1890.2. 10
群馬県利根郡利南村大字戸鹿野で星野銀治・はまの三男として出生。
(祖父母、父母、兄は、群馬県・沼田教会の信徒。)
1897.4 利南村桝形尋常高等小学校に入学。
1898.8 母・はま(35歳)と妹・やす(7歳)が伝染病に感染し、相次いで死去。
1903.4 群馬県立沼田中学校に入学。
中学時代は沼田教会の日曜学校で教える。
中学卒業後、暫く利根郡真庭小学校に代用教員として奉職。
1909 第二高等学校第三部(医科)に入学。
基督教主義の寄宿舎「忠愛之友倶楽部」に起居、このころに『聖書之研究』のほか
内村鑑三の著作を読む。
1909 仙台荒町教会の日曜学校教師となる。
1912. 9 東京帝国大学医科大学に入学。
内村鑑三の聖書研究会に入る。
夏休みに帰省した際には、沼田教会で講演などを行う。
1913.1 白雨会に入会。
1914 神経衰弱となり一年休学。宮崎県・茶臼原にある石井十次経営の孤児園付属農園で働く傍ら、
茶臼原日曜学校で教える。
1916.11 妹・百合子、南原繁と結婚。
1917.12 東京帝国大医科大学卒業。衛生学教室に入る。
1918 内務省衛生局嘱託として内務省保健衛生調査会による保健調査(「月島調査」)に参加。
傍ら、女子医学専門学校、日本体操学校、関東学園で教える。
1920.10. 28 内村鑑三の司式により、大石みそのと結婚。東京市外下落合に新居を定める。
1921.12 長男・潔、出生。
1921 東京帝国大学医学部助手に任ぜられる。
1922.3 文部省派遣により、衛生学研究のため欧米諸国へ留学。
1924. 5 留学より帰朝。金沢医科大学の初代衛生学教室の教授として赴任。
(金沢市中本多町四番丁19番地にて仮寓)
赴任後まもなく、北陸女学校理事に就任。傍ら、生徒の課外衛生講座、定期健康診断などを行う。
1924.10. 18 長女・順子、出生。
1925. 1 金沢日本基督教会の伝道機関誌『牧園』への寄稿を始める。
1925. 2. 7 岳父・大石和太郎、死去。
1925. 4 金沢医科大学十全会講話部長に就任、北陸三県各地並びに青年会・婦人会への講演を始める。
1925. 5 妻・みそのの身体衰弱が始まる。
1925. 5 横手社会衛生学叢書第四冊『住宅問題』を分担執筆。
1925. 8. 30 妹・百合子、死去。
1925. 9 金沢日本基督教会の日曜学校長に就任(翌年5月まで)。
1925 金沢市上鶴間町14の7に新居を完成。
衛生学見地からのモデルハウスとして自ら設計・監督、庭先には「青年の家」をつくり
学生たちに開放するとともに聖書講義などを行う。
1926.3 『東西の衣食住に就て』刊行。
1926. 7 金沢医科大学学生監(文部省)に就任。(十全会講話部長は辞任。)
1927. 2 『性教育に就て』(わが国における初の性教育の本)を刊行。
1927.2 衛生文化パンフレットの自費刊行を企て、第一輯「保健衛生の根本問題」を発行。
(以後、第2輯『清潔の徹底』、第3輯『環境の浄化』、第4輯『正しい生き方』
を相次いで発行。24輯まで発行。)
1927.8. 1 『キリスト降世の意義』(小立野パンフレット第一、編輯・発行印刷人:妻・みその)を
発行し文書伝道を開始。
1927.8 .24 妻・みその、衰弱のため妊娠9ヶ月のはじめに早産術を行い、二男・命(あきら)出生。
1927.9. 2 妻・みその、24歳で死去。
1927.9.4 自宅にて、妻・みそのの告別式を行う。遺骨は多摩墓地に埋骨。
1927 論文「性問題の社会衛生学的考察」(『中外医事新報』)を発表。
1928.2 衛生文化パンフレット『家の話』発行。
1928.4 父の経営する沼田銀行が金融恐慌の影響を受けて破綻。
1928. 6 論文「脚気死亡率分布図ニ就テ」(『十全会雑誌』)を発表。
1928. 7 長兄・精一、死去。
1928.10 衛生文化パンフレット『顔の話』発行。
1928.12 『慰安の神』(小立野パンフレット第二)発行。
1928. 12 論文「性問題の一断面」(『金沢犯罪学会雑誌』第一巻第2・3・4号)を発表。
1928.12 衛生文化パンフレット『窓の話』発行。
1929.1 金沢医科大学学生主事を兼任。
1929.4 第一回日本連合衛生学会で「死亡診断書に記入されたる乳児死亡時の病名に就て」を発表。
1929 衛生文化パンフレット『東西の衣食住』、『健康増進に必要なる知識』発行。
1929 金沢善進婦人会の組織のため尽力、顧問となる。
1930. 2 衛生文化パンフレット『愛児のために何を為すか』発行。
1930. 4 金沢医科大学 学生課長に就任。
1930.4 第二回日本連合衛星学会で「衛生学的治療に就て」と題する報告を予定していたが、
病気のため取り止め。
1930. 5 衛生文化リーフレットを創刊。(以後毎月一回発行。)
1930. 5 論文「絶対安静ニ就テ」(『結核』第8巻第2号)を発表。
1930 単行本『清潔の徹底』(衛生文化思想普及会)を刊行。
(衛生文化パンフレット『清潔の徹底』、『環境の浄化』、『正しい生き方』の合本、再版。)
1931.4 衛生文化パンフレット『養教育の真髄』発行。
1931.7 基督教青年会夏季講習会(東山荘)に出席・指導。
1931.8 小舞子の臨海日曜学校で講演。
(これが動機で、徐々に悪化していた健康が急に壊れはじめる。)
1931.9 大里内科病室に入院。
(左肺に浸潤が認められたが、人工気胸術を施した結果、回復しはじめる。)
1931.11 兵庫県武庫郡本山村にて療養生活に入る。
1931.12 『性教育の実際』(病床にて執筆)を刊行。
1931.12. 15 突如、急性虫様突起炎に冒され、翌朝大阪市内の病院に入院、
直ちに手術を受けるが既に腹膜炎を併発しており、重態となる。
1931.12. 20 早朝、病院にて死去。即日遺骸を金沢に移し、金沢医科大学病理学教室で解剖。
1931.12.22 金沢市の日本メソヂスト教会にて告別式。
(司会:坂田祐、履歴報告:植木良佐、告別の辞:黒崎幸吉)
1932.1. 20 「青年の家」にて「星野先生追悼会」。
1932.2. 6 多磨墓地で埋骨式(司式:坂田祐)。
1932.2.13 今井館で「星野鉄男記念会」(司会:植木良佐、感話:南原繁・高谷道男・坂田祐)。
〔『星野鉄男』(村上賢三・木村與一編.衛生文化思想普及会)、
『からし種一粒から―星野るいとその一族』(星野達雄著.ドメス出版)
および『恩寵の生涯』(坂田祐著.待晨堂)の記述を参考に作成。〕
『星野鉄男』. 村上賢三・木村與一 編. 衛生文化思想普及会. 1933.
『恩寵の生涯』. 坂田 祐 著. 待晨堂. 1966.
『星野光多と群馬のキリスト教』. 星野達雄 著. 星野光多と群馬のキリスト教刊行会. 1987.
『からし種一粒から ―星野るいとその一族 』. 星野達雄 著. ドメス出版. 1994.
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「星野鉄男氏の追憶」. 著者 入間田俤佶.
(『無教会基督者 入間田俤佶』(黒崎幸吉 編. 聖泉会.1960.)154〜156頁)