黒崎幸吉

目 次

              [ 祈り ]  [ 神 ]  [ 神の国 ]  [ 律法 ]  [  信仰 ]  [ キリスト者 ]  [ 聖書 ]  

              [ 人間 ]  [ この世 ]  [ 生活問題 ]

       [ 略歴 ] [ 主要信仰著書 ] [ 参考文献 ] [ 記念講演会 ]

 

                                    〔注〕『著作集』‥‥『黒崎幸吉著作集』 発行所 新教出版社

                                       『続・著作集』‥‥『続・黒崎幸吉著作集』 発行所 新教出版社

 

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 祈 り

            ‥‥‥‥‥祈祷は神との対話である。祈りをなしつつある間に自己以外の人々のいると

          いないとは何らの差別を来たさないのである。祈る者の心はことごとく神に向かって集中せら

          れ、神がその前に立ちてこれに応答を与え給うのである。実に祈る者は、身はこの世におり

          ながら霊は既に天上の人となり、この世のすべての喧囂(けんごう)、すべての栄華、すべての

          動揺はその眼前より消失し去って、ただ父なる神と子イエス・キリストと新たなる世界の光景

          とを見るのみとなるのである。かくして祈る者の心の中にあるすべての感謝を神に捧げ、すべ

          ての憂慮や祈願をその前に開展して、彼より力を受け、この憂苦に打ち勝ち、彼の恩恵によっ

          てこの祈願の果たされんことを望むのである。実に祈祷は神との交通の水路であり、神の霊を

          呼吸する気管である。このカナルが中断せられ、この気管が閉塞せらるる時、神の霊の流入は

          杜絶し、神との交際は断絶し、神の力はわれらを離れてしまうのである。しかしてわれらの心が

          直接に神に向かわずして、幾分にても「人に顕わさん」との心を支えるならば、その瞬間に神との

          交通の道は杜絶し、祈りはそのすべての意義を失ってしまうのである。

                                               (『著作集』第1巻.308頁)

 

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           神に対する絶対の服従、これが人間が神に対する関係において当然におるべき場所である。

          神に対する人間の関係の基本はこの服従を措いてほかに有りえない。何となれば人間は被造

          物であって、創造主の前には服従がその本来の姿だからである。‥‥‥‥

            ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           人間の真の立場を神に対する服従に置くという見方は、聖書の世界観をして他のすべての宗

          教や哲学と異ならしむる重要点であって、この中心点が失わるる場合は他のすべての善も人間

          を神の前に立たしむるに足らず、反対にこの中心点を確保するならばほかのすべての悪も彼の

          神の前に立つことを妨げることができない。

                                                   (『著作集』第1巻.9〜10頁)

 

            ‥‥‥‥‥人間はいかに深く思索し、研究し、哲学しても神を知ることはできない。神について

           種々考究し推理することはできるけれども、神御自身を直接に拝することは、かかる知恵によって

           は絶対に得られない。神について論議思索することと、神を信じ神に従うこととは全くの別事であっ

           て、前者は知恵(ソフィア)の世界であり、後者は信仰の世界である。

                                             (『続・著作集』第2巻.341〜342頁)

 

             神の与えんと欲し給うものを、自己の無価値を理由としてこれを信ぜず、これを辞せんとするは、

           謙遜にあらずして不信である。また神の賜物を受けんがために先ず己れより何物かを献げんとす

           るは努力にあらずして不遜である。

                                         `    (『続・著作集』第3巻.4頁)

 

 

                                                 

                                                                        [黒崎幸吉 目次]   [ホームページ]

 


 神の国   

           ‥‥‥‥パラダイスと言い神の国というは、要するに人が神に服従しているその心である。

            それゆえにあるいは環境をもって神の国を建設せんことを求むる社会的キリスト教や、自己の

           修養により自己を善き者として神に近づかんとする律法的キリスト教のごときは、聖書の世界観

           とは全く反対の立場をとっているのであって、彼らは車を馬の前に繋(つな)ぐの愚を演じているもの

           である。神の国は神に対する絶対的従順より以外の途に求めてこれを得ることはできない。

                                               (『著作集』第1巻.10頁)

 

                                                                      [黒崎幸吉 目次]   [ホームページ]


 律 法 

             律法が律法の力を発揮して始めて福音であることがわかる。「神の言は皆われらこれを為

            さん」との決意はキリスト者の場合でも絶対に必要である。これは律法主義ではなくその正反

            対である。律法主義は形式的に神の言を守ることのみによって安心する主義であり、福音主

            義は神の律法を完全に守らんとする意思が、その事実的不能のゆえに神の御前に打ち砕か

            れし者の上にくだる神の愛を信ずる心である。人間の弱さを振り翳して、神の言を守ることの

            責任を全部免れんとするごときは福音主義のはきちがえである。

                                                (『著作集』第3巻.393頁)

 

                                                                      [黒崎幸吉 目次]   [ホームページ]

 


 信 仰

             信仰生活は本来冒険である。人間の打算や予想によって行動せず、神の御言に従って勇敢

            に突進する生活である。

                                               (『著作集』第3巻.252頁)

 

                信仰信仰と称して自分に与えられた知恵を全く用いない人があり、反対に自分の知恵に依り

            頼んで神の力を全く無視する人がある。徹底的信仰とは、自分はなにもせずに果報を祈って待

            っているのをいうのではない。自分の弱さを思って祈りつつも自分の力のすべてを尽くすところの

            信仰をいうのである。

                                               (『著作集』第3巻.343頁)

 

                 コンスタンチヌス以前のいわゆる初代キリスト教時代の大体の傾向としては生命的信仰が

             中心をなしておった、それは当時強烈な迫害の下にさらされておったために、信者は皆生命

             がけでイエスを信ぜざるを得ない状態の下にあり、心から堅く主イエスに依り頼んでおったの

             であった。彼らの関心は、主としてキリスト者として如何に生活すべきかにあったので、何を

             何故に如何に信ずべきか等の教理的宗教、哲学的問題は、彼らにとっての重大問題ではな

             かった。彼らは、直接にイエス・キリストを信じ、彼に在って生命の力を与えられ、これによって

             生きまた行動しておったのであった。

              この時代にも若干の学者があって教義的思弁に努力しておったけれども、一般の信者は、む

             しろそれに支配されず、直接に聖霊の導きにより迫害と戦い偶像と戦って次第にその信仰を死

             をもって証明しておった。

                                               (『著作集』第4巻.180頁)

 

                  ‥‥‥‥‥‥真の信仰というのは教理を受け容れる意味の教義的信仰ではなく、パウロ

             やルーテルの場合のごとく、古い生命はイエスの死とともに葬られ、新しい生命に新生した意

             味の信仰であり、そしてこの新しい生命、すなわち生命的信仰のみが、イエス・キリストにある

             新しい行為を生み出すことができると言うことであった。

              そしてかかる信仰は、単に教会に所属したり、教会の教義を受け容れたり、教会の伝統に従

             って生活したりしている場合に受け得るものではなく、イエスの死とともに罪に死しイエスの復活

             とともに新生した時に受ける生命そのものであり、この生命のみが真の行為を生むことができる

             のである。

                                               (『著作集』第4巻.185頁)

 

                  今日のキリスト者の中にも私と信仰箇条や信仰告白が一致しているがごとくに見えつつ、

              どうしても心持において一致し得ないような多くの人を見出す。反対に信仰箇条や信仰告白

              において非常に異なっているがごとくに見えておりながら、如何にもキリストに在る兄弟である

              との感を深くする人を多く見出す。私はいちいちこれらの人々の心の内容にまで立ち入って

              さばくことができない。しかし神の目より見るならばパウロやヤコブの場合のごとく同一の告白

              の中に多くの異なれる信仰があり、異なれる告白の中に多くの同じ信仰を見出し給うことであ

              ろう。

                                               (『著作集』第4巻.199頁)

 

                                                                      [黒崎幸吉 目次]   [ホームページ]


 キリスト者

             世の歓心を得んことに汲々として、ために世とそのうちにあるものを愛し、世に向かって戦うの

            力を有せざるキリスト者ほど憐れむべき者は他にはないであろう。彼らには自己に確固たる立場

            がない、したがって、世の歓心を求めてこれに追従する。しかるに世はかえってかかる者を嘲笑し、

            軽蔑し、踏みにじりて外に棄ててしまうのである。内には能力なく外よりは侮蔑せられ、行くにところ

            なくとどまるに家なく、あたかも喪家の犬のごとくに意気地なき有様を示しているのは彼らである。

            なにゆえに彼らは塩たるの任務を自覚してその辛さを示し、防腐力を発揮しないのであるか。

                                              (『著作集』第1巻.221〜222頁)

 

               キリスト者の中には愛、愛と称して人の悪を責めることができない人がある。これ一見愛なるが

            ごとくに見え、そうではない。これは人間愛であるかも知れぬけれども聖愛ではない。聖愛は義を

            離れて存在しないのである。殊に近代思想の傾向として悪の存在を極力稀薄ならしめんとしている

            時代、またキリスト者は不義不正をもこれを不問に附する者と考うる人多き時において、われらは

            この点を極めて明らかにすることを要するのである。

                                              (『著作集』第1巻.287頁)

 

                われらは絶えず自己の実価以上に自己を示さんとするの誘惑に陥っている。‥‥‥‥‥

            今日のキリスト者も心にもあらずして敬虔なる態度をなし、心にもあらずして熱信を装い、いかにも

            信者らしき態度をして人々に誇らんとしているのも、皆この誘惑にかかっているのである。‥‥‥

             ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            われらの心の状態は常に神の聖前に明らかであって、これを覆い隠すことができない。万人こぞって

            われらの真面目を賞揚するも、われらの心が不真面目であったならば、われらに何の役にも立たない、

            万人こぞってわれらの不真面目を攻撃するも、われらの心中神の前に真面目であるならば、少しも憂

            うる必要はない。要するに他人の毀誉褒貶は一つの浮雲に過ぎないのであって、われらは絶対にこれ

            を眼中に置かないことが必要である。否、他人がわれらをその実質以下に見ることがかえってわれらに

            益を与えるのであって、これによりかえってわれらは人に依らず神に依ることができるようにせられるの

            である。‥‥‥‥

             ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

             かくのごとき心の態度をとることができるならば、虚飾虚栄は全くわれらを離れ去ってしまうであろう。わ

            れらは常に赤児のごとくに天真爛漫たることをうるであろう。われらは神の前にわれらのありのままを展開

            し、したがって人の前にもまたそのままにふるまってなんら恐るることもなく、また臆することもないであろう。

            キリスト者の心は実にかくのごとくでなければならない。

                                               (『著作集』第1巻.374〜375頁)

 

                ‥‥‥‥‥‥彼ら(キリスト者)は上官に煙たがられて免職の憂き目に逢うであろう、彼らは同業者と

            歩調を共にすることができず孤立の困難に遭遇するであろう。彼らは不当の利益を貪ることがで

            きずして、いわゆる失敗者の中に数えられることがあるであろう。この不義の世において神の国

            とその義とを求むる者の位置は決して安全ではない。しかしながら、それにもかかわらず彼らは

            その生活上絶対安全の地位にいるのである。神彼らを守り給うからである。

                                               (『著作集』第1巻.395〜396頁)

               

                キリスト者とは信仰によりて安息に入ったもの、信仰によりて己が業を休んでいるものでありま

            す。律法の下にある者は己が業をもって神の前に義とせられんとしたために、遂に信仰のみに

            よりて義とせらるるの境地に達することができず、その結果休みに入り得なかったのであります

            が、キリスト者は神の約束を信じ、信仰によりて義とせらるることを信じて、己の業を完全に休み、

            己の奮闘努力をすべて放棄してしまったところの者であります。この徹底せる安息に入った者が

            キリスト者であって、そのところには何らの不安がなく、何らの固苦しさもなく、ただ平安と歓喜と

            のみが支配しているのであります。

                                               (『著作集』第2巻.205〜206頁)

 

                 キリスト者と言えば何とはなしに弱々しく、不自由であり、窮屈であり、偽善的であり、形式的

             であるかのごとき感を与える。しかしながらこれは光の中を歩む者の態度ではない。キリスト者

             は神の前に生きる者であり、したがって神に対する畏れをもちつつ、しかも自由に、闊達に、自

             己の罪を罪として告白することを恐れず、赦されし罪人たる歓喜と、光の中を歩む者の公明さを

             もつ者である。キリスト者の生活の態度は「光の中を歩む」一語に尽きる。

                                                (『著作集』第2巻.275頁)

          

                                                                        [黒崎幸吉 目次]   [ホームページ]

 


 聖 書

               ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

               また聖書の研究は世との戦いの中にこれをなすべきである。世との戦いはすべてのキリスト者

              の避け得ない事実であり、この戦いの中にキリスト者の味方となりこれを援けるのは神である。

              そして神は御言の剣をもってキリスト者の手に与えてこれをして世と戦わしめるのである。聖書の

              言がその真の意義を発揮するのはこの戦いにおいてである。それまでは聖書は鞘に収められた

              宝剣であってその中味を表わさずその味を示さない。

                                                  (『続・著作集』第3巻.145頁)

 

                                                                        [黒崎幸吉 目次]   [ホームページ]


 人 間

               聖書において一貫している根本的原則は、人間は神との交わり、神との人格的一致によって

              のみ生きているべきものであるということである。そしてこの人格的一致は神に対する絶対的服

              従のみに存しているのであって、神秘的または瞑想的一致によるのではない。人間の本分は神

              への絶対的服従にあり、この絶対的服従すなわち信仰(ロマ1・5、16・26)の中に神と人との間に

              当然あるべき姿をもつ神人合一の世界があるのである。したがって人間にとって大切なのは自分

              で善悪を知ることではなく、神の命に絶対に従うことである。

                                               (『著作集』第3巻.94〜95)

 

                                                                        [黒崎幸吉 目次]   [ホームページ]

 


 この世 

              ‥‥‥‥キリスト者としては、神の国の超越性、彼岸性、終末性に対する信仰をもたないことは

             重大な誤りであると同時に、また現世のすべての苦難や不幸に対して拱手傍観することもまた大

             なる誤りであります。イエスが為し給うたと同様に、キリスト者はまた現世のあらゆる不幸に対して

             心からの憐憫と積極的救済の活動とを為すのが当然であります。

               ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

              しかし以上のように、現実社会の諸種の害悪を除くことは、必ずしもキリスト者のみの希望ではな

             く、キリスト教の専門ではありません。‥‥‥‥‥‥‥しかしたとい同一の社会悪を除くための運動

             であるとしても、異なった人生観や歴史観をいだく人々とキリストによる新生命をもっている者との間

             には、必ずしも同一の手段方法によるべきではありません、またよることはできません。そこにキリ

             スト者にはキリスト者としての独特の途があるのは当然であります。‥‥‥‥‥‥

               ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

              第一にキリストによって新たなる生命に生まれている者は、個人的または階級的利己心を基礎と

             してその行動をとるべきではありません。‥‥‥‥‥‥

               ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

              第二にキリスト者は、すべての社会悪、人類悪の根本は人間の罪性そのものにあることを知って

             おります。それ故に社会的、政治的改良や、文化的進歩そのものにすべての希望を懸ける手放し

             の楽観主義とは、一致の行動をとることができないのであります。社会の改良や政治の革新や、文

             化の進展は、すべて個人の霊的革新なしには完成されず、またその目的を達することはできません。

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

              第三にキリスト者は人類の不幸や苦悩を除こうとする場合、すべての科学を利用することに努力

             します。‥‥‥‥‥‥‥‥しかしながらキリスト者は科学そのものの有限さを認識します、そして

             同時に神の万能を信じます。それ故キリスト者は如何なる科学であっても科学にすべての希望を

             おき、科学を偶像視することは為しません。‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

              第四にキリスト者は正義に充ちている神の国の実現を待望する関係上、自己の生活態度を正義

             にかなうものとすることを欲すると同時に、社会一般も正しい生活を為すことを要求します。それ故

             目的が如何に正しくあっても、これを不正な手段で達成しようとは思いません。‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

              第五にキリスト者はただ神の国と神の義とを求める立場をとっているのみであって、その他の如

             何なる主義にも固執いたしません。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                                                  (『著作集』第5巻.140〜143頁) 

 

                  要するにキリスト者は教会に対しても社会に対しても、その戦うべき戦いを戦わなければなりま

              せん。したがって迫害はその当然受くべき運命であります。世と戦わないキリスト者というものは

              あり得ないのであり、この点で無教会主義者が戦闘的であることは、結構なことであると思います。

              この戦闘力を失ったならば、それは信仰を失ったということになります。

                                             (『著作集』第5巻.195頁)

 

                 多くの宗教においては、この世のことはこの世のこととし、礼拝は礼拝であるとしてこれを二つに

              分け、二重人格的に生活することを平気で実行しますが、これは決して正しい生活ではありませ

              ん。キリスト者の中にもかかる心持ちをもっている人があるのであって、日常の生活、その商売、

              その対人関係は普通人と少しも異なることなく、普通の人の行なう程度の罪悪や虚偽は平気で

              これを行ない、ただ日曜の礼拝のみは極めて崇厳に、神秘的にこれを行ない、この二者を別々

              に行なうことによりて何等の矛盾を感じないかのごとき人があるのであります。しかしながらこれ

              はもちろん虚偽の生活でありまして、かかる生活はキリスト者の生活ではなく、かかる礼拝はキ

              リスト者の礼拝ではありません。

                                            (『続・著作集』第3巻.295頁)

 

 

                                                                        [黒崎幸吉 目次]   [ホームページ]     


 生活問題

             われらの生活の材料は、一日一日に別にわれらに与えられるのである。元来われらはわれらの

            富が永続するもののように思っている。しかしながら、神の御旨ならば数年前のドイツにおけるが

            ごとく、一億の富も一年ならずして一銭の価値に下落することもまたありうることである。われら明日

            の生命をすら保証することができない。故に一日衣食を得て一日の生命を保持することができるの

            も、全く神の御旨によることであって、神よりすべての必要なる条件をそなえられたからに過ぎない。

            故にキリスト者は、すべてのものが明日をも頼むことができないことを知っているのである。したがっ

            て、その祈りはただその一日のために神その必要物を与え給わんことを祈るをもって十分であると

            信ずるのである。明日のこと、翌月のこと、翌年のことはすべてこれを神の御手にゆだね、日々に

            感謝をもって一日の糧を受けて生活するのがキリスト者の生活である。

             もしこの信仰が事実となるならば、今日の社会における大なる不安は去ってしまうであろう。

                                               (『著作集』第1巻.349頁)

 

                物を所有するとは果たしていかなることであるかを見ようとするならば、結局所有とはある価値

            または物を自由に使用または消費し得ることの主観的観念に過ぎないことを知るのである。すな

            わち所有とは、その所有の目的たる物質ではなく、その物質に対する観念に過ぎないのである。

             富の観念も同様であって、富とは物自体にあらずして、物に対する観念である。この物を自由に

            消費し使用し得るという観念が、その人の欲望(これを消費せんとする)に比して大なる時はその人

            は富者であり、これに反し、その欲求に比してその観念の比較的小なる時はその人は貧者である。

            故に貧富はその所有物質の客観的価値とは関係なく、その物質に対する所有者の主観的観念いか

            んによって定まるのである。‥‥‥‥‥‥‥

             ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

             以上のごとき意味においてこれを解するならば、キリストのため、福音のためにすべてを捨つる者と

            は、自己の家、田畑、骨肉の親を自己の欲求の満足のために使用、享楽、費消せんとするの観念を

            放棄した人である。すなわちこれらのものに対する所有の観念を全く捨ててしまった人々である。

             しかして所有なる事実がこの主観的観念であるとするならば、かかる人の主観に取りては彼らに与え

            られし少量の物が百倍の価値として表われて来るのである。なんとなれば、その少量の物を消費、使用

            し得ることの観念に比して、これを消費使用せんとの欲望は無限に小さいからである。故にイエスのため

            福音のために家、田畑、肉親を棄てた者は、実際において数倍または百倍の富者となるのである。

                                                   (『著作集』第2巻.51〜52頁)

 

                                                                        [黒崎幸吉 目次]   [ホームページ]


 略 歴

   1886.5.2   山形県鶴岡町(現在鶴岡市)に生まれる

   1907.7     第一高等学校卒業

              東京帝国大学法科大学政治学科入学 (1911.7 卒業)

   1909.10    内村鑑三を師とする柏会の一員として日曜毎の内村の聖書講筵に列する

   1911.8     住友総本店入社。経理課主計係を命ぜられ本店に勤務

   1911.8.14  高木寿美子と結婚。兵庫県武庫郡精道村打出(現在芦屋市緑ヶ丘)に居住

              プレマス・ブレズレンの人達と家庭集会を始める

   1912.8     住友家嗣子住友寛一の補導係に就任。東京に転住

   1915.5     住友寛一と渡米(翌年5月帰国)

   1916.12    愛媛県新居浜住友別子鉱業所勤務(経理課長、庶務課長)

              自宅で家庭集会を開く

   1919.4     住友製鋼所に転勤。副支配人、経理部長、商務部長を兼任

   1921.1.4   妻寿美子急逝

              召命により伝道を決意し住友製鋼所を退職

   1921.2     上京して内村鑑三の伝道の共労者となる。東京市外落合に居住

   1921.4     『聖書之研究』に「奴隷の生涯」を寄稿

   1921.10    『霊交』誌の編集を担当

   1921.12    〔訳書〕ルーテル著『ガラテヤ書注解』(警醒社)出版

   1922.3     『聖書の読み方』(警醒社)出版

   1922.9.    欧州留学のため横浜出帆

   1925.3     帰国

   1925.5.18  佐々木光子と結婚。鶴岡市八日町に居を定め文筆伝道に専念

              郷里の家庭集会に参加

   1925.6     〔訳書〕マシュズ著『人種の衝突』(開拓社)出版

   1925.12    『パレスチナの面影』(向山堂)出版

   1926.3     月刊個人雑誌『永遠の生命』創刊

   1926.4     山形高等学校に非常勤講師となりドイツ語、英語を担当

              (1928.3 辞任)

   1927.4     『放蕩息子の帰還』(一粒社)出版

   1927.8.19  三女愛子夭死

   1927.8     『皇后ルイゼ』(一粒社)出版

   1927.11    (訳書)C・H・M『創世記講義』(一粒社)出版

   1928.1.16   父与八郎逝去

   1928.1      『ヒルテイの宗教論文集(上)』(イデア書院)出版

   1928.2      亡父の大海町の住居に移転

   1928.5      『社会問題とキリスト教』、『我が国体とキリスト教』(一粒社)出版

   1928.6      『内村鑑三先生信仰五十年記念キリスト教論文集』に「カルヴィンの教会観」を執筆

   1928.8      江原万里の個人雑誌『思想と生活』に「審く人と赦す人」寄稿

   1928.11     『山上の垂訓講義』(一粒社)出版

   1929.7      『注解新約聖書コリント前後書』(日英堂)出版

   1929.10     『キリスト教に対する誤解』(一粒社)出版

               『神を知る道』(一粒社)出版

   1930.2      『注解新約聖書マタイ伝』(日英堂)出版

   1930.6      『ジョン・カルヴィン伝』(一粒社)出版

               胸部疾患のため一年間の休養を医師より宣告せらる

   1930.8      『偶像の数々』(向山堂)出版

   1930.11     転地療養のため兵庫県武庫郡本山村小路73へ転居

   1930.12     『注解新約聖書ヨハネ伝』(日英堂)出版

   1931.3      『永遠の生命』誌第61号より附録『新約聖書ギリシヤ語講座』を始める

   1931.5      『カルヴィンの教会観』(一粒社)出版

   1931.8      『奴隷の生涯』(一粒社)出版

   1931.10.4   黒崎聖書研究会を大阪帝大医科学友会記念館にて開講

   1931.12     『注解新約聖書ヘブル書、ヤコブ書、ペテロ前後書、ユダ書』(日英堂)出版

   1932.10     京大楽友会館で聖書研究会を毎日曜開講

   1932.12     『新約聖書ギリシヤ語文典』(日英堂)出版

   1933.4      『聖書の世界観』(一粒社)出版

   1933.12     『基督教の更生は日本より』、『基督教の本質』(一粒社)出版

   1934.3      月刊雑誌『ギリシヤ語聖書研究』発刊 (1938.4 廃刊)

   1934.8      『潔めの教理の誤謬』(一粒社)出版

   1934.10     〔編著〕『新約聖書略注』(一粒社)出版

   1934.12     『注解新約聖書ロマ書、ガラテヤ書』(日英堂)出版

   1935.10     『ガラテヤ書講解』(一粒社)出版

   1935.12     『注解新約聖書ヨハネ黙示録及書簡』(日英堂)出版

   1936.4      『永遠の生命』誌、2・26事件批判記事のため発売禁止

   1937.3      『ヘブル書講話』(一粒社)出版

   1937.8.15   二男義雄永眠

   1937.12     『永遠の生命』12月号、発禁

   1938.5      神戸兵庫県会議事堂にて隔週聖書研究会を開催

               京都聖書研究会も隔週に変更

   1938.9      『永遠の生命』(9月号)、発禁

   1938.12     『旧約聖書略注(上巻)』(日英堂)出版

   1939.1      『永遠の生命』(1月号)、発禁

   1939.9      神経痛のため大阪、京都、神戸の集会を休講 

   1939.10     『注解新約聖書使徒行伝』(日英堂)出版

               京都、神戸の聖書研究会を解散

               自宅で甲南聖書研究会を始める

   1940.8      『永遠の生命』(8月号)、ヒットラー批判記事のため発行停止

   1941.3      『注解新約聖書マルコ伝』(日英堂)出版

   1941.8      『新約聖書語句索引(希和部)』(永遠の生命社)出版

   1942.1      『復活の生命』発刊 (4月、廃刊)

   1943.8      〔編著〕『旧約聖書略注(中)』(日英堂)出版

   1943.9      『武士道的キリスト教』(日英堂)出版

   1943.12     『注解新約聖書パウロ小書簡』(日英堂)出版

   1944.10     伝道私信(第1信)を発信(以下、第7号まで)

   1945.9.22   戦後第1回の聖書研究会を中之島中央公会堂で開催

   1946.1      『永遠の生命』誌、復刊発行

   1946.4      立志館で日曜学校を再開

   1946.7      教育者へのキリスト教雑誌『愛と真』創刊 (1951.8 終刊)

   1947.8      『民主日本とキリスト教』(桂書店)出版

   1948.6      孫幸信永眠

   1948.8      『新約聖書ギリシヤ語研究』創刊

   1950.8      二女安田康子永眠

   1950.9      『聖書の手ほどき』(永遠の生命社)出版

   1950.10     『注解新約聖書ルカ伝』(明和書院)出版

   1951.10     愛真聖書学園開講

   1952.2      『新約聖書語句索引(和希)』(永遠の生命社)出版

   1952.11     『旧約聖書略注(下)』(聖泉会)出版

   1953.9      『一つの教会』(聖泉会)出版

   1958.5      登戸学寮開寮

   1960.8.27   海外伝道へ (1961.1.22帰国)

   1965.9      長男信雄急逝

   1965.10.31  黒崎聖書研究会解散

   1966.12     『永遠の生命』誌、終刊

   1970.6.6    逝去

                   〔『黒崎幸吉著作集(第7巻)』の「黒崎幸吉年譜」にもとづき作成〕

 

                                                          [黒崎幸吉 目次]   [ホームページ]

 


 主要信仰著書

               『黒崎幸吉著作集』(全7巻).新教出版社.1972〜1973

               『続・黒崎幸吉著作集』(全3巻).新教出版社.1990

 

 参考文献

               『回想 黒崎幸吉・光子』. 松田智雄 監修・高木謙次 編集. 新教出版社. 1991.

               『登戸学寮二十年のあゆみ』. 財団法人 登戸学寮. 1979.

               『関西無教会小史 ―加島二郎遺稿選集― 』. 関西無教会小史刊行会 発行. 森の宮通信社. 2002.

               『黒崎幸吉 −生涯とその時代 』. 阿部博行 著. 東北出版企画. 2011.

 

                                                          [黒崎幸吉 目次]   [ホームページ]

 


 

              

   

 

   

   

 

 

              

              

 

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