥‥‥‥‥私は埋葬式の時のほか、一度も先生の墓を訪わない。これからも多分、ごく特殊の場合

            のほかは訪わぬであろう。先生の遺物を私はなつかしまない。先生の講堂に集まることに何の興味をも感じない。

            先生亡き後、先生を中心とする集会を起すなどは全く意味をなさぬことと考える。私は少しも先生に近よろうとしな

            いのみならず、出来るだけ先生から ― 先生の記憶から離れ度いと考えている。なぜと云うに、先生に近よるほど、

            私の独立が損われるからである。

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

             ‥‥‥‥‥しかし私はもはや先生からも研究誌からも独立したのである。これからは私を内村先生の助手と見

             ないで、一個の独立人とみて貰い度い。そして私の行動や文章について批判するならば、どうぞ先生を標準とし

             ないでたゞそれ自身として貰い度い。

              私は先生の感化は受けたが、先生の信じた通りに基督教を信ずる義務はない。私は先生の説いた事と全く反

             する事を或は説くかも知れない。‥‥‥‥‥‥私は先生の樹立した基督教の宣布者ではない。小さいながら私は

             上より示されて真理を信じ、且つそれを説くものである。公人としての私は現在は先生とは全く無関係である。

                                                        (『著作集』第12巻.550〜554頁)

 

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  人 生

             信者は罪を犯さぬ者であって犯す者である。彼は義人であって罪人である。彼は白くして黒い。彼の手は洗わ

            れていて洗われていない。彼の心は潔められていて潔められていない。この不思議な矛盾が地上にあるあいだ

            の彼の姿である。‥‥‥‥‥‥‥

             之は理想と実際の矛盾ではない、事実と事実の矛盾である。理想と実際の矛盾といえば世にありふれた平凡

            なものであって、クリスチャンにもあるけれども、此處での問題ではない。信者は二つの事実を身に於て体して、

            その矛盾の中にゆられつゝ此世を送るものである。二つの事実であって、理想と事実ではない。罪を犯さぬとい

            うも事実、罪を犯すというも事実である。

                                                          (『著作集』第6巻.564〜565頁)

            

             人生に対して暗き声を放てば、いくらでも放ち得る。不完全な、罪の僕たちの組織している社会に完全を求める

            ことは、月に真昼のひかりを求めるようなものである。けれども我らは「欣求浄土」(ごんぐじょうど)を唱(とな)えるが「厭

            離穢土」(おんりえど)を叫ばない。叫んではならない。こんな厭な、きたない、何もかも無茶苦茶な世にありても、この

            世の生活戦場の人として働かねばならぬ。逃げてはならぬ。黄塵(こうじん)のなかに突きすゝんでゆかねばならぬ。

            躊躇(ちゅうちょ)しないで、怖れないで、泣きごとを言わないで、やるだけの事をやらねばならぬ。‥‥‥‥

 

             若い人々よ、職がないと言うか。職がなくとも何かすることがあるであろう。今の不況時代をいくら詛(のろ)っても

            仕方がない。それよりか何でも手に触れる事をするがよい。‥‥‥‥

 

             若い人々よ、薄給(はっきゅう)だと言うて呟(つぶや)くのか。労が多くて利益は少いと言うて不平を言うのか。過ぎたる

            は及ばざるに如(し)かずと言う。すべて働き以上に物を以て酬(むく)いらるゝは危険である。たゞで貰うことは、たまし

            いを最も多く汚すことである。‥‥‥‥どうせこんな世である。薄給は大多数の人々の当然の運命である。少数の

            貴族富豪の中に加わるよりか、大多数の薄給者の中に伍する方が安心である。汽車旅行をするのに、三等の方

            が却(かえっ)て心持がよい。

 

             ‥‥‥‥私は伝道を特に貴い仕事とは思わない。独立伝道だからとて、特別に尊い仕事であるのではない。‥‥

             神が活きているならば、少数の人にのみ貴い仕事を与えるという筈はない。或種の仕事は賤(いや)しくて、その賤

             しい業に従わねば生活できぬという事のあるべき筈がない。どんな業でも皆貴いのである。正当な業――額に汗

             してパンを得る業ならば、それは皆貴いのである。そしてその間の貴さに何の別もない。すべて同じ程度に貴いの

             である。

 

               ‥‥‥‥‥私はありふれたものが却て貴いと思う。‥‥‥‥偉人を貴くないとは言わぬ。しかし多数の凡人が

             ありてこそ人類社会は組織される。偉人が現れなくとも、凡人だけでもどうやらやってゆける。けれども偉人だけで

             はやって行けない。‥‥‥‥

 

              だから私はすべての凡人を貴い人と考え、すべての人間の職業を貴いものと考える。その間に区別を立てない。

             そして凡人が、自分の業に従って生活のために奮闘している姿を貴いと考える。私自身について云えば、私が伝

             道に従っていることが他に比して貴いのではなく、むしろ私が一家の生活の為に奮闘しているところに貴さがある

             と思う。もちろん私は生活のために伝道してはいない。しかし独立生涯の私の日々の業が、おのづからその反面

             において生活のための奮闘を意味する。そして私はその半面に、却て多量の貴さを思う。それは万人共通のもの

             であるが故に、少数者に限られるものでない故に。

              一家七人が私の隻腕に頼っている。私はこの隻腕を神に投げかけて奮闘している。独立と称して依頼に陥って

             はならぬ。故に私は一生懸命である。私のみならず、すべて一家の責任を負っている労働の子は一生懸命である。

             そしてその奮闘が充分貴いのである。生活のための労働を卑しいと考えるものは、人生を侮辱するものであり、涙

             ぐましい人間の奮闘に泥を塗るものである。

                                                    (『著作集』第11巻.87〜90頁)

 

                 私は自己一身の事についても、常に希望をもち続けて来たことを感謝する。私は何事についても、いつも

             「これからだ」と考えながら、今日まで歩いてきた。自分の前途には自分の既往に比して、はるかに良いもの

             があるに違いないとおもいつゝ来た。歩めば歩むほど路が広くなり、進めば進むほど光が多くなると思いつゝ

             来た。今もそう思っている。探検者が、すでに踏んだ地には何の興味もなくして、たゞ之から踏むところの新

             しい世界にのみその全幅の興味をかけているように、私は明日以後の世界にたゞ引きつけられる。‥‥‥

 

              私にとりては、人生は早春の連続である。‥‥‥‥

 

              かくて「行きづまり」はあり得ない。よし在ったとしても、それはすぐ打開されるに違いないと信ずる。何しろ

             明日は今日よりは必ず多少なりとも良いのである。そして地上の生の盡(つ)きるところは、永への生の始

             である。此世では老い朽ちて、次の世には嬰児として生誕する。そしてまた毎日を、今日より明日はより良い

             と信じつゝ送る。

                                                     (『著作集』第11巻.103〜105頁)

 

                 永遠はわれらの可視界にはない。永遠を求むるものは、之を見えぬ世界に於て探るほかない。そして一た

             び永遠をさぐり当てた者にとりては、流転の人生はまた甚(はなは)だ意味ふかい。この生にこだわるから、その

             流転の姿が痛ましく感ぜられる。この生にこだわらないで、之を静観する余裕をこゝろに得れば、人生はまた

             興味津々たる処として見られるのである。

 

              ‥‥‥‥この世、この生、それは我らの国ではない、誰か他の人の国である。われらは此世にては寄寓者

             である。だから、我らの思うようになる筈がない。人生不如意は当然である。どうせ他人の国である。異域であ

             る。焦慮するには及ばない。第三者として静観していればよい。

 

              熱狂した行列が盛に何かわめき立てながら過ぎてゆくのを、路傍に立ちて静かに眺めていたならば、何と

             面白い観物であることよ!‥‥‥‥‥或者は声高く叫びながら、或者は獣のような声を出して演説しながら、

             或者は泣いて人の憐みを乞いながら、或者は失望のこうべを深く垂れながら。これを路傍に立ちて眺めてい

             る気持になっていれば、いかに我らは幸なことであろうか。クリスチャンは此態度にあることを必要とする。

                                                           (『著作集』第11巻.108〜109頁)

 

                 所詮(しょせん)此世は、どの点から見ても冬の世界である。‥‥‥‥人は此世に生るゝや否や、直ちに

              墓に向って旅をつゞけるのである。‥‥‥‥死を以て終局とする点に於て一人の除外例をもゆるさぬ人間

              世界は、どう考えても死の世界である。冬の世である。

                                                     (『著作集』第11巻.161〜162頁)

 

                   クリスチャンは過去に生き又未来に生きる。過去の回想には慚愧(ざんき)と悲涙とが伴うけれども、その

               一切を貫いて存する神愛に対する感謝を主潮とする。そして之は齢と共に高まる。同時に、未来への希

               望も齢と共に高まる。前程は次第にあかるく、次第に広がり、次第に輝きを増すように感ずる。要するに

               クリスチャンとは、永遠線上の一点に立ちて、感謝を以て過去を見、希望を以て未来を望むものである。

                                                        (『著作集』第11巻.173頁)

 

                されば永遠なるものを求め、おもい、信ずるだけが人生の本義である。その他は余業にして、どうでも

               よい事である。どうでもよい事というのは、しなくてもよいという意味ではない。その結果に執しないことで

               ある。結果に執するが故に悲んだり、失望したり、たかぶったり、怒ったりする。結果についての認識を

               棄てゝしまえば、こゝろには常に侵(おか)しがたき余裕がある。‥‥‥‥‥‥

                「あとは野となれ山となれ」という語を善い意味において自己の生涯に適用し得るものは幸いである。

                   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                私はこの余裕ある心境を充分につちかいたいと願う。これは決して退嬰ではない。またもちろん此世へ

               の妥協ではない。永遠なるものに向っての躍進であり、したがって汚濁の地を離れることである。さりとて

               世捨人ではない。国を愛し世を憂える心を棄てるのではない。しかしそれに囚われないところに、まことの

               住むべき世界を見るのである。しかし頽廃的の近代物質文化は、大都会を築造して、そこを人間霊魂の

               墓場とする。そこには霊魂の死者が、外の扮飾を以て醜き死屍をかざって、右往左往している。そのあい

               だに棲んでいるわれらは、とかく永遠なるものよりも一時的なるものに心をおおく傾けるおそれがある。わ

               れらが時にそこをのがれるのは、まことの住むべき世界よりひきはなされぬための、さゝやかな心づかい

               からである。

                                                                 (『著作集』第11巻.269〜271頁)

 

                    正しく歩んでも、貧しいものは貧しい。却て悪しく歩む者の方が栄える。それにも拘らず、人は正しく

               歩まねばならない。正しさはそれ自身富であり、不正はそれ自身貧であるから。

                                                       (『著作集』第12巻.52頁)

                 

                                                                        [畔上賢造 目次]  [ホームページ]

 


 独立伝道

 

               だから伝道二十年、私は今も荒野の旅をつゞけている。それが独立者の当然の道である。生あたゝかい

              空気、晴れがましい衣、盛りあげられた肉は荒野にはない。冷たい雨、吹きすさむ風に襲われて、行くとこ

              ろを知らずして歩くのが荒野の旅である。今日ありて、明日あるを知らぬ。たゞ毎日与えられた事をなし、導

              かれる道をあるく。何一つ世の人に向って、或はまた同志に向っても、誇るものがあるのではない。‥‥‥

 

               もし人から援助や支持を期待せねばならぬようのものならば、独立は独立でない。‥‥‥‥

 

               のみならず、冷笑、悪評、誤解、軽侮の的となることも、当然の事として覚悟していなくてはならぬ。‥‥‥

 

               所詮、かわり易き人の心を的としての伝道である。人の心はど世に頼みがたきものはない。故に伝道者は、

              どんな場合にも、独り立てる者であるとの意識を喪ってはならない。‥‥‥‥

 

               友も頼みがたし弟子も頼みがたしと云うのが、私の二十年の伝道生涯の重なる体験である。‥‥‥結局、

              独立は依然として独立である。どこまで往っても、独立である。どこまで往っても、依頼ではない。

                                                      (『著作集』第11巻.114〜117頁)

 

                                                                        [畔上賢造 目次]  [ホームページ]

 


  福 音   

            

                福音はどんな人でも手を届かせ得るところに値がある。福音はダイヤモンドではない、ルビーではない、

               空気である、水である。だから心を翻して、之を受ける気になりさえすれば、誰人にも受けられ得るもので

               ある。故に福音は深く人のたましいに根ざしたものでなくてはならぬ。誰にも具っている霊的生命を伸ばす

               ものでなくてはならぬ。あたかも樹木にある生命が、大地の潤いと日光の輝きとを受けておのづから伸長

               するように、人に本具せる霊的生命がキリストの輝きと聖霊の潤いとに接して、おのづから伸びゆくもので

               なくてはならぬ。自然の生命も霊の生命も、その伸長の原理は同一である。全く自分と離れた或者になる

               のではない、自分の中に備っている者が開発されるのである。

                                                         (『著作集』第11巻.136頁)

 

                    福音はもともと事実として起ったものである。理論として起ったものではない。故にそれに生命があった

               のである。生命は常に事実の中にあって理論の中にはない。

                 初代の信者たちは事実を事実と信じて、そこに永遠不朽の生命を感得した。ゆえに彼らは日々死に

               直面するような患難の中に在りて、なお欣然として十字架を負い得たのである。‥‥‥‥‥

                 福音を理論的に研究することが悪いと云うのではない。哲学者はその哲学思想に愬(うった)えてこれを

               学ぶもよい。科学者はその科学に照してこれを究めるもよい。しかし、生ける事実がその本質であることを

               忘れてはならない。

                                                          (『著作集』第12巻.153頁)

 

                    ‥‥‥‥‥私はやはり福音をさえ説いていればよいと思っている。尤も預言者的精神にあふれて、大い

               に叫ぼうとするのはその人の自由であるが、もし然うならば煙幕を張らないで、あくまで正々堂々と生命がけ

               でやるのが本当だとおもう。生半可のことはしない方がよいと思う。しかし僕はこの際ますます永遠の真理を

               説きたいと思っている。もう此世のことに飽きたのかも知れない。

                  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                僕は臆病なのかも知れない。僕の態度は卑怯なのかも知れない。しかし僕等は福音第一であって、その他

               のことは第二、第三にしたいとおもう。‥‥‥‥‥‥とにかく私は福音の他にはもう興味が失くなってしまった。

               老人になったのかも知れない。

                                                          (『著作集』第12巻.310頁)

 

                                                           [畔上賢造 目次]  [ホームページ]

 

 


  救 い 

                「救」という語を極て浅い意味に於て用うる人がある。これ基督教的意味の「救」を知らざるからのことで

               ある。信仰に入ったことを救われたと称するのは、聖書的には正確でない。聖書的に云えば人は信ずる

               ことによりて義とせられ、その信仰を続くることによりて遂に救われるのである。故に信者は信仰によりて

               義とせられた人ではあるが、既に救われた人ではない、これから救に至るべき人である。

                 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                されば凡てのクリスチャンはこの救を与えらるゝことを以て信仰生活の主眼とすべきである。信仰により

               て如何に多くの慰めや、歓びや、安けさや、勇ましさが与えられても、救を取り逃がすことゝなりては一切

               が無である。ぜひとも之を目標として進まねばならぬ。然らば我等は如何にして此目的を達成するを得る

               であろうか。それは唯信仰の持続によりてゞある。それがために我等は殊に功を樹てなくてもよい、善行を

               行わなくてもよい、立派な信者とならなくてもよい、偉大優越なクリスチャンとならなくもよい、又必しも信仰

               が強まらなくても高まらなくてもよい。たゞとにかく信仰を持ち続けさえすればよい。

                                                        (『著作集』第6巻.619〜620頁)

                

                 ‥‥‥‥‥これらは我らの主義主張であって、われらを救うところの信仰ではないと。信仰は人を救う、

               けれども主義主張は人を救わない。‥‥‥‥‥われらの第一義的生命は、罪を贖われるところの十字架

               の信仰である。そのほかに救いはない。それのみが救いである。‥‥‥‥‥もし仮に、その信仰を確保す

               るために、かの主義主張を捨てねばならぬ場合ありとすれば、われらは喜んで我らの主義主張を捨てねば

               ならない。

                                                          (『著作集』第12巻.99頁)

 

                                                                         [畔上賢造 目次]  [ホームページ]


  信 仰

 

                   ‥‥‥‥‥‥しかし理論的の説明より大切なものがある。それは事実を事実として受ける信仰であ

               る。すなわち信仰の眼を以てイエスの十字架に対することである。そして上よりの光をもとめることである。

               理論的の検討が無益であるとは云わない。それはついにわれらを単純なる信仰にまで導くものになる場合

               において、初て価値がある。‥‥‥‥‥宗教問題においては理論はいかに精到であっても、生命がなくば

               無価値である。苟(いやし)くも生命さえあれば、理論はあっても無くてもよい。

                                                     (『著作集』第10巻.206〜207頁)

 

                 樹は何故かくも能(よ)く育つか。それはただ大地にしっかりと根を据(す)えているからである。彼らに心が

                あるか何うかは知らぬが、幸いにして彼らは自ら大地から己を抜き去る力をもっていない。だからただその

                ままに動かないでいる。そして充分に日の光を受け、また大気を呼吸し、地より養分を吸いあげる。大地と

                陽と空気と水とが彼らを育てる。もちろん彼らとても、育ててくれるものに一切をまかせて自分は居眠りをし

                ているのではない。根は根として、幹は幹として、枝は枝として、葉は葉として、おのおのその為すべき事を

                なして怠(おこた)らない。ただ羨ましいのは、かれらに焦燥気分がない。彼らは無理な事をしようとあせらない。

                ただするだけの事はする。そしてあとは一切「あなた任(まかせ)せ」である。それでどしどし伸びてゆく。茂って

                ゆく、栄えてゆく。

                                                         (『著作集』第11巻.144頁)

 

                     唯一の神を信ずるのである。幾つかの神を信ずるのではない。従って、何故此神が我に苦難を与えたか、

                何ゆえ斯(か)くも我をなやますか、ということが当然問題となる。そしてその解答をあたえるものも神のほか

                では有り得ない。だからこの神に向って迫ってゆく。つぶやく場合もある。感謝のみして居れぬ場合もある。

                それでも兎(と)に角、他の者に訴えることはしない。訴えることはできない。神を忘れてしまえば問題はなく

                なる。之は明かに一の方法であるが、この方法を採ることは到底できない。したがって、何でもかでも神に

                向って迫ってゆく。悩みに悩んでいる際ゆえ、神に向っての言は無茶苦茶である。それでも神を忘れる

                よりはよい。神を棄ててしまって、整頓した語を発して落着き払っているよりは、たとい無茶苦茶な語で呟

                (つぶや)きを投げかけても神を棄てない方がよい。たましいの整っている時でも、乱れている時でも、何しろ

                神を対象としてぶつかって往くのがよい。

                                                              (『著作集』第11巻.154〜155頁)

 

                     忍ぶことはよい。けれどもそのために心を守ることを忘れてはならぬ。義理や人情を重んずることはよ

                い。けれどもそのために心を守ることを忘れてはならぬ。愛のために己を苦めるのはよい。けれどもその

                ために心を守ることを忘れてはならぬ。己の心を守らぬところに生命はないからである。我らは己の心を

                守る範囲に於てのみ人にゆづる事が出来るのである。

                                                       (『著作集』第12巻.38頁)

 

                     ファイテング・スピリット(戦闘的精神)のないものは、クリスチャンではない。

                                                       (『著作集』第12巻.334頁)

                   

                      

                                                            [畔上賢造 目次]  [ホームページ]

 


   生活教

 

                二つの宗教がある。一は礼拝本位のそれ、一は生活本位のそれ。すべての異教及びカトリック教は前者、

               まことの基督教は後者である。礼拝教はおのづから祭司教となり、人は祭司によりて神を拝す。しかしその

               人の生活と宗教とは、何の関係にも入らない。しかし神より人を救う所の真の宗教は、生活教であり、労働

               教である。そして祭司階級を斥(しりぞ)けて、人おのおのが生命の本源に直通するのである。

                                                       (『著作集』第2巻.45〜46頁)

 

                    樹木は自然樹として、はじめて真の成長発達を遂げる。これを鉢に植えて盆栽とするは、人工的にして、

                天然物を人間の趣味の犠牲とすることである。自由の野に育ち、宇宙の大気を吸い、思うままに日光に

                浴し、また時々は暴風迅雷の襲撃を受けて、初めて樹は樹としての立派な成長を遂げる。しかるに盆栽

                となりて、此世の雨風より保護されるときは、幾十年を経ても、まことの成長を得ることが出来ないで、僅

                かに有閑老人の玩弄物として役立つのみである。しかるに世には盆栽的クリスチャン多く、また盆栽的

                クリスチャンを造るを以て伝道と考えている伝道者が多い。教会という温室の中に閉ぢこめ、忠実な教会

                の会員として造りあげ、型にはまった、外形だけの、豆粒のように小さく、薄紙のように弱い信者をこしら

                えあげる。小さくまとまっている。人形のように可愛らしい。小君子である。しかし教会という保護者をはな

                れると自立できない。すぐ枯れ凋(しぼ)んでしまう。此世の雨風にさらされて成長しなかったからである。信

                者として最も大切な戦闘心が少しも養われていないからである。かような盆栽的信者が、とかく敬虔・謹直・

                謙遜等の美名を以て呼ばれている。しかしそれは外形だけであって、実質的には幼弱小愚にして、物の役

                にはたたないのである。

                                                        (『著作集』第2巻.379頁)

 

                     世を離れたところに神殿を造営し、それを神の住みたもう神聖な場所と見做し、そこに或る時間を礼拝の

                ために送る。その時だけが信者であって、その他のときは不信者である。したがって礼拝はあるけれども

                戦いはない。安全第一である。そして宗教的欲望は或る程度まで充たされる。温室的の宗教生活にして雨

                も降らず風も吹かない。偶像的宗教はこれである。祭司的宗教はこれである。

                 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                 礼拝的宗教また祭司的宗教に相対するものは、イエスのつたえた神の教である。或る時間を礼拝にもち

                いることではなくて、全生活の根柢的原理として信仰をいだくことがイエスによりて要求される。これは信仰

                を以て全生活を貫くことである。‥‥‥‥‥即ち実践的の信仰である。‥‥‥‥‥‥基督教はいかなる点

                から見ても、徹頭徹尾福音主義的救拯のうえに立つ。すなわち信仰中心主義である。しかしその信仰は決

                して単なる礼拝本位ではない。「愛に由りてはたらく信仰」(ガラテヤ五・六)である。すなわち実践的の信仰

                である。‥‥‥‥‥生きてはたらく信仰である。

                                                     (『著作集』第2巻.461〜462頁)

 

                      ‥‥‥‥‥此世はかゝる世である。しかし此世にとゞまりて日々の活動に従い人生の経験を積む事に

                よりて、イエスを我救主として得ることができる。‥‥‥ 彼を友として獲(え)るためには、たゞ彼について聖

                書に読んだゝけでは足らぬ。教師の説明に聴いたゞけでは足らぬ。彼についての良書に目をさらしたゞけで

                は足らぬ。不義なる此世に生活して、或は憤り或は悲み、或は憂え或は疲れ、或は苦められ或は罵られ、

                血涙こもごも迸(ほとばし)るあいだにありてのみ我等はイエスを真に友として獲(え)ることが出来る。此世に

                ありて我理想は思うように遂げられぬ、我思うことは充分には実行されぬ。しかしイエスという友をつくるた

                めには、不義の此世は最上の場所である。今や此世にありて我等の思うような仕事は容易に見出されず、

                望むような地位は容易に得られぬ。我心に完全なる道義的満足を与えるような仕事や地位を求むることは、

                沙中にダイヤモンドを求むるが如く至難である。しかし我等はイエスを友とせんためには此世にありて働か

                ねばならぬ。‥‥‥‥

                                                      (『著作集』第2巻.605〜606頁)

                                                                     [畔上賢造 目次]  [ホームページ]


   無教会  

                 ‥‥‥‥‥しかし我らは何よりも甲殻をかぶることを厭(いと)う。甲殻をかぶった時はわれらの死んだと

                きである。われらは空をかけめぐる雲の如くありたい。宇宙の塵をはらう風の如くありたい。逆うものを排し

                て流るる水のごとくありたい。流動は生命であり、凝固は死である。われらは過去において屡々起った宗教

                運動のごとく、原始の生命を失って、一の宗派として固定し了(おわ)ることを極度に憎む。無教会主義が一の

                宗派になり了るぐらいならば、むしろその死滅せんことを願う。すでに宗派となってしまったものは、生命を失

                った形骸であるからである。

                                                     (『著作集』第11巻.326頁)

 

                     無教会生活について考える。もともとこれは此世の制度や形式の籠の中にとらえられることを嫌って、

                一生涯を山鶯のごとくうたい暮そうとする心の産である。思うさま自由の大気を吸い、気まゝに樹樹のあ

                いだを駆けめぐり、胸一杯に陽の光をあびて、人里よりは少しでも天に近い高原で、日ごと日ごと信仰の

                歌をうたい続けようとするものである。その歌が人にきこえても、きこえなくても、その曲が人に何かの善

                いものを与えても、与えなくても、そんな事に一切頓着しないで、たゞ天を相手にして歌い暮そうというので

                ある。もともと之が無教会であり、こうした自由生活を選びとったものが無教会人である。

                                               (『著作集』第11巻.353〜354頁)

 

                                                                        [畔上賢造 目次]  [ホームページ]

 


 天 国

                天国の特徴とは何か。言う迄もなく其無差別的状態に於てあるのではないか。あらゆる差別の集合所、

               これ即ち地である、又地の上に立てたる人の国である。全き無差別の世界これ即ち天国である。

                                                    (『著作集』第2巻.524頁)

 

                                                                        [畔上賢造 目次]  [ホームページ]

 


 復 活

                 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                 キリストの復活は、右の如くにして信仰的事実である前に事実的事実である。それは彼がその復活体

                を以て明かに幾百人の前に己を現わしたという事実である。これが基督教の復活の信仰の起源であり、

                根底であり、又最大の特徴である。

                                                     (『著作集』第5巻.37頁)

                                                                         [畔上賢造 目次]  [ホームページ]

  

 


 略 歴

  1884 10 28   長野県上田町に生まれる

  1902 .4      早稲田大学予科入学。上京三ヶ月で父病気のため休学、家業の質屋に従事
 
  1903 10      早稲田大学に復学

  1904 10      内村鑑三の門下生となる

  1907 6       早稲田大学文学部哲学科卒業

  1907 11     千葉県立千葉中学(英語担当)に就職

  1909 4       成沢むつ(内村門下)と結婚

  1909 10     『聖書之研究』に「詩人ホイッチャ」寄稿、以後寄稿者となる

  1911 10     千葉中学を辞職、千葉県東金町堀上にて独立伝道開始(農村伝道に従事)

  1914 4      『平民詩人』(内村鑑三と共著)(警醒社発行)

  1915 12     『悲哀より歓喜まで』(洛陽堂発行)

  1916 11      『生命の一路』(洛陽堂発行)

  1917 11      『歩みし跡』(警醒社発行)

  1919 1      上京、『聖書之研究』社員となる

  1919 10      『基督再臨の希望』(警醒社発行)

  1922 3      『神の獨子の意義』(十字架書房発行)

  1922 4       『羅馬書釈義』〈警醒社発行)

  1924 3      『宗教詩人としてのブラウニング』(警醒社発行)

  1924 11 25   次女愛子、ジフテリヤにより急逝(自責の念に苦しむとともに、十字架の信仰を把握)

  1924 12      『十字架の蔭に立つ』(向山堂発行)

  1925 11      『ブラウニングの信仰詩』(向山堂発行)

  1926 9       『聖書の特質』(向山堂発行)

  1927 4       毎日曜午後、自宅で家庭集会開始

  1927 11      『ミルトンの生涯』(警醒社発行)

  1927 11      『復活と霊魂不滅の別』(一粒社発行)

  1928 9       内村の講壇を退き、自宅の集会を上落合聖書研究会と名づけ、毎日曜午前開催

  1928 10      『基督教要義』(向山堂発行)

  1929 5       『たゞ上を仰ぐ』(一粒社発行)

  1930 1       『日本聖書雑誌』(月刊)創刊

  1930 10       『ロマ書注解』(一粒社発行)

  1931 7       『初代の人々』(向山堂発行)

  1931 9       日曜集会を「中央聖書研究会」と名づけ、東京、丸ビルで開く(その後、場所を希望社講堂、青山会館別館に移転)

  1932 2       『聖書の基督教』(獨立堂発行)

  1932 11      『コリント前書注解』(一粒社発行)

  1932 12      『マルクスよりキリストへ』(獨立堂発行)

  1933 9       『思想善導と基督教』(社会教育協会発行)

  1933 11      『ガラテヤ書注解』(向山堂発行)

  1934 1       『無教会主義』(東方書院発行)

  1934 1       『東洋文化の復興と基督教』(建設社発行)

  1935 4       『たましひの歌』(土肥書店発行)

  1936 6       『基督教読本』(日英堂発行)

  1937 6       畔上賢造氏伝道二十五周年記念講演会(赤坂三会堂)

  1937 11       脳溢血で倒れる

  1937 12       『日本聖書雑誌』第九十六号にて終刊

  1937 12       「中央聖書研究会」解散

  1938 6 25     逝去

 

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 主要信仰著書

                『畔上賢造著作集』(全12巻).畔上賢造著作集刊行会.1940〜1942.

 

 参考文献

             『独立伝道廿五年 畔上賢造先生伝道廿五週年記念講演並感想集 』. 久野正次 編集兼発行. 

                                                   中央聖書研究会青年会. 1937.

             『資料 戦時下無教会主義者の証言』. オカノユキオ 編. キリスト教夜間講座出版部. 1973.

                 「畔上賢造集」(29〜100頁)

             『独立伝道者畔上賢造』 .藤本正高 編 .畔上賢造著作集刊行会 .1942

 

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