藤井 武

目 次

  [ 祈り ]  [ 神 ]  [ 神の選び ]  [ 信仰 ]  [ 真実 ]  [ 誠実 ]  [ 結婚 ]  [ 人生 ]

[ 試練 ]  [ 悲哀 ] [ ひとり ] [ 審判 ]  [ 預言者 ]  [ 預言者的信仰 ]  [ 復活 ]

            [ 来世 ]  [ 神の国 ]  [ 十字架 ]  [ 福音 ]  [ 救い ]  [ エクレシア ]

            [ 略歴 ]  [ 年譜 ]  [ 主要信仰著書 ]  [ 参考文献 ]  [ 記念講演会 ]

                                                   〔注〕『全集』‥‥『藤井武全集』 発行所 岩波書店

 

                                                                                      [ホームページ]


  祈 り

            まことに執成(とりなし)または代祷(だいとう)の原理は、愛のやみがたき発現として、人生に於ける

            最も美しい実在である。愛する者は執成す。而(しか)して執成のゆえに、愛せらるる者は滅びない。

                         (『全集』第2巻.177〜178頁) 

 

            私が自己の信仰上の怠慢(たいまん)(また)は多くの隠れたる罪にも拘(かかわ)らず、なお今日あり得る

            所以(ゆえん)は、知らざる時知らざる所に於ける、兄弟姉妹の同情の祈りによること、恐らく如何(いか)

            ばかりであろうか。既(すで)に小(ちいさ)き実験によって、私はその事実を疑うことが出来ない。

            私を愛する者の私のための祈は、現実に私の力である。この力なくして、私の現在もなく未来もない。

                                            (『全集』第2巻.178頁) 

 

            研究の友がある、趣味の友がある、併(しか)しとおときは祈りの友である。たとい文書の音信はなくとも

            夜ひる天の父のまえに共に相(あい)見て、互に代りて祈る霊魂と霊魂。その恵みは尽(つ)きず、その結びは

            断えない。わがたましい衷(うち)にくずおるる時、わが戦いに勝利あれとひそかに祈りくるる友の声に

            まさりて喜ばしき何の援助があるか。

                                            (『全集』第2巻.179頁)

 

            我らは弱い。しばしば我らはこころ切(せつ)に求めながら、なおいかに祈るべきかをさえ知らない。

            祈らんとして、思いは言葉を成(な)さず、言葉は意味を成さない。かくて暗中を模索するように、

            我らのたましい徒(いたず)らに 喘(あえ)ぐ。‥‥‥‥

            祈りは断じて努力又は義務ではない。祈りは愛の父に対する子たる者の自由の発言である、

            否(いな)むしろ信頼の心そのものの呼吸である。罪びと我らは、一分間も祈りなしには生き得ない

            のである。我らは心のそのままに祈る。‥‥‥‥

            然(しか)り、多くの場合に於て我らの言葉は「神様」又は「エス様」の連呼以上に出でないのである。

            ‥‥‥‥‥‥

            我らが如何(いか)に祈るべきかをさえ知らずして、意味なきに似たる呻吟(しんぎん)をつずける時に、

            聖霊はその乱れたる我らの胸の中にありて、みずから言いがたき切実深刻なる欲求を以(もつ)て、

            我らの祈りを代言してくれる。

                                             (『全集』第2巻.179〜180頁 )

 

            我らの祈は屡々(しばしば)神のみこころにかなわない。故(ゆえ)にそのままには聴かれない。

            併(しか)しながら聖霊は我らのために、我らの祈以上のものを祈る。我らの祈を神の意思に合致

            せしめて祈る。………

                                             (『全集』第2巻.181頁)

  

            基督者(きりすとしゃ)よ、汝(なんじ)らも神を信じて、祈れ、祈れ、なやみの中より、つまづきの間より。

            汝らの途も亦(また)備えられるであろう。汝らの低きものは高くせられ、汝らの躓(つまず)きは取り除かれて、

            遂にキリストの像が汝らの衷(うち)に成るであろう。たとい十年二十年、求むるものを得ずとも、

            失望せずして、日々に祈れ。

                                             (『全集』第2巻.183頁)

  

            神によりて希望を抱く者はまた自らその希望を祈祷として神に言い表わすを禁ずることが出来ない。

            而(しか)して希望はかかる祈祷によりて更に一段確きものとせられるのである。

                                              (『全集』第2巻.222頁)

 

            ここに名もなき男女のいと小き群がある。彼らはただ心よりイエスを慕うて生きている。彼らは

            夜の初更に彼の名を呼んでおのが心を水のごとくみまえに濯(そそ)ぎ、また朝ごとに彼に醒(さ)まされて

            木の葉のささやきのごときその声を聴く。時として彼らの唇に肚(はら)の底よりの震動は伝わり、

            その眼瞼(がんけん)に人の知らざる雫(しずく)はむすぶ。 

                                              (『全集』第2巻.459頁)

 

            祈りとはいうものの、私のは多くの熱心なる基督者(きりすとしゃ)がなすところのものと稍々(しょうしょう)

            違うようである。善(よ)かれ悪(あ)しかれ、私には努力としての祈りはない。私は神と相撲を取ろうなどと

            思わない。 私は祈祷(きとう)そのものに信頼しない。私のいのりは、私が絶対に信頼しまつる所の父に

            対する私自身の おのづからなる発表に外(ほか)ならない。何故(なぜ)に祈るのか、祈らずには居られない

            からである。

            それが  聴かれようとも聴かれまいとも、私の知るところではない。私はただ自分の全生涯をお任(まか)

            する者の前に、一切の事を絶えず告白せずには、生きられないのである。…………

            夕やみに閉ざされながら野みちを往(ゆ)くとき、見よ、私の全心に神を呼ぶ声がある。その声いつと

            知らず私の唇に出る。誠にみかおを我が前に置かずしては、聖名(みな)を呼びつずけずしては、一時半の

            漫歩の間私は殆(ほとん)ど何ものをも考えないのである。

                                                (『全集』第3巻.293頁)

 

            ………死者が天国に於て生者のためにささぐる祈りほど力強き働きはない。

            斯(かく)の如(ごと)く召されて既に天の国にある者はなお地上にある者を憶(おも)い、彼らのために祈る。

                                                (『全集』第3巻.462頁)

 

            ………泣く者は涙のままに、楽しむ者は笑いのままに、或(あるい)は超えゆく患難の大浪(おおなみ)の下から、

            或は信頼の高峰の麓(ふもと)から、臥(ふ)しどの上から、田圃(たんぼ)の中から、およそ神をめぐりての思い

            という思いは、如実(にょじつ)に赤裸(せきら)に披瀝(ひれき)せられている。そうしてほんとうに祈りとは実にこういう

            ものではないのか。

                                                (『全集』第4巻.5頁)

 

            虐(しいた)ぐるものの嘯(うそぶ)きに対して、虐げらるるものにはただ祈りがあるのみである。彼はただ

            神にむかって叫んでいう。神よ、いつまでも打ち棄(す)て置かずに、速(すみや)かに起(た)ちたまえ。

            力ある聖手(みて)を挙(あ)げて、虐ぐるものらを撃(う)ち下(くだ)したまえ。虐げられて悩める憐(あわれ)れむ

            べきものらを忘れたもうなかれと。併(しか)し実際において神はそう速かに起ちたまわない。彼は容易に

            聖手を挙げずして、あたかも悩めるものらを忘れたかのごとくに放任したもう。

            ………神は弱きものの祈りをただちに聴きたまわないのである。………

                               ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            神は果(はた)して顧(かえり)みたまわないか。神は果して忘れたもうたのか。誰か知ろう、人が冷淡をもって

            彼を恨(うら)んでいるときに、彼は彼のためにいかなる驚くべき配慮をなしつつあるかを。神は一切(いっさい)

            を見たもうのである。

                                                (『全集』第4巻.148,150頁)

 

            応答なき神をどこまでも信じてかく祈りつずけるうちに、突如(とつじょ)として手ごたえが感ぜられる。

            声がきこえる。神の応答である、「なんぢ我にこたえたまえり」。何の連絡もなく暗中(あんちゅう)たちまち

            閃(ひらめ)きいづる光明(こうみょう)

            祈りの応答は屡々(しばしば)かくの如(ごと)くにして我らに臨(のぞ)む。初めは祈っても祈っても聴(き)かれない。

            自分はいたづらに空にむかって呼わりつつあるのではないかを疑う。幾(いく)たびか祈りにつかれて

            之(これ)を廃しようとする。その時こそ恐るべき時、自暴自棄のこころの萌(きざ)す時である。併(しか)

            又(また)ひるがえって神の人格をおもい、信仰の歴史をおもい、自分の過去の経験をおもうて、ようやく

            励まされる。かくて矢張(やは)り祈るよりほかに途(みち)なきを知り、信頼を取り返して再び祈る。乱れし心

            そのままに、すべてほかの事を忘れて祈りに祈る、神聴きたもうまで、父の答えたもうまでは已(や)むまじと、

            ひたすら祈りに祈る。かくするうちに、遂に忽然(こつぜん)として声はきこえて来るのである。信じて、つづけて、

            祈りは始めて聴かれる。信頼なき祈りは聴かれない、どこまでも続けゆかざる祈りは答えられない。

                                                 (『全集』第4巻.225頁)

 

            生命の充(み)ち溢(あふ)れるときには、我らは決して儀式を慕わない。会堂が何か、奏楽が何か、

            説教が何か、我らは野に出でて、樹かげに佇(たたず)みながら聖名(みな)を呼び、街頭を歩きながら

            感謝する。まことに我らの祈祷は広小路にあり、停留所にあり、電車の中にある。我らの讃美は

            書斎にあり、工場にあり、台所にある。

                                                 (『全集』第5巻.168頁)

    

            イエスの祈祷には、彼のあらゆる行動に於(お)けると同じように、定まりたる形式なるものは全然なかった。

                                                 (『全集』第5巻.172頁)

 

            しばしば私は弱くして如何(いか)に祈るべきかをさえ知らない。併(しか)し私の胸の中に宿るところの霊は

            悉(ことごと)く之(これ)を了解し之に同情して、言いがたき歎きを以(もつ)て私のために祈ってくれるのである。

                                                 (『全集』第5巻.236頁)

 

            私が祈りをする時、何処(どこ)かにありて私を憶(おも)い私の祈りに添(そ)えて祈る人は、私の最も親しき友

            でなければならぬ。斯(かく)の如(ごと)き祈りの援助が信者を力ずくること幾何(いくばく)であるかわからない。

            地上に於(おい)てそれがある、天上に於てそれがある。信仰の友の加祷(かとう)がある、聖霊の加祷がある、

            而(しか)してまた天使の加祷がある。恰(あたか)も古きユダヤの大贖罪日(だいしょくざいび)に於て一人の大祭司が

            全会衆の祈りに添えて馨(かぐ)わしき香の煙を挙げたように、世界終末の日、一人の貴き天使が全聖徒の

            ために加祷するであろう。その同情の祈りにつつまれながら、アダム以来すべて神に頼りし者の祈りは、

            一つだに失(う)せずして神の前に昇るであろう。其(その)中には私のすべての祈りもあるであろう。

            聴かれずに終つたと思いしものもみな失せずしてあるであろう。

                                                 (『全集』第5巻.340頁)

 

            聖書の中に明白に示さるる約束のほか、神はなお我ら一人びとりに対し屡々(しばしば)契約を立てて

            祝福を約束したもう。祈りによりて断(た)えず神に近づくものは誰かその事を実験しないであろうか。

            祈りの中に我らは神の声を聴く、それは殆(ほとん)ど常に約束である。実に我らが聖名によりて何ものかを

            神にねがい求むるとき、祈りそのものがやがて契約である。かくて我らは常に神の約束を目標とし、

            日々に新しき契約によって励まされつつ進む。

                                                  (『全集』第6巻.292頁)

 

            我らは時として祈に疲れようとする。併(しか)しながら我らの小き経験にも打消しがたき証明の声がある。

            我らの祈りはまた幾度(いくた)びか聴かれたではないか。神は幾度びか我らの生涯に来臨(らいりん)したもうた

            ではないか。小き成就は大なる成就の預言である。過去の経験は未来の経験の保証である。‥‥‥

            神は未だ成らざる約束を必ず成したもうであろう、未だ聴かれざる祈祷を必ずいつか聴きたもう

            であろう。

                                                  (『全集』第6巻.298頁)

 

            我らはただ祈る、「どうぞイエス様! 私をすっかり占領して下さい。私のすべてをあなたの聖手(みて)

            収めて下さい。どうぞこの身をあなたの器として潔めて下さい、そしてみこころのままに御使い下さ

            い!」と。その時、私は知る、私の内にある聖霊みづから言いがたきの歎きを以て、私の祈を助け

            てくれることを。

                                                  (『全集』第6巻.406頁)

 

            アブラハムの古き昔より今の時に至るまで、幾度びともなく、人の立場より見て到底望みなき病が

            ただ一すぢの熱心なる祈によって見事に癒された。理論はいざ知らず、事実は之を疑うことが出来

            ない。何となればこれ歴史の証明する所であるからである。

              ‥‥‥‥‥‥‥‥

            問題は人の眼に絶望なる病が果(はた)して祈によって癒されたか否かにある。而(しか)して我等は疑う

            べからざる幾多(いくた)の文書により、その実例の古来(こらい)(はなは)だ少くない事を知るのである。

            理論は暫(しばら)く措(お)き、事実は証して曰(い)う、神は祈に答えて我等の病を癒(いや)し給うと。

                                                   (『全集』第6巻.462,466頁)

 

            人は意識的にか無意識的にか、皆祈らんことを欲する。何となれば彼は本来発言的生物であって、

            而(しか)してその対象は人より以上のものたるを要するからである。

               ‥‥‥‥‥‥

            いのりは人として発し得べき最も正しく且(か)つ深き言語である。何となれば之れ我等がまことの神の

            前に正しき立場に立ちて己(おのれ)が全心を吐露(とろ)するの声であるからである。

                                                    (『全集』第7巻.66頁)

 

            現に見よ、今日何処の教会に聖徒の集いらしき腸に浸(し)み亘(わた)るほどの恩恵味を湛(たた)うるもの

            があるか。

            ‥‥‥而(しか)してその主たる原因は外(ほか)ではない、会衆全体の純なる祈祷の霊の欠乏にある。

                                                    (『全集』第7巻.69頁)

 

            「静けき祈の時はいと楽し」とは誠に我等の実験である。祈にまさる慰めはない。祈は決して

            義務ではない、特権である。祈らざるは愛の堪(た)えがたき苦痛である。而して神も亦(また)子たる者の

            告白を聴くことを上なき悦びと為し給う。愛なる彼は之を聴かずしては安んじ給わないのである。

            かくて天には聴かんと欲する父の愛あり、地には聴かれんと欲する子の愛がある。この二つの

            大なる愛の間に生れしものが即ちいのりである。

                                                    (『全集』第7巻.72頁)

 

            私は数ヶ月に亘(わた)りて殆ど絶えまなく祈った。或る夜私は夜もすがら祈りつづけた。次の夜も

            同じように始めた。しかし衰弱せる健康は二昼夜の不眠に堪(た)えなかった。幾日かの後、

            私は心を尽して祈った。膏(あぶら)は汗のように額から滴(したたり)り落ちた。私はゲッセマネを憶(おもう)うて、

            何となく始めて祈らしき祈が出来たように感じた。私は私の祈がそのままに聴かれることを少しも

            疑わなかった。

             しかし私の祈は遂に聴かれなかったのである。私はつつまず告白する、その時以後暫(しばら)くの間、

            私は祈に疲れ果てて、また祈ろうとする心を起し得なかったことを。‥‥‥‥‥

            ‥‥‥其(そ)の望みが失(う)せた時に、私の実感はありのままに、「わが祈は聴かれなかった」という

            にあった。

             それ限りに然(しか)らば私は全く祈らない人になったか。そうではなかった。むしろ私が聖名(みな)を呼ぶ

            ことは前よりも更に切(せつ)であった。‥‥‥‥‥

            ‥‥‥努力としての祈、それが私から消えたのである。そしてただ自らなる祈のみが之(これ)

            代ったのである。

                                                    (『全集』第7巻.97〜98頁)

 

            私は私の祈を人に知らるることを好まない。私は実は人の前にて祈るを大なる苦痛とする。

            集会の席上に已(や)むを得ず祈りはするものの、私としてはそれは多くの場合に於て真実の祈

            ではない。集会の司宰者としての公然の祈は全会衆の心を代言するものでなければならぬ。

            そのためには祈祷の準備すなわち一種の予習さえ必要とせられ、甚(はなは)だしきに至(いた)っては

            朗読祈祷さえ行われるに至る。もし単に集会又は儀式そのものの整備の上より見るならば、

            それも已むを得ぬ事であろう。併(しか)し斯(かく)のごとき祈祷が真実の祈祷でない事だけは明白である。

                                                    (『全集』第7巻.98頁)

 

            即ち我等の祈祷らしき祈祷が出来るようになったのは全くキリストを信じてからの事である。

            キリストを信じ聖霊をうけたるが故に祈祷が出来るのである。我等の祈り得るはキリストの力

            である。キリストを離れては祈る事も出来ない。‥‥‥‥

            キリストわが衷(うち)にあってわが為に祈るのである。わが祈り得るはキリストの為、又わが祈の

            聴かるるはキリストの祈であるからである、‥‥‥‥

                                                    (『全集』第9巻.237頁)

 

            聖書に繰返し書いてある真理に一つは我等の祈が必ず聴かれるという事である。‥‥‥

            真の祈には条件がある。先づ第一に主の御名(みな)によって祈らねばならぬ。‥‥‥

             第二に少しも疑わずして熱心に祈り続けねばならぬ。祈っては見たものの聴かれそうな

            様子もないからと言って、中途でやめるような祈は真の祈ではない。

                                                    (『全集』第9巻.459頁)

 

                                                            [藤井武 目次]  [ホームページ]

 


  

 

            今も多くの基督者は神の行動を小き公式の中に編み込もうとする。例えばいう。神を信

            ぜよ、然らば平和の生涯に入るであろうと、祈れよ、然らばすべて聴かれるであろうと。

            併しながら多くの場合に於て信者の生涯は平和ではないのである。多くの場合に於て祈

            りそのままには聴かれないのである。そしてそれで善いのである。神は人の如き小き方

            ではない。彼は人の考えるようには考えたまわず、人の歩むようには歩みたまわない。

            彼の思は永遠の思である、彼の途は天の途である。天の高きにありて永遠のために

            最善なる事を神はなしたもう。故に彼の行動は人の尺度(ものさし)にて到底これを計るこ

            とが出来ない。

                                                   (『全集』第3巻.231頁)

 

               私はここにある。エホバはかしこにいます。ここ窮迫の谷底、かしこ聖き山。ここから声を

            あげて私は呼わる。かしこからこだまの如く彼は答えたもう。みだれたる私の声、たしかな

            る彼のみことば。断えざる呼びかけ、断えざる応答。

             必ずしも祈が常にそのままに聴かれるというのではない。人格者としての反響のことで

            ある。とにもかくにも神は死せる者のようでなく、生ける者らしく、我らの要求に何らかの手

            答を与えたもうのである。我らは触れてみて知っている、神は生きていたもうことを。そうし

            てそれで足りるのである。然り、神は生きていたもう!

                                                   (『全集』第4巻.97頁)

 

              神の怒というものを今の人は殆ど問題にしない。そんなものがあろうかと彼らは高を括つて

           いる。

            併しそれはあるのである。あるばかりでない、それは恐ろしいものである。自分が出遇つて

           それと気付いた者は知って居る。聖怒(みいかり)をもて責められるほど辛い事はない。聖憤(みい

                  きどおり)をもて懲らしめられるほど堪えがたい経験はない。神はまことに憚(はばか)りたまわぬ

           方である。かれ一度び我らの罪をつみしたもうにあたっては、戦慄すべきほどに鋭き処置を

           とりたもう。

                                                 (『全集』第4巻.110〜111頁)

 

              神の永遠の存在! 是よりも大いなる事実はない。この一つの事実のなかに、一切の事が

           籠っている。‥‥‥‥希望はここにある。神の存在を信ずるか否かである。

                                                  (『全集』第4巻.137頁)

 

              私は思う、神がもし我らの小き頭脳を以て悉(ことごと)く了解し得るような者であるならば、その

           為したもう所が悉く我らの予想に適合するような者であるならば、「何ゆえ」という驚異の声を

           それにむかって投げかける余地のないような者であるならば、然(しか)らば私は到底、神を信

           ずることが出来ないであろうと。何となれば、斯(かく)のごとき神は実は神ではなくして、わづか

           に人間に毛の生えた者に過ぎない。

                                                  (『全集』第4巻.149頁)

 

              雷雨のなかに力の神、義の神、審判の神を見るは平凡である。不信者も然(しか)せざらんや

           である。併しながらその中に変りなき永遠の愛の神を見いだし、人の思に過ぐる「平安」の祝

           福を見いだすに至ては、まさしく人生観の革命であるといわねばならぬ。斯のごとき人にとっ

           ては、最早や恐るべき事はなくなったのである。何がどうなっても、帰着する処は必ず感謝で

           ある。何となれば、斯のごとき人のためには凡ての事相働きて益をなすからである。一つの

           例外もあり得ない。すべての不幸、すべての患難、すべての苦痛は、彼らの信仰の炉に於て

           奇しくも悉く恩恵と化する。それは大なる奇蹟である。併し真実なる神の子の何人にも許さるる

           奇蹟である。

                                                 (『全集』第4巻.270〜271頁)

 

             今私のたましいの渇き求むるものはただ一つである。然り、ただ一つである。神である、活ける

          神である。活きて私と相抱き得る者、その懐ろの中に私の飛び込み得る者、私の痛みを説明なし

          に悉く解し得る者、大なる温き手を以て私の手を固く握り得る者、真実に私と共に泣き得る者、而

          して私の涙を拭い得る者、噫、斯の如き人格者を私は今切に渇き慕うのである。哲学者の抽象的

          なる神ではない、神学者の冷き神ではない。悩めるたましいの父なる神、愛なる活ける神 ―彼の

          顔を私は今まのあたり仰ぎ見たさに堪えられないのである、彼の言を私は今鮮かに聴きたくて堪

          まらないのである。

                                                  (『全集』第4巻.273頁)

          

 

                                                                          [藤井武 目次]  [ホームページ]

 


 神の選び

 

               神のみこころは変らない。彼の選んだ者は彼の選んだ者である。その選びは永遠に動か

            ないのである。彼は勿論不従順を怒りたもう。彼は幾たびか己が僕を投げ棄てたもう。併し

            幾たびこれを投げ棄てたもうとも、彼の選びたもうた者は遂に彼の有(もの)である。

                                                    (『全集』第2巻.93頁)

 

               選ばれたる者の生涯は何というても犠牲である。もともと彼はみづから進んで神の僕となっ

            たのではない。神が彼の耳を開いて何事かを告げたもうたのである。その神の手または言

            が余りに力強く彼に訴えたために、彼は逆わんと欲して逆うことができず、退かんと欲して

            退くことができなかったのである。最初からして彼の心の態度は受身である。己の意思によ

            らず、ただ神の意思に従うたのである。従て彼の全生涯がおのづからまた受身でなければ

            ならぬ。彼は何事をもただ神にお委せする。彼を撻(むちう)つものがあっても、彼は自らど

            うこうしようと思わない。ただ神を信頼して、うつものに静かにその背をまかせる。鬚(ひげ)

            をぬくものには頬をまかせる。唾をはくものには面をまかせる。みな神が善きように始末し

            たもうであろう。自分の分はそういう事にない。自分はただ神のみこころに従えばよいので

            ある。神のなせと命じたもう事をなしさえすればよい。神の与えるといいたもうものを受けさえ

            すればよい。自分自身などはどうでもよい。どんなに踏みつけられても、或は殺されてもよい。

            それが聖意ならば、感謝して受けるまでの事である。

             弱いようで強いものは信頼である。そこにはあらゆる力に勝る力がある。神に選ばれたもの

            がただ彼に信頼して立つとき、何の恐怖かあろう。

                                                     (『全集』第2巻.97〜98頁)

                                                                      

                                                                         [藤井武 目次]   [ホームページ]

 


 信 仰

 

           ‥‥‥‥どんな理由があったにもせよ、とにかく神はそうしたのであります。そうです、それ

           は神のした事であります。そうしておよそ神のした事は、絶対に正しいのであります。誰が

           それを疑うことが出来ますか。誰がそれを批判することが出来ますか。「何故」というて理由

           を訊すは、神のみわざに対しては無益であります。何故でもよろしい。分っても分らなくても

           宜しい。腑に落ちても落ちなくても宜しい。とにかく神の為したもうた事である以上、我らは

           絶対無条件に之を肯定するよりほかに、何をなすべきでありましょうか。

            ‥‥‥‥‥‥

           正しきが故に神は欲するのではない。神の聖意なるが故に正しいのであります。正義とは

           神の意思に対して与えられた名称に他なりません。

            そうしてこのように絶対無条件に神の聖意を肯定すること、それが信仰であります。

                                                  (『全集』第3巻.104〜105頁)

 

             信仰は断じて幸福の手段ではありません。

            ‥‥‥‥‥

           宗教は断じて文化の手段ではありません。信仰の目的は信仰それ自身においてあります。

           神を信ずること、即ち神を所有すること、その事が始であり終りであります。それが全部で

           あります。信ずる者の満足はそこにあります。

                                                  (『全集』第3巻.107頁)

 

              神の名を呼ぶということ、それは何でもない事であります。‥‥‥「神様!」と言うて心か

           ら彼に依りすがるだけの事であります。ただそれだけの事。何でもありません。

            けれどもこの何でもない事、この誰にでも出来る最小き事が、実は人の為し得る最大の

           事であるに相違ないのであります。

                                                (『全集』第3巻.112〜113頁)

 

              ‥‥‥‥私が神を信じますのは、一切そういう理由からではありません。すなわち彼を了解

           することが出来たから、もしくは彼の処置を理性的に是認し得るからではありません。

            ‥‥‥‥‥‥

           すでに神である以上、私は無条件に彼に信頼します、盲目的に彼に依り縋(すが)ります。彼

           が果して不公平でないかどうかを私は知りません。彼を悉(ことごと)く理解するがごときは到底

           不可能の事と私は信じます。それで善いのであります。どんなに不公平に見えても善い。どん

           なに不可解であっても構(かま)わない。ただ神であれば即ち足りるのであります。神の不公平

           は真実の公平であります。神の不可解は絶対の真理であります。

                                                    (『全集』第3巻.118頁)

 

             ‥‥‥境遇としては、私どもは飽くまでも世に留まりて委ねられた使命を果すべきであります。

           併しそのために、心は一度世に対して死なねばなりません。即ちキリストとともに十字架につ

           けられて、もはや此世に興味なき者とならねばなりません。慕うところは天にある者、地の事

           はどうでもよき者とならねばなりません。是は傾向や程度の事ではなくして、either or(是か

           彼か)であります。死に切るか否かであります。国籍を天に移すか否かであります。二重国籍

           は許されません。

                                                  (『全集』第3巻.121〜122頁)

 

              多くの人は信仰を単に救いの問題として見て居る。救われんが為めの信仰である。

            ‥‥‥‥‥

           神を信ずる者は多い。併し救いを究極の目的として神を信ずる者は実は信ぜざる者である。彼

           らは神を自分の僕として使用しつつあるに過ぎない。自分の救いの為である、自分の為である、

           自分が中心である、自分が目的である、自分が一番大事な者である。彼らの神は神ではなくして

           実は自分である。自分の為に役立つ限り神を信じ、然らざるに至って之を棄てる、斯(かく)の如き

           ものが信仰であってはたまらない。信仰は絶対信頼である、一切委任である、全部献供である。

                                                     (『全集』第3巻.178頁)

 

              福音と微温とは其性質上絶対に両立しない。口に福音を唱えて微温的生活を営む者は最大の

           偽善者である。

                                                      (『全集』第4巻.76頁)

 

              信頼する者は委任する。夜ごとに私は一切の荷物を大風呂敷に包んで彼の聖手にお預けし、自

           分は全く問題無しの裸の身となりて寝床に横たわる。宵越しの苦労は私にない。この故に朝(あした)

                 に目さめるとき、讃美は私の唯一の意識である。

                                                      (『全集』第4巻.98頁)

 

             神は神の効用の故にこれを信ずべきではない、神自身の故に信ずべきである。彼が自分に

          如何なる恩恵を与えたもうかではない、彼自身が如何に聖き方にていますかである。それによ

          っての信仰である。

                                                      (『全集』第4巻.190頁)

 

               ‥‥‥‥‥‥‥‥

           信仰の特質の一つはここにある。望むべくもあらぬ時になお望みて信ずるのである。望むべく

           ある時に望むは信仰ではない。信ずるというからには必ずや其処に超現実の要素がなくては

           ならぬ。目に見えざるが故に信ずるのである。手に触れざるが故に信ずるのである。頭に理解

           し得ざるが故にこそ信ずるのである。信仰の領分は当然理性の外にある。理性の達し得るか

           ぎりは信仰は要らない。

                                               (『全集』第4巻.467頁)

 

                                                                          [藤井武 目次]  [ホームページ]


 真 実

 

           神に従わない事は罪である。併(しか)しながらそれは未(いま)だ罪の最大なるものではない。

           罪の最大なるものは何か。神に従わずして而(しか)も従うがごとくに自らを欺く事これである。

           孤児と寡婦とを虐げながら、神殿に出でて礼拝を守る事である。盗み殺し姦淫しながら、燔

           祭(はんさい)と犠牲とを献げる事である。真実の欠乏はそこにある。虚偽はそこにある。神は

           これを憎みたもう。彼はいかなる罪を赦すとも、虚偽のみは赦したまわない。

                                                     (『全集』第2巻.262頁)

 

             信仰の途は真実に人たるの途である。然(しか)るにも拘(かかわ)らず、信仰ほど偽善を伴いや

          すきはない。ここには従うべきの権威があるからである。ここには守るべきの本分があるから

          である。その権威にそむかざらんがために、その本分を傷わざらんがために、人はしばしばお

          のが良心に反響なき行動を取る。即ち心よりの動きにあらぬただ外側の形をつくろう。例えば

          聖書に兄弟と和睦せよとあるが故に、心いまだ和がざるに往きて敵と手を握るがごとき、もしく

          は自分は基督者なるが故に、つとめて愛する者の死を泣かずに在るがごときの類である。それ

          は俗眼には或る聖潔とも敬虔とも見えるであろう。併しながら神のまえにはいかに空虚のすさび

          ぞ。いづれも偽善である。神はおそらく彼らにむかって言いたもうであろう。虚しき祭物を持ち来

          るな、むしろ往いて、争え、泣けと。

                                                    (『全集』第2巻.425〜426頁)

 

                                                                         [藤井武 目次]  [ホームページ]

 


 誠 実

 

           滔々(とうとう)として現代に漲(みなぎ)る形式的信仰に対して、また偽善的の信仰がある。信仰

           の正統を標榜する人々の中にそれが多い。彼らの説く所は貴い。彼らは能く祈り能く伝道

           する。聖書は常に彼らの手にあり、感謝は常に彼らの唇にある。相会すればまづ感謝し、

           而して信仰的術語をもって会話する。これはみなよい、ただ疑う、彼らは人として果して誠

           実であるか。彼らの生活に忌むべき不自然性が見えるのは何故か、外は金、内は鉛の永

           遠疲労の外套を彼らは纏うて居るからではないか。

            宗教家は今少しく「誠実」の貴さを悟らねばならぬ。私は語弊を顧みずして言う、誠実は

           信仰よりも貴いと。

                                                        (『全集』第4巻.338頁)

 

                                                                        [藤井武 目次]  [ホームページ]


 結 婚

 

           まことに結婚の神聖は神の自ら定めたもうた原始的大憲であります。その中に無限の情操

           があります。およそ神と人との人格的交渉の最も深き精神は、この観念によるのでなければ

           之を攫(つか)むことが出来ないのであります。従て厳密に正しき結婚観念のない所に、深き

           生活は期待さるべくもありません。

                                                     (『全集』第3巻.109頁)

 

                                                                         [藤井武 目次]  [ホームページ]


 人 生

 

           人生および宇宙の目的は大なる祝祭又は祝宴にあるとの思想は、聖書の中に充ちて居る。

            ‥‥‥‥‥

           ‥‥‥人生の目的は祝福にあるからである。我らは遂に天国の宴に与(あづ)かるべき筈の

           ものに造られたのである。この故に我らの霊も血気も身体もみな悦楽を慕う。之はこれ人の

           自然の本姓である。神の植付けたまいし本能である。

            ‥‥‥‥‥

           聖書は無理を人に強いない。聖書は弱き人性に十分に同情することを知る。人は事実上永

           劫の苦難に堪え得るものでない。‥‥‥

            ‥‥‥‥‥

           我らを以て禁欲主義の徒と誤解することなかれ。我らに聖潔にして且つ無限なる享楽の希望

           がある。我らに大なる祝祭の特権がある。‥‥‥‥我らは悦楽そのものを排斥しない。我らは

           悦楽を慕う人性を無視するものでない。否、おおよそ事実に直面することを回避する思想は、

           たとい如何ばかり高尚なるものであっても、私は断じて之を取らない。私は弱き人間である。

           その私の弱さを認めざる福音は私に取ては少しも福音でない。

                                                    (『全集』第3巻.51〜53頁)

 

             人生は一種の戦闘であり労役である、而して死は之に対する安息であるという。其事はそのま

          まに真理ではないか。‥‥‥

           ‥‥‥‥‥‥‥

          地上の教会を呼んで「戦闘の教会」というは誠に適切なる名称である。戦闘と労役とは現世に於

          ける栄光である。

                                                     (『全集』第3巻.220頁)

 

            歴史は預言である、経験は希望である。

                                     (『全集』第4巻.99〜100頁)

 

            私は時として或る憂愁に落ちる。自己の存在の理由の曇りゆく憂愁である。自分のごとき者が

          かくの如く存在する事にどれだけの意味があるのであろう乎と。‥‥‥併しながら斯く思う毎に、

          私は何処からともなく一つの声を聞く、曰く「否、なんじは自分のため又は人のために世に造り

          出されたのではない、なんじの存在の理由は私にある。汝の生命は私の悦びのために造られ

          たのである。‥‥‥汝は私のために生くべきである、自分のためならず、人のためならず、私

          のために、私の悦びを全うせんがために、汝は生きまた死ぬべきである、‥‥‥‥」と。

                                             (『全集』第4巻.126〜127頁)

 

             基督者はキリストにありて既に勝てる者である。既に罪の法(のり)より解き放されたる者であ

          る。既に全く潔められたる者である。彼の聖潔は天にありて完全に実現して居る。

           基督者はその肢体に宿れる罪の法(のり)に絡まれて苦しむ。彼は屡々善を欲して之をなさず、

          悪を憎んで之を行う。彼は人のうちの最も悩める者である。

           何れが真である乎。何れも共に真である。前者は基督者の客観的生活であり、後者はその

          主観的生活である。

           まさに大なる矛盾である。基督者の生活は矛盾の生活である。然らばこの大なる矛盾を如何

          にするか。答えていう、主観的生活の上に衣のごとく客観的生活を着よと。換言すれば「我」の

          上に「キリスト」を着ることである。「我」がキリストのなかに没入することである。彼の懐(ふところ)

          の中に飛び込むことである。彼に一切を委せてしまうことである。更に換言すれば、彼を信ずる

          ことである。ただキリスト・イエスを信ぜよ。然らば我らの主観的生活は我らの客観的生活に呑

          まれ、化せられ、我らはキリストの心を以て生き得るであろう。

                                              (『全集』第6巻,92〜93頁)

 

           近代に益々多いといわれる発狂の原因は何であるか。その最大多数は自己中心的人生観の

          ためではないか。人は本来愛に生くべきものとして造られたのである。生活の中心を自己以外の

          人格者に置くべきものとして定められたのである。之を移して自己に置くは発狂の始まりである。

          何となれば中心の位置狂うて必然その全生活が狂わざるを得ないからである。もし多くの人が

          ただ自己に就ての興味を棄てて兄弟のためにその生涯と所有とを献げようとさえ決心するならば、

          如何ばかり幸福なる日をみることが出来るであろう。人生の禍いの凡ては自己中心の思想から

          来る。

                                             (『全集』第7巻.469〜470頁)

                                                                          [藤井武 目次]  [ホームページ]

 


 試 練

 

           ‥‥‥神が彼等を突き放したのである。神は昔より屡々、己に信頼する者を却て荒浪の中に

           突き放して、而して意地悪くも自己の姿を匿し給うたのである。

           ‥‥‥恩恵の途を奥深く分け入りし神の子等にして、この苦がき試煉に遇わない者がある乎。

           邪(よこしま)なる世にありて信仰を守ること多年、霊的悪闘を続けたる基督者にして、右に掲げた

           る如き詩篇の言を己が実験の声と為さない者がある乎。信仰の生涯は決して讃美感謝の連続

           のみではない。其間に恐るべき試煉がある。神のみかおを見失うは基督者の苦難の最大なる

           ものである。而も神は時として彼等になやみを与うると共に自ら姿を匿し給う。これ彼が特にそ

           の愛する者に対して取り給う最も意味深き処置であると見える。

                                                   (『全集』第4巻.278頁)

 

                                                                        [藤井武 目次]  [ホームページ]


 悲 哀

 

           私は信ずる、人生の禍いを如実に深刻に味い得るこころは、神の我等に与え給う最大の賜物

           の一つであることを。神は其の子等をして先づ人らしき人たらしめ給う。兄弟の死を傷みて泣く

           マリヤを見て、共に「涙を流し」給いしイエスの心を有たない者は、たとい何であろうとも神の子

           ではない。神に頼る者に悲哀は亡くならない、却てそれは愈々(いよいよ)深くなりまさるのである。

                                                    (『全集』第4巻.275頁)

 

                                                                          [藤井武 目次]  [ホームページ] 

 

                                                                        


 ひとり

 

           ひとりにて為(な)されざりし何の偉大なる事がある乎(か)

           孤独は神の経験である。従て又すべて彼に肖(に)るもの、彼に近くあるものの経験たらざるを

           得ない。

           我と共に地を踏み、我と共に呼吸しつつある十幾億のたましいが、みな見識らぬ人である事を

           覚る時、全世界のうち唯ひとりだに我を解する者なきを覚る時、ああそれは如何ばかりさびしき

           発見ぞ。

                                                      (『全集』第2巻.168頁)

 

                                                                         [藤井武 目次]  [ホームページ]

 


 審 判

 

          審判とは何か。ものがその性質に従うて如実(にょじつ)露わされることである。その神に対する態度

          に従うて神より適当なる待遇を受けることである。すなわちものの存在の決算であり、世界の秩序

          の整理である。

           果して然(しか)らば、審判は近代人の考えるように厭(いと)わしきものではない。審判の神かならず

          しも怒の神ではない。却(かえつ)て神の神らしさは審判において完全に現われる。神は万物を審判く

          と共にまたその事によりて自らを審判きたもう。神の愛、神の義、その一切の性質が如実に発現す

          るは実に審判の日である。

           是(ここ)においてか我らは知る、審判は救の条件であることを。否、むしろ救は審判の一部である

          といわば更に適切であろう。審判なくして救はない。ただ神の大なる審判によりてのみ現在のもろも

          ろの不公平、不義、暴虐は悉(ことごと)く倒逆せしめられるのである。之によりてのみ永遠の義は天と

          地とに住むにいたるのである。

           貧しき者の天国を獲るは審判である。悲しむ者の慰めらるるは審判である。柔和なる者の地を嗣

          ぐは審判である。義に飢え渇く者の飽くことを得る、憐憫ある者の憐憫を得る、心の清き者の神を見

          る、平和ならしむる者の神の子と称えらるる、いづれも審判ならぬはない。彼らにとっては審判こそい

          とも望ましき祝福である、光明である。

                                                   (『全集』第2巻.412〜412頁)

           

                                                             [藤井武 目次]  [ホームページ]


 預言者

 

             おおよそ預言はまづその時代に適切なる使信であることを本領とする。時代の真実なる要求に応

          ぜんがための神の啓示が預言である。故に預言者は時ありてか理想の立場をとりて、未来の出来

          事をもさながら過去のごとくに語るとはいえ、それはおのづから現実の時代のための必要という事に

          よって条件づけられる。預言者はいかなる場合にもおのが時代を忘却しないのである。従(したがつ)

          彼らは偶々(たまたま)未来の世界に移ることがあっても、急激かつ暫時の飛翔(ひしょう)ののち、直(ただち)

                にまた現実の立場に復帰するを常とする。

                                                       (『全集』第2巻.111頁)

 

             預言者の声は沸騰の響きである。それは熱くして強くある。何となれば彼等に委ねらるる神の使信は

           時代の痛切なる必要に応ずるものであるからである。彼等は己の属する時代に向て、その急所に触

           (ふ)れて語る。彼等の言はまず第一に現実である、時勢に適切である。凡(すべ)ての預言にこの歴史

           的性質がある。預言者は決して漫然として現在と関係なき未来の空想を説(と)かない。

            併(しか)しながら時代に対する使信たる預言の発信者は人ではない、エホバである。彼は即ち世界の

           歴史を己が手にて導く者である。彼は一切の事実をその終局の姿に於て予見する。彼は万物の理想

           を神の国の実現に於て認むる。而(しか)して彼は此(この)理想の成就を目的とする大なる経綸の中に、

           あらゆる歴史的出来事を畳(たた)み込まんと欲(ほつ)する。是(これ)に於てか彼が何(いず)れの時代に対し

           て寄(よ)するの使信も自ら其(その)大なる経綸に基かざるを得ない。

            ‥‥‥‥‥‥‥‥

            かくて預言者は必ず目を挙げて未来を望む。而して多くの人の見るを得ざる約束又は審判に就(つい)

           予告する。彼の予告せんと欲する当面の目的は勿論現実の事情と最も密接なる関係に立つ所の出来事

           である。併しながら彼の立場は常に高き山の頂に於てある。彼の視界は遠く遠く地の果(はて)にまで及ぶ。

           預言者の目は未来の歴史の山また山を超えて、遙かに此世の終末と神の国の実現の日とにまで注がる

           るのである。而して此峰と彼峰と、其間に果して幾許(いくばく)の距離を隔(へだ)つるかを彼は知らない。唯(ただ)

           知る、凡ての歴史的出来事は神の国の実現の日に至りて始めて其理想に達することを、従て此の末の日

           に着眼することなくしては、如何なる問題も未だその十分なる意義を発揮せざることを。此故に預言者は

           ただ己が瞳に映じたる遠大なる全景をそのままに語る。されば我等は一箇の預言の中にも近き未来の

           事実と相重なりて、また幾多の遠き事実の歴然と写し出さるるを見るのである。誠にその遠景に於て鮮か

           なる終末的色彩を帯ぶるは、預言の一特徴であるというを妨げない。

            ‥‥‥‥‥‥‥‥

           預言の精神は特定の出来事の予告よりも寧(むし)ろ聖なる歴史的法則の指摘にある。神は如何にして世界

           の歴史を導き給うか、人類の救贖は如何なる径路を経て完成するか、万物は如何なる摂理に由て理想の

           状態に達するか、之等の偉大なる法則を啓示する所に、預言者の主なる職能はあったのである。故に凡て

           の預言は、その中に現われたる法則を適用し得べき最高最大の事実を以てして、始めて完全なる成就をみ

           るものと言わねばならぬ。

                                                     (『全集』第2巻.118〜120頁)

 

                                                                          [藤井武 目次]  [ホームページ]

 


 預言者的信仰

 

              現代日本人はその知性に於て浅薄である。‥‥‥即ち或る哲学的立場より宇宙人生を観察してその全体

           を把握(グラスプ)することを彼らは知らない。彼らはみな近眼である。彼らはただ目前のものを断片的に見る

           のみ。彼らも近代の歴史的研究の潮流に浮びながら、何故に今少しく体系を求めないのであるか。何故に

           今少しく根本問題に対する興味を奮い起さないのであるか。また何故に彼らは何時までも独創の貴さを慕わ

           ないのであるか。

            ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           現代日本人の情性は余りに腐爛して居る。彼らは貞潔の匂いをも知らない。彼らは塵芥溜を漁り歩く野犬で

           ある。

            ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           現代日本人に意思はあるのであるか。私は屡々(しばしば)これを疑う。意思は人格の脊椎骨である。併し今の

           日本人は軟体動物に近い。‥‥‥彼らに死を以て守るべき主義もなければ理想もない。従て彼らは心より

           怒る事を知らず、また深く悲しむ事を知らない。彼らは運命に対してゴム毬(まり)である。圧せらるれば凹み、

           緩めらるれば膨(ふくら)む。‥‥‥今や日本人に意思らしき意思なき事は西洋人の認識する所となった。恐

           るるに足らざるものは日本国民の主張である、何となれば之を蹂躙(じゅうりん)するも彼ら日本国民は実は大

           なる痛痒を感じないからであるとは、英米両国民の最近の着眼である。‥‥‥

                                                      (『全集』第2巻.581〜583頁)

 

                                                                        [藤井武 目次]  [ホームページ]

 


 復 活

 

          キリストの復活は記憶でもない、霊魂の不滅でもない、彼の身体の復活である、一度十字架に釘(つ)

                けられ、死して葬られたるキリストが再びその身体を以て甦ったのである。之を信ずるの困難と否と

           を問わず、聖書に於ける復活の意義は疑うべくもない。

                                                    (『全集』第3巻.335頁)

 

             何故に今の多くの所謂(いわゆる)基督者に生命が無いのであるか。何故に主の名を唱えながら此世

          に倣(なら)うのであるか。何故に誠実にして温き愛のこころが欠けて居るのであるか。答えて曰く、復

          活のキリストの現在を実感しないからである。若(も)し生けるキリスト今現に我が前に立ち給う事を断

          えず実感するならば、多くの基督者の生活はその調子を一変せざるを得ない。況(いわ)んや親しく彼

          と交り、その霊を以て充され、豊かなる生命の供給に与(あづ)かるに於てをや。信仰生活とは畢竟(ひ

                っきょう)この生けるキリストとの結合及び交通の経験に外ならない。茲(ここ)に我等の活溌なるいのち

          があり、溢るる喜びがあり、輝く望みがあるのである。復活のキリストを信ぜずして内的生命の充実

          は之を望むべくもない。かかる人のたましいは寂しさに慄えて居る。而して生ける主の代りに必ず何

          か他の者を抱かずしては已(や)まない。かくて彼は生けるキリストならぬ如何わしきものを抱きながら、

          基督者としての高き地位に坐らねばならぬ。これ彼等の生活に幾多の見苦しき矛盾を生ずる所以(ゆ

                えん)である。現代基督者の病根の一は復活のキリストに結付かざる所にある。

                                                     (『全集』第3巻.354頁)

 

            我等の復活は世界の歴史が或る階梯に達したる時、即ちキリストの再び来り給う時、忽(たちま)ちにし

          て実現するのであるという。然(しか)らば其(その)時なお生ける信者は如何にすべきか。

           ‥‥‥‥‥

           答えて曰(い)う、生ける者は生けるがままに其身体を変化せしめられて、復活的状態に入るのであ

           ると。‥‥‥蓋(けだ)し復活は我等をして神の国に住ましめんが為の条件である。復活の特質は

           此処にある。即ち我等の血肉に代えて栄光の体を、朽つるものに代えて朽ちざる生活機関を賦与

           せらるる事である。而(しか)して朽つる者はたとい未だ現実に朽ちずと雖(いえど)も、永遠に朽ちざる

           者とは全然其性質を異にする。殊に我等の体は罪に由(よっ)て既に死にたるものである(ロマ八の

           一〇)。故に未だ生理的死に遭遇せずと雖も、神の国の立場より之を見て、一箇の死屍(しかばね)

           選ぶ所がない。問題は未だ死せざるか否かにあらずして、永遠に死すべからざるか否かにある。

           歴史にあらずして原理にある。復活は原理の変更である。死の原理を撤廃して、之に代えて生の

           原理を樹立する事である。故にその我等に臨むや、死者生者の区別がない。死者は復活する、

           生者は栄化する。而して生者の栄化も亦(また)その実質上復活の一種に外ならないのである。

                                               (『全集』第3巻.397〜398頁)

 

              聖書に於ける「甦(よみがえ)り」又は「復活」の意味は唯一つである。それは本来の意味に於ての

           死、即ち人の自然の死に対する復活である。人の生活を形づくるところの霊魂と身体とが一たび

           分離したのちにまた相結合して、全き生命に帰ること、其事が甦りであり復活である。自然の死

           以外に言うところの譬喩(ひゆ)的の死に対しては、私の記憶するかぎり、聖書は一度も復活という

           言葉を用いない。而して人の自然死に於て、失せゆくものは身体であって霊魂ではない。従て復

           活の最も著るしき特徴は身体の回復にある(勿論新しき身体ではあるが)。この故に人は往々「

           身体の復活」という。但し復活の概念は必ずしも身体のみに着目するものではない、身体と霊魂

           との結び付ける全生命即ち人そのものの復活である。

                                                 (『全集』第3巻.476頁)

 

             復活の後に至っても我らは各々我らであって他の何人でもない。我らを他の人より識別すべき個

           性は消え失せない。従て復活の日に於ける我らの容姿は大体に於て此世に於ける特徴を備える

           であろう。‥‥‥然らば我らの復活の容姿は世にありし間の何れの日の容姿に最も近似するの

           か。

 

 

 

                                                                          [藤井武 目次]  [ホームページ]


 来 世 

 

          多くの人は来世を以て休息の生活であると思う。‥‥‥‥かくて彼等は天国の生活としいえば、清き

          岸辺に親しき者と声を合せて賛美歌をうたい続けるような生活をのみ想像するのである。‥‥‥

           ‥‥‥‥‥‥

          併しながら来世生活の主たる要素は休息ではない、活動である。神の為にする没頭的活動、わが思想

          と行動との全部を名残りもなく直接に神に献げて行う不断の活動、親しく神に接してその声のままに彼の

          尽きざる意思を新しき実行に現わしゆく所の永遠の活動、それが来世に於ける我等の生活である。

                                                    (『全集』第3巻.315〜317頁)

 

            死は必ずしも人の必然の運命ではない、基督者は何人も死を経過せずして光栄ある来世生活に移り得べ

          き可能性を有すると聖書は此処彼処に於て明言するのである。‥‥‥我等が霊体を賦与せらるるは、何

          時とも図られざるキリスト再臨の時であって、その時現に生存せる基督者はこの新しき体を着せられんが

          為に必ずしも古き肉の体を脱ぐ(即ち死する)に及ばず、いわば古き体を纏えるまま其上に新しき体を着せ

          らるれば足りる。然(しか)らば死すべきものが死するの暇なくして其まま生命に呑まれ、死せざるものと化す

          るのであるという。‥‥‥‥斯(かく)の如き事実は今は基督者の多数さえもさながら迷信の如くにして之を嘲

          笑する。併しそは偶々(たまたま)彼等の来世観の不徹底と不熱心とを表明するのみ。来世を慕うて已まざりし

          初代基督者にありては、歓喜に溢るる未来の生活が死を飛び超えて直に現在の生活に接続し得べき事を

          少しも疑わなかったばかりでなく、彼等が之を慕い求むるこころは、恰(あたか)も重荷を負えるが如き切なる

          歎きとして現われたのである。

                                                     (『全集』第3巻.318〜319頁)

 

            来世の確信が人の現世生活の上に及ぼす積極的特徴は、その欠乏の場合に於ける消極的特徴よりも

          遙に顕明である。‥‥‥‥

           ‥‥‥‥‥‥‥‥

           何故に来世の確信は人をして勇敢に且つ楽天的ならしめるか。彼は人生に無限の進歩的未来あるを

          知り、従てその価値の測るべからざるものあるを憶うが故に、人生の為に献ぐる如何なる犠牲をも敢て

          吝(おし)まないからである。又自己の生命の不朽にして早晩必ず完成せらるべきを信ずるが故に、如何

          なる蹉躓(さてつ)も失望の理由とは成らないからである。‥‥‥

                                                       (『全集』第3巻.324頁)

 

            福いなる哉、来世に於て我等はただ夢幻の世界を彷徨する裸体の霊魂ではない。我等の聖められ

          たる霊は之に適わしき微妙なる体を纏い、完成せられし天地に住みて、最も自由なる活動を続くる

          であろう。即ち霊と体と天然との間に驚くべき調和が実現して、世界はそのままに一大音楽と化する

          であろう。愛する者等互に再び面を合せて美わしき地を踏みつつ純愛の語を交すであろう。基督者

          の来世は単純なる霊魂不滅ではない。凋(しぼ)むべき葉もまた凋まざること、朽つべき肉体も亦朽ち

          ざるものと化せらるること、身体の復活、身体の栄化、之ありて完全なる生活は初めて可能である。

                                                       (『全集』第4巻.79頁)

 

                                                                         [藤井武 目次]  [ホームページ]


 神の国

 

          神の国の原理は即ち神の支配である。無形的にもせよ有形的にもせよ、およそ神の名の正しく崇めらる

          る所、神の意思の完く行わるる所、そこに神の国があり天国がある。

           この故に神の国は或は神の子ひとりびとりの胸の中にあり、或は彼らの多数が聖名の下に形作るとこ

          ろの社会にあり、或はすべての聖徒が相結びて一体を成すところの教会(見えざる)にあり、或は召され

          て世を去りしものが集うところの天のパラダイスにあり、或は最後に地上に実現すべき理想の世界にあ

          る。一言にしていえば、キリストの在る所に天国はあるのである。地上たると天井たるとを問わない、現

          在たると未来たるとを問わない、個人たると団体たるとを問わない。重きはその外形ではない、その原

          理である、神の支配である、キリストの実在である。

                                                        (『全集』第3巻.469頁)

 

             烈しく迫る天国を奪う者は誰か。「烈しく攻むる者」である。かくいいて、奪う者自身の努力を意味する

          のではない。烈しく迫るものを奪うに何の努力の必要があろうか。天国は努力して奪うべきものではな

          い、信じて受くべきものである。併しながら之を受けんとする者に熱誠だけは無ければならぬ。信仰は

          努力ではない。受託である。従てそれは意思の誠実である、然り熱誠である。問題が遊戯に非ずして

          生くるか死ぬかの真剣勝負なるが故に、自ら熱誠ならざるを得ないのである。

                                                        (『全集』第5巻.29頁)

 

                                                             [藤井武 目次]  [ホームページ]

 


 十字架

 

          先ず神自ら義たらんためである。彼もし何時までも罪を見遁し過さんには、神は自ら義たるを得ない

          のである。‥‥‥‥神は罪を罪として扱わねばならぬ。その故に彼は敢て独子を十字架につけた。

          ゴルゴタの悲劇は即ち神自身の性格の必然的発露であった。神が自ら義たらんがためには斯くせざ

          るを得なかったのである。その意味に於て贖罪は何らかの結果を収穫せんと欲する手段ではなくして、

          それ自体に目的であったのである。然り、罪の正当なる処分は、罪人を救わんがための手段ではない、

          処分そのものが目的である。処分せんがための処分である。罪が神に対してどれだけの存在であるか、

          之に対する神の反動は何であるかを、事実を以て現わし得たらば、即ちその目的は達せられたのであ

          る。

                                                   (『全集』第5巻.213〜214頁)

 

                                                                        [藤井武 目次]  [ホームページ]

 


 福 音

 

          福音とは何か。之を神の側よりいえば、神の義の顕現である。之を人の側よりいえば、信仰によって

          生くるの途である。‥‥‥‥

           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           神の義と離るべからざる問題とは何か。曰く神の怒。信仰の前提となるべき事実とは何か。曰く罪。

           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           神の義の顕現の前に神の怒の顕現がある。救の事実の前にもろもろの不虔不義の事実がある。

          罪とそれに対する神の怒、この大なる問題に直面せずして絶対に福音はない。

                                                    (『全集』第6巻,31〜32頁)

 

                                                                         [藤井武 目次]  [ホームページ]

 


 救 い

 

          我等自身に智慧も義も聖も救贖もない、又ある必要がない。キリスト・イエスが即ち我らの智慧であり

          我らの義であり我らの聖と救贖とである。斯のごとくキリストとの連帯関係の故に、彼にある凡ての貴

          きものがそのままに我ら自身のものとせられる事、その事が救いである。それよりほかに救いはない。

          故に若しキリストと我らとの連帯関係を拒絶せんか、我らは永遠に救われない。‥‥‥‥

           ‥‥‥‥‥‥‥

          我らはただ何処までもキリストに結びつきさえすればよい。事毎に彼を見あげ、彼のふところに飛び込

          みさえすればよい。何ほど自分を見つめても、何ほど之を磨きたてても、そこから美しきものは現われ

          ない。善きものはすべてキリストにある。ただ彼を受入れよ、彼に親しめ、彼と一つになれ。然らば彼の

          ものがみな我らのものと成るであろう。信仰生活は自己修養の生活ではなくして、キリストとの結合の生

          活である。

                                                    (『全集』第5巻.106〜107頁)

 

           その時まで私は神を信じながら、なお真実なる平安というものを知らなかった。私の立場は私自身の

          歩みぶりか何かの原因によって何時にても動揺し得べき性質のものであった。或る大なる波が寄せ来

          らば、今にも私は神の愛より浚(さら)わるることがないとは誰が保証し得たか。私は寸時も油断してはな

          らなかった。断えざる警戒、断えざる緊張、断えざる祈祷、それが私の救を確保するために必要なる条

          件であった。

           然るに数年前よりこの心配はとみに私の胸から消え失せてしまったのである。今やたといいかなる事

          が起ろうとも、私を神より離らすことは不可能であると私は信じて居る。‥‥‥‥‥

           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           この平安は何を意味するか。私の救いが何らかの意味において既に完成して居る事の証拠ではない

          か。もし私の完きいのちが単に未来の予約に過ぎぬならば、如何なる故障が起ってその実現を妨げな

          いとも限らない。併しそれが既に実現して居る以上は、私は最早や安心してよいのである。私は既に戦

          に勝って居るのである。私は既に天国に入って居るのである。

           ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           私が失望を知らぬ人となったのは、此の事を実験してからである。我らの救はただに未来に於て約束

          に於て希望に於てあるばかりでない、また現在に於て事実に於て経験に於てある。神の前にありては、

          事はみな成就して居るのである。‥‥‥‥‥

                                                  (『全集』第6巻、352〜353頁)

 

                                                             [藤井武 目次]  [ホームページ]


 エクレシア 

 

          然らば教会とは何であるか。それは羊の群ではない、信者の団体ではない。教会はそれ自体に於て単一

          の人格者である。教会はキリストの新婦である、‥‥‥‥

           ‥‥‥‥‥‥‥

          従て教会は個人の救いのための手段ではない。却て個人の救いこそ教会の救いのための準備であると

          言い得る。

           ‥‥‥‥‥‥‥

          今の基督者は救いといえば何処までも個人の事であると考える。併し個人は個人のために救われるので

          はない、教会のためである。‥‥‥‥‥贖罪も再臨もその終局の目的は個人にあらずして教会にある。

           斯の如くに教会は個々の基督者の団体ではない、それ自身に単一の人格者である。併し又キリストとの

          関係より見るとき、彼女は独立の人格者というよりも寧ろキリストの一部分である。

                                                    (『全集』第5巻.484〜487頁)

 

            然り、エクレシヤはキリストの軍団である。

           ‥‥‥‥‥‥‥

           この故に私はまたいう、世と戦うことをせざる教会は悉く偽の教会であると。誰がそれを否定し得ようぞ。

          この頽廃の世と妥協するものに、何の信仰があろう。イエスに対する何の真実があろう。‥‥‥‥

          戦闘的精神こそは塩の味である。これを失うた現代教会は無用の長物でなくして何か。

                                                      (『全集』第5巻.617頁)

 

                                                                         [藤井武 目次]  [ホームページ]                   


 略 歴

  1888.1.15  石川県金沢市にて出生

  1909.夏   内村鑑三に入門

  1911.6   東京帝国大学法科大学政治学科卒業

  1911.7.9  西永喬子と結婚

  1911.11   京都府試補として京都府に赴任

  1913.2   夫人腸チフスの重患にかかるが奇跡的に回復、

        夫妻とも心身を基督にささぐることに心を定む

  1913.11   山形県警視として山形県に赴任

  1914.1   山形県理事官、地方課長兼官房主事

  1915    山形県立自治講習所開設

  1915.12   著述伝道に生涯を献げる目的をもって山形を去る

  1916    内村鑑三の助手として、講演の筆記、『聖書の研究』の編集手伝い、

        同誌への寄稿をなす

  1916    『聖書の研究』3月号の論文「単純なる福音」は贖罪論に関し内村の信仰と

        容れざるものあり、以後寄稿を差し止められる(12月末、寄稿の禁を解かれる)

  1918〜19  内村鑑三とともに再臨運動に奮戦

  1920.3   某氏結婚問題に関し内村鑑三と衝突し、その許を去る(1922.1.5交わり回復)

  1920.6   『旧約と新約』創刊

  1923.4   「羔の婚姻」第一歌

  1922.10.1  夫人逝去

  1930.7.14  逝去

               〔「年譜」矢内原忠雄作成(『藤井武全集(第10巻)』.岩波書店)による。〕 

                                                          [藤井武 目次]  [ホームページ]


年 譜

 1888. 1. 15   浅村安直(石川県士族、歩兵第七連隊旗手、陸軍歩兵少尉、後に大隊長・陸軍少佐)、

            タマキの次男として金沢市で出生。

 1893.4      金沢市西町尋常小学校入学。

 1897.3      小学校卒業(修業年限4年)。

 1897. 4      金沢市立金沢高等小学校入学。

 1899.3      高等小学校第二学年修業。

 1899. 4      石川県立第一中学校入学。第三年級から卒業まで特待生。

 1901. 11     実父が胃潰瘍のため重患となる。

            父の友人・藤井鉄太郎が見舞いに訪れた際に学問継続のため養子の申し出があり、

            申し出の翌日養子として入籍手続きをとる。但し引き続き実家に起居。

 1904. 3      石川県立第一中学校を首席で卒業。

 1904. 9      第一高等学校一部甲類(英法)入学。(黒崎幸吉、塚本虎二と同期。)

            東京に移住した実家に同居。

 1905.6. 18    養父死去し家督を相続。養母出京し大学卒業までその家に同居。

 1907. 6      第一高等学校を第二席で卒業。

 1907. 9      東京帝国大学法科大学政治学科入学。

 1908. 12    西永公平(石川県士族、弁護士)の長女・喬子(のぶこ)と婚約。

 1909        夏、内村鑑三に入門、「柏会」会員となる。 

 1910. 6. 6   妹・みどり死去。

 1911.6      東京帝国大学卒業。

 1911.7. 9    西永喬子と結婚。

 1911. 8. 4   京都府属に任ぜられる。

 1911. 11    文官高等試験合格。京都府に赴任し京都市南禅寺町北ノ坊13に居住。

 1911. 11. 30 京都府試補を命ぜられる。

 1912. 4. 27   西田幾多郎を訪問。 (註) 西田幾多郎の日記では、「4月26日(金)、夜藤井武来訪」となっている。

              (『西田幾多郎全集第十七巻』、岩波書店、2005年、313頁)

   (1912.5.5  西田幾多郎より藤井武あてに発信   (註)前掲西田幾多郎全集、314頁)

 1912.6. 24   長女・ゆり子出生。

 1913.2      喬子夫人、腸チフスの重患となる。

            40度の高熱が30日間続くが奇跡的に回復、夫妻ともに心身をキリストに捧げることを

            心に決める。

 1913. 11. 25  山形県警視。警察部長直属を命ぜられ山形県に赴任。

 1914. 1. 31   山形県理事官。地方課長兼官房主事を命ぜられる。

 1914.11. 19   長男・洋(ひろし)出生。

 1915. 9      論文「共働者イエス」を『聖書之研究』に初寄稿。

 1915. 11     論文「子たる者の自由」を『聖書之研究』に寄稿。

 1915         藤井の創案企画による山形県立自治講習所開設。

 1915.12. 25   著述伝道に生涯を捧げる目的をもって山形を去る。

            内村鑑三に迎えられ東京市外柏木に居住、内村の助手として講演筆記、

            『聖書之研究』誌の編集手伝いおよび同誌への寄稿などを為す。

 1916. 1. 14   依願免本官。

 1916. 1      論文「十字架を負ふの歓び」を『聖書之研究』に寄稿。

 1916.3       『聖書之研究』3月号に寄稿した論文「単純なる福音」(羅馬書研究・第二回)が、

            贖罪論に関して内村鑑三の信仰と容れざるものあり、以後、寄稿を差し止められ、

            また、『新生』出版の警醒社書店への紹介を取り消される。

            (雑誌編集や講演筆記の補助は継続。)

            この頃、中央大学の経済学講師としてフックス「国民経済学」を講ずる。

 1916        東京市外戸塚町諏訪に居住。

 1916. 6. 1    処女作『新生』(岩波書店)出版。

 1916. 12. 25   『ルーテルの生涯及び事業』(訳書)(岩波書店)出版。

 1916.12      末、『聖書之研究』への寄稿の禁を解かれる。

 1917. 2       『聖書之研究』2月号に「壊るる幕屋着せらるる家」を寄稿(寄稿復活)。

 1917. 3. 1     次男・立(たつ)出生。

 1917. 8. 2     胃潰瘍のため吐血。

 1918. 4. 5     内村鑑三の勧めにより、『聖書之研究』誌読者の親睦的機関誌としての『教友』誌を

             中田信蔵と発刊。

 1918.9. 15     内村鑑三の指導を受けていた東京教友会・エマオ会・白雨会・モアブ婦人会等が

             統合して柏木兄弟団が結成され、その委員となる。

 1918. 9. 22    秋期大運動第一回聖書講演会(東京基督教青年会会館)で平出慶一・内村鑑三

             とともに講演。

 1918. 11. 9    基督再臨研究東京大会で「ユダヤ人と基督再臨」と題して講演。

 1918         東京市外駒沢町新町南大通に居住。

 1919         東京市外中野町東中野に居住。

 1919. 9. 29    三男・明(あかし)出生。 

 1920. 3       末、S氏の結婚問題につき内村鑑三・黒崎幸吉と意見を異にしたため、内村鑑三の許を

             去り独立、また黒崎幸吉との友情も断絶。

 1920. 6       自宅に「旧約と新約社」を設け、『旧約と新約』誌(月刊)を創刊。

 1920. 12. 15    『永遠の希望』(岩波書店)出版。

 1921. 2        東京市外駒沢町新町1737番地に新築移転(終生の住居)。

              隣接して別に一戸を建て、実父母を迎え住まわせる。

 1921. 11       中田信蔵が『教友』44号で単独発行の宣言あり、これを承諾。

 1921. 12. 22    『人生のうた』(岩波書店)出版。

 1922. 1. 5      内村鑑三と和解。ただし、以前のように内村聖書研究会には出席せず。

 1922. 1. 20     次女・園子出生。

 1922. 3. 12     「旧新約講解」公開講演会(毎日曜日午前10時、東京神田基督教青年会館社交室)

              を始める。

 1922. 3        「代贖を信ずるまで」を『聖書之研究』第260号に寄稿。

 1922.4.21     喬子夫人、重き病床につく。

 1922. 9        喬子夫人、重態のため公開講演会を中止。

 1922. 10. 1     喬子夫人死去。

 1922. 10. 3     喬子夫人告別式(九段メソジスト教会、司式:塚本虎二)。

              遺骨を葬らず終生書斎机上に置く。

 1922. 10. 20    死の近きを感じて塚本虎二に子供たちを託する。(後に薄信を恥ずる。)

 1922. 12. 28    『創造』(岩波書店)出版。

 1923. 4        「羔の婚姻」を『旧約と新約』に連載開始(死去により第89歌をもって未完となる)。

 1923.        秋、新町学盧で「楽園喪失」講義開始。

 1924. 9. 20     『沙漠は番紅花の如く』(岩波書店)出版。

 1925. 12. 25    『聖書の結婚観』(岩波書店)出版。

 1926          早稲田大学キリスト者青年会での聖書講義(毎週1回)を始める。 

 1926. 6. 25     『ミルトン 楽園喪失、上巻』(岩波書店)出版。

 1926. 7        基督教青年会主催・御殿場東山荘夏季学校講師(地方講演の最後)。

 1927. 1. 30     『ミルトン 楽園喪失、中巻』(岩波書店)出版。

 1927. 9. 18      新町聖書研究会開始。

 1927. 9. 25      『ミルトン 楽園喪失、下巻』(岩波書店)出版。

 1927. 12        『イエスの人格とその生涯』(岩波書店)出版。

 1928. 2         岩波講座『世界思潮』に「ルーテル」寄稿。

 1928. 5         胃潰瘍のため重患。

 1928. 6         内村鑑三先生信仰五十年記念基督教論文集に「無教会主義の研究」を寄稿。

 1928. 7         岩波講座『世界思潮』に「ダビデ」を寄稿。

 1928.8         再び病臥。

 1929. 3. 25      『聖書より見たる日本』(岩波書店)出版。

 1929. 10. 7      新町学盧(1週3回の連続講演)を開放。

 1929. 11        末、重病のため新町学盧を中断。

 1929. 12. 13     主治医が勧める胃潰瘍の外科手術を父が賛成しないために断る。

 1930. 3. 1       実父死去。

 1930. 3. 29      内村棺前祈祷会を司式。

 1930. 3. 30      内村鑑三の告別式で病躯を押して告別演説「私の観たる内村先生」を為す。

 1930. 4. 29       横浜『聖書之研究』読者会主催・内村鑑三記念キリスト教講演会(横浜神奈川会館)で

                「預言者としての内村先生」と題して講演。

 1930. 5. 29      内村鑑三先生記念講演会(東京青山会館)で「近代の戦士内村先生」と題して講演。

 1930. 6. 29      自宅における日曜日の聖書講演終講、例年通り一応集会を解散。

 1930. 7. 12      正午頃突如気分悪くなり、夜半胃出血。

 1930. 7. 14      自宅にて死去。

 1930. 7. 16      告別式(柏木今井館聖書講堂)。

 1930. 8         『旧約と新約』(第122号、終刊号)発行。

 1931.2         『藤井武全集』(藤井武全集刊行会、全12巻、編集:塚本虎二・矢内原忠雄)第1回配本開始。

               (1932年1月最終回配本)

 1932.2         『藤井武君の面影』(藤井武全集刊行会)出版。

 1935.4.1       藤井武夫妻の遺骨を多摩墓地に埋葬。

 1938.10.1      『藤井武全集』(第二次、藤井武全集刊行会、全12巻、編集:矢内原忠雄)第1回配本開始。

               (1940年6月最終回配本)

 1940.6.1       『藤井武及び夫人の面影』出版。

 1949.7.14      『藤井武選集』〔岩岡書店、全9巻、編集:矢内原忠雄・小池辰雄)第1回配本開始。

               (1958年5月最終回配本)

 1958.5.1       藤井武選集別巻『藤井武の面影 附 妻喬子・長男洋の面影』(編集:矢内原忠雄・藤井立)出版。

 1971.5.12      『藤井武全集』(岩波書店、全10巻、編集:南原繁・藤井立)第1回配本開始。

               (1972年2月最終回配本)

 

          参考資料: 「年譜」〔矢内原忠雄著、『藤井武全集』(岩波書店発行、以下『全集』)第10巻740〜747頁〕

                 および「藤井武著作年譜 附著訳書編成一覧」(『全集』第10巻巻末43〜76頁)より抜粋し、

                 さらに 『全集』(全10巻)中に記載された事項にもとづき補充・修正して作成。

                                                                    〔未完〕

                                                                         [藤井武 目次]  [ホームページ]


 主要信仰著書

        
           『藤井武全集』(全10巻) .岩波書店 .1971〜1972.

 参考文献

           『藤井武君の面影』. 塚本虎二・矢内原忠雄 編. 藤井武全集刊行会. 1932.

           『藤井武及び夫人の面影』. 矢内原忠雄 編集兼発行. 藤井武全集刊行会. 1940.

           『藤井洋の面影』. 藤井立 編集兼発行. 嘉信社. 1955.

           『藤井武の面影 附 妻喬子・長男洋の面影 』(『藤井武選集.別巻』.岩岡書店) .1958.

           『藤井武と来世問題 藤井武33周年記念キリスト教講演会講演集 』. 加藤正夫 編集兼発行. 1963.

           『預言者としての藤井武 藤井武記念キリスト教講演会講演集 』. 加藤正夫 編集兼発行. 1964.

           『藤井武と矢内原忠雄 藤井武記念キリスト教講演会講演集 』. 加藤正夫 編集兼発行. 1965.

           『預言者としての藤井武』. 藤巻孝之 著. 皓星社. 1977.

           『藤井武研究』 .佐藤全弘 著 .キリスト教図書出版社 .1979.

           『藤井武の結婚観』. 佐藤全弘 著. キリスト教図書出版社. 1988.

           『わが心の愛するもの ―藤井武記念講演集 Ⅰ』. 佐藤全弘 著. (株)ヨベル. 2020.

           『聖名のゆえに軛負う私 ―藤井武記念講演集 Ⅱ』. 佐藤全弘 著. (株)ヨベル. 2020.

                       …………………………………………………………………………………………

           『マルクスよりイエスへの歩み』. 伊藤祐之 著. 向山堂書房. 1933.

               「第三部 藤井武先生を憶ふ」(239〜309頁)

             『現代資本主義の原型』. 宇野弘蔵・藤井 洋 著. 降旗節雄 編. こぶし書房.1997.

               「藤井 洋略年譜」(241〜246頁)

             『思想のレクイエム―加賀・能登が生んだ哲学者15人の軌跡』. 浅見 洋 著. 春風社. 2006.

               「第9曲 妻の遺骨と共に―敗北の勝利者・藤井武」(219〜237頁)

 

                                                            [藤井武 目次]  [ホームページ]

 

 

 

 

 

 

 

                                     

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