三谷隆正

目 次

          [ 祈り ]   [ 信仰 ]  [ 人生 ]  [ 幸福 ]  [ 個人主義 ]  [ 基督者 ]  [ 日本的基督教 ]    

          [ 神 ]  [ 天国 ]

          [ 略歴 ]  [ 主要信仰著書 ]  [ 参考文献 ]  [ 記念講演会 ]

                                                  〔注〕『全集』‥‥『三谷隆正全集』 発行所 岩波書店

 

                                                                                    [ホームページ]


 祈 り

 

           神が神たる者であり、宇宙がその創造であるなら、この宇宙につき何よりも確実な一事は、

           それに何かの、思うに深い意義があるに相異(そうい)ないことである。そして神が生物無生物

           の何か一つに与えられたどのような意義であれ、それを充(み)たし成就(じょうじゅ)することこそ、

           そのものの存在の一定不変の目的であるに違いない。そしてこの目的が、そのものにとって、

           明(あきらか)にされ意識された場合に、即(すなわ)ちそのものの祈りとなる。

             ‥‥‥‥‥‥‥‥

           人は自ら知らざるものを慕い、喘(あえ)ぎ求める。彼の生涯を通じ、彼の喘ぎ求めることは止(や)

           まない。彼にとって生きるとは求めることである。‥‥‥この生命の喘ぎ求めを現(あら)わすに

           「祈」という言葉より以上に適当な語を考え附(つ)かない。

             ‥‥‥‥‥‥‥‥

           神は人間を祈りする動物として造(つく)り給(たも)うた。人が祈を止(や)める時は、生きるを止める

           時である。人が働き労働するのは、人に祈があるからである。人生の諸問題は、ただ祈に基(もと)

                 づいて考量し解決することができる。

             ‥‥‥‥‥‥‥‥

           宇宙万有は一つの一貫せる祈に基き、それ故に一つの一貫せる主義に基いて、組織されて

           いる。天地万有の法則は祈の法則である。

             ‥‥‥‥‥‥‥‥

           ‥‥‥宇宙は祈より成る有機体である‥‥‥

                                               (『全集』第4巻.495〜497頁)

 

           そもそも人類の歴史の於(お)いて、人の側よりする祈求がすべてそのまま聴(き)かれて、それでおおい

           なること、意味深きこと、慰め豊かなることの成(な)りしためしが、いつどこにあったか。むしろすべての

           言葉に過(す)ぐる祝福が、聴かれざる祈、くだかれたる大志の熔爐(ようろ)から流れ出たのではないか。

           大なる希望は痛切なる失望を経過することなしに堅(かと)うせられ得(う)るものでない。つくられし者の深き

           祈願は、人の想望する如(ごと)き形に於いては実現せられずして、ただ神の計画したもうが如き態様に

           於いてのみ実現せられざるを得(え)ない。

             ‥‥‥‥‥‥‥‥

           然(しか)らば―と理窟(りくつ)ぽき我らの友は言う―我らが神に祈り求める必要はないではないか。

             ‥‥‥‥‥‥‥‥

           神こそは我らの必要なるものをすべて知りたもう。神こそは瞬時(しゅんじ)のたゆみなしに我らを看(み)とり

           たもう我らの頼(よ)り所である。この頼り所を措(お)いて我らは何に頼ろう。求めざるに既(すで)に知りたもう

           程(ほど)の神に頼(たよ)らずして、他の何者にか頼り得(え)よう。‥‥‥祈る必要はないのかも知らぬ。

           然し恰(あたか)もその故(ゆえ)に我らは専(もっぱ)ら父なる神に向っていのる。然(しか)り、彼に向ってのみ祈る。

           そうして我らのその祈りが、必ず常に聴(き)かれ、又は聴かるる以上に聴かれて過(あやま)たざるを知って居る。

                                                (『全集』第5巻.140〜143頁)

 

                                                                       [三谷隆正 目次]  [ホームページ]


 信 仰

               信仰は冒険なしには成立し得ない。然しその冒険は理論的にのみ不安なるものであって、実践的には

           不可抗的に安定である。断じて冒して起つ時、信仰はもはや何の危惧をも持たない。彼は冒さざるを得ず

           して冒し、信ぜざるを得ずして信ずる。

             ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           信仰は一人一人の身みづから体しなければならぬ実験である。如何に偉大なる聖者と謂も、自己の体験

           を以て他の者の体験を不用に帰せしめる事は出来ない。

             ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           神を信じ得んと欲するか。然らば敢て身みづから起たねばならぬ。身みづから一身を賭して信仰への冒険

           を断じなければならぬ。‥‥‥‥断じて起つの勇気と熱心とのないものは、終に信仰の安住と歓喜とを体し

           得べくもない。

                                                  (『全集』第1巻.76〜77頁)

 

            私は多くの礼拝や祈祷会やが、薄信弱行を歎き悲むことのみを能事として居て、其処に重苦しい空気と何

           だか不自然な嘆息とのみが漲り、力強い喜びの歌声が少しも響いて来ない事を実感して、久しく何故だろうか

           と考えて居りました。そうして其理由が近頃やっと判ったような気がしています。即ち教会が福音主義を離れて

           祭司主義に傾いているからだと思うのです。救いの可能性とそれに到達する為めの道徳的前行条件ばかりを

           問題にして、既成の救いの確実なる喜びを忘れているからだと思うのです。凡て重きを負えるもの疲れたる者

           は我に来れ、我汝らをやすませんと仰せられたのが救主キリストではありませんか。‥‥‥‥‥‥然し何故

           その歎きにばかり拘泥(こうでい)しますか。何故薄信々々と薄信を口癖にしてばかりいて、己が薄信の事実に注

           目してばかりいて、天を仰がないのですか。十字架上の愛に注目しないのですか。

                                                   (『全集』第1巻.165頁)

 

               信仰とは神に信頼することである。己に恃(たの)まざることである。人を仰がざる事である。‥‥‥‥我らの

           能力弱く敬虔浅くとも、我らに拘らず、神の愛窮(きわま)りなくして其智慧深く力偉いなるが故に、我ら自身の弱

           さなどは問題にならぬこと、そのことが信仰である。故に信仰は不足を言わない、泣言をこぼさない。我らの

           信弱くとも何かある。我らの力乏しくとも何かある。失敗何かある。不振何かある。神いまし、神愛したもう。

           その他に何の不足かある。我らのみじめさに拘らず、我らの希望はいやかゞやき、我らのよろこびはいやあふ

           れ、我らのものにあらざる力が、いづこよりか来って我らの空虚なる全身全霊を充し且つ溢れざるを得ない。

           そうして斯(か)くしてより以外、我らに真の力の充ち溢るゝ方法はない。少くとも信仰は是れ以外の方法を知らな

           い。

                                                   (『全集』第1巻.178〜179頁)

 

               人生の最大問題は言でありません。力であります。概念でありません、生命であります。随って信仰生活に

           於ける最大問題も、言でなくて力、教理でなくて生命であります。‥‥‥‥‥‥この意味に於いては、基督教

           は理想主義的でなくて、むしろ現実主義的であります。

                                                    (『全集』第1巻.203頁)

 

               基督の福音は単なる理論的可能性の提唱ではない。可能性ではない、現実々在の事実である。事実神は

           いまし、事実神は摂理し、事実神は人類の休戚に深刻なる関心を寄せたもうて、その独子を賜うほどに人類

           を愛したもうのである。この事実、その実在性が基督教の根柢である。‥‥‥‥‥

            ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            信仰は単に可能なる神性を思念するに止まるものでない。信仰の頼る所は現前なる活ける神である、その

           神の活ける力である。故に看よ、真の信仰は生ける力である。活ける神の生ける力に依り頼むことが信仰で

           ある故に、信仰それ自身がまた生ける力に現にあづかることたらざるを得ない。単なる確信でない、新生であ

           る。‥‥‥‥‥‥

            ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            福音的信仰とは単なる信頼たるに止らず、基督の事実についての堅固なる知識でもなければならぬ。信仰

           は推理や要請や期待やに止るものでない。現前の事実に立脚し、現に見、じかに触れるものである。基督は

           理論的要請の産物ではない。歴史的に現実なる客観的事実である。

            然しこの客観的事実は超自然的事実であって、一般人間的経験的認識を以て捉えられ得べき事実でない。

           ‥‥‥‥‥我ら一人々々が個人的に親しく啓示を受けるのでなければ、終にその客観的実在性を究め難き

           事実である。故に其把握方法に即して之を言えば、基督の事実は極めて個人的主観的なる事実であって、具

           体的一般的なる客観性の指標をもたない。然し其把握実質に即して之を言えば、超人智的に客観的なる活事

           実である。

                                                    (『全集』第2巻.146〜160頁)

 

               キリスト教の信仰は、人格的な神への人格的な信頼である。それは実在的力への真実な信頼である。信仰

           は窮極には力である。神は与え、人は信仰において、単に観念的ならず、実在的なる力を、理想の真の光明

           と共に、受ける。‥‥‥‥‥‥‥

             ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            然り、信仰は望むところの超越的な実在的なる実体である。この超越性と実在性、これこそ信仰の本質と

           実体とである。なぜならキリスト教の信仰の動向は徹頭徹尾実在的である。信仰は知識よりも、知性よりも、

           観念論的感情よりも以上のものである。信仰は人の自らの存在よりも一層実在的で信頼すべき力である。

                                                   (『全集』第4巻.395〜396頁)

 

           

                                                                        [三谷隆正 目次]   [ホームページ]

 


 人 生

            地上生活に於けるさゝやかな謙遜なよろこび、パンひとつ、果物ひとつを分けあう喜び。それは他の何物

           をも措いて求むべき不滅の宝ではないであろう。然しやさしく美しき喜びである。人生のそうしたつゝましき

           喜び、さゝやかな幸福、それは決して無意義なものではない。修道僧たちはこのつゝましき喜びを知ること

           なしに一生を終るかも知れない。然しそれあるが故に彼等がそれだけえらく、それだけきよくあるのでは決

           してない。‥‥‥‥‥‥‥

                                                    (『全集』第2巻.208頁)

 

               人間は肉だけでもない、霊だけでもない。霊肉二元相倚り相制約して休みなき葛藤が即ち人間の生活で

           ある。だから強いて肉をすっかり殺して霊だけになろうとすれば、人間の生活は活ける実質に乏しい空疎な

           ものになってしまう。地上現世に於ける人間生活に関する限り、仙人の生活は俗人の生活よりも貧しい。霊

           的にさえ貧しい。

                                                    (『全集』第2巻.355頁)

 

               人生の実際は百の説明を絶して二元相克の修羅場である。人生のこの二元性を否定するものは、凡てこ

           れ強いて眼をふさいで人生の実相を見まいとするものである。人間生活に於ける凡ての悲劇はこの二元性

           から生れるのである。この二元相克の故に理想と現実とが衝突し、また善と悪とが妥協する。世界歴史は畢

           竟するにこの二元相克の舞台に他ならぬ。だから若しこの二元性に超克することができるならば、人生に於

           ける最も深刻なる悲劇に超克することができる。従ってまた人生に於ける至幸至福の境地に住することがで

           きる。然しそれには唯観念の上で二を一と悟ったり、二も一もないというようなことを了得したりしたのでは駄

           目だ。如実なる霊力を得て、二つのうちの一つがはっきり他の一つに克(か)たねば駄目だ。パウロのいわゆ

           る霊が肉に打勝たねば駄目だ。無でも中でもない。飽くまでも二元的な闘争とその一方の勝利である。この闘

           争に超然として一層高次の世界に住しつつ、心しづかに善悪生死を絶したる彼岸の寂光をたのしむというよう

           なことは、煩悩具足のわれら人間に許されたる実践的境地ではない。われらに許されたる地上実践の現実世

           界は二元相克の戦場である。苛烈深刻なる差別闘争の修羅場である。霊を以て肉に克つより他に絶対に第二

           第三の便法がないのである。このたたかいを避けてはならないのである。

                                                    (『全集』第2巻.361頁)

 

                                                                        [三谷隆正 目次]   [ホームページ]

 


 幸 福

            かくて幸福とは、地上に於ても天上に於ても、旺(さかん)なるいのちに充ち溢れることだ。そのためにはわれら

           人間の限りある貧しきいのちが、もっと豊な永遠的ないのちにつながれなければならぬ。そのためには唯見た

           り悟ったりするだけでなく、もっと突込んで、いのちを以ていのちに迫るのでなければ駄目だ。天上に於ても地

           上に於ても、斯の挺身的な没入、そのひたむきな帰依(きえ)が幸福の奥義である。だから地上では、すべての

           悪と偽りとを敵に廻しての不断の健闘。天上では勝ち誇る愛と真実との活発発地たる建設経営。これが幸福

           の奥義であり、また人生の真意義である。古今基督教会は前者を指してEcclesia militans戦闘の教会、後者を

           指してEcclesia triumphans勝利の教会と呼びならわして来た。

                                                             (『全集』第2巻.388頁)

 

               ‥‥‥‥‥‥‥この意味に於ては、真摯なる生活者の一生は失意失敗の連続であることが珍しくない。この

           意味に於ては、人の一生は到底その人みづからのつくる所ではない。多くはその人みづからの造ろうとした所と

           逆な一生である。にも拘らず、真摯なる生活者の真実なる一生は、その人みづからの願いしより以上に、一層

           深刻にその人の願いの通りの一生にまで完成する。祈らずとても神は護らんでなくて、祈りし以上に神は聴き

           たもうのである。人の企画は浅薄幼稚である。その幼稚なる企画が実行されずして、神の博大高邁なる深謀遠

           慮が実行されるということは、何という幸福であろうか。

                                                     (『全集』第2巻.401頁)

 

                                                                        [三谷隆正 目次]   [ホームページ]

 


 個人主義

            信仰とは普遍妥当の客観的概念でなくして、最も深刻に個人的なる主観的に親しき心的態度であるという

           事である。この個人性が信仰の本質である。‥‥‥‥‥

            ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           ‥‥‥‥‥ひとりひとり身親しく神の大前に出て、沁々(しみじみ)と身にしみて生ける信頼をさゝげまつらんとす

           る時、個性主義的ならずして他のいかなる立場をとり得るか。身親しく神の大前に出ようとする時、どうして他

           人の事、社会の事など構って居るいとまがあり得るか。利己主義と罵(ののし)るものは罵れ、我らは生命の最も

           深刻なる問題につき他人の代理をする事はできない。いのちは各自が自ら之を生きるより他に道がない。神

           様への生ける信頼を、他人に代ってさゝげまつる事はできない。我ら神に信頼せんとする時、我らは個人主義

           者たらざらんとするも得ない。然らざるものは凡て浅薄なるごまかしである。

            そうして神の大前に於けるこの個人主義のみが、真に我らを救い我らを生かす所の唯一の道である。

             ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            信仰の道は独り旅の道である。神の前には独り立たなければならない。神の前には団体はない。

                                          (『全集』第4巻.21〜25頁)

 

                 我らの信仰は、我らの側から見れば個人的である。然し神様の側からみれば、徹底的に没主観超

             個人的である。我らは天にいます独りの神と其独子基督とを信ずるものである。主は一つ。神は一つ。

             その一つなる神に対する我らの信仰の内容が、てんでんばらばらになる筈がない。論より証拠、初代

             基督教者達は彼らの信仰それ自体に具(そな)わる勘の力で、お互の同じ信仰を認識し合ったのである。

             正しい信仰か曲った信仰かは、信仰的な勘で解るのである。その勘の力で、例えば新約聖書二十七

             巻の正経が選び出され、余は斥けられたのである。決して或る明確なる客観的準尺と謂ったようなも

             のによる選定ではない。一に勘である。人間の智慧に頼らず、絶対の信頼を神様に置いて、虚心に

             天来の示教を待つ時に得らるゝ、信仰の勘である。信仰が活き活きして居れば、この勘もぴちぴちし

             ている。この勘が鈍(にぶ)りさえしなければ、正信を邪信から区別する為め、別段の客観的目安など

             は要らないのである。それを要るように思うのは、信仰の勘が鈍いのである。大切な事は先ず信仰を

             深め強めること。そうすれば自然に勘が鋭くなる。

                                                      (『全集』第5巻.167〜168頁)

 

                                                                       [三谷隆正 目次]   [ホームページ]

 


 基督者

            教会などであの方は非常に熱心な信者ですなどと評せられている人が、会って話などしていると非常に

           不自然な感じのする人であることは、決して珍しい事でない。あんまり基督者たる姿態を整えることに没頭

           するものだから、つい癖がついて、要らざる折に要らざる姿態をつくるようになるのである。‥‥‥‥‥

           基督者が基督者くさくなり、いやに玄人(くろうと)じみて来るのは、詛(のろ)うべきことである。‥‥‥‥‥

           我らの主張する無教会主義とは、信仰生活に於ける純素人(しろうと)主義である。素人くさい無器用さ、然し

           その代りに素人的真剣さ、そうしたものを我らは極力保有し度く思う。そうしてそのためには、基督者たる

           ことにのみ没頭せずして、また自然なる人間としての極めて人間らしき生面にも、充分にして暢(の)びやか

           なる関心を向けねばならぬものと思う。

                                                        (『全集』第5巻.220〜221頁)

 

                                                                         [三谷隆正 目次]   [ホームページ]


 日本的基督教

    

            日本人には日本的基督教なかるべからず。米人には米人的基督教、独逸人には独逸的基督教あるべし。

             ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            若し福音の本質が一般抽象的な原理にとどまるものならば、日本的基督教だの独逸的基督教だのという

           事は意味をなさない。日本国にも何国にも一律一様に妥当する原理でなければならない。然し福音の本質は

           一般的原理に尽きない。福音の真理は生活の真理である。基督の福音に与(あづか)るということは、我々の現

           実なる生活の衷に、或る基督的なる活気を注ぎ入れられ、この独特なる活気に基く独特なる生活をすることで

           ある。各民各個の現実具体的なる生活に於ける活消息である。一般に人間たるものは斯く斯く生活すべし、と

           いった類の一般的原理の問題でなくして、昭和の日本の百姓甲、商人乙、工人丙の今日の生活をどうするか

           という問題である。そういう現実な生活問題である。

            ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           故に我らの念頭にある人間は、世界人とか人類とか言ったような、抽象的な概念でない。我らは我らの眼前に

           同胞日本人を見る。‥‥‥‥‥‥先ずこの同胞に呼びかけず、働きかけずして、いづこに如何にして、生きた

           人間を相手の伝道をしようとするのであるか。日本語を語り、日本的感情に訴え、大和魂に呼びかけるより以

           上に深刻なる、如何なる他の伝道方法を我らが持つと思うか。‥‥‥‥‥‥‥私は私自身の生地(きじ)を以て

           立つより他の事ができない。‥‥‥‥‥‥‥我らが日本的基督教を提唱するのは、ほかでもない、我らの生粋

           (きっすい)なる日本的生地をそのままに、真実そのものを以て聖前に立ち度く念ずるからである。

                                                (『全集』第4巻.534〜535頁)

 

                                                                        [三谷隆正 目次]   [ホームページ]

              

           


  神 

            全体として見る時、神様は我々人間が意識する以上に遥に公平であり給う。然り、神の義の支配は洵(まこと)

                 に恐るべく徹底的である。神は事実人の不義を其子三代に及ぼして迄罰し給う。私はその実例を幾つか見た。

           個人に関しても、国々と人類全体とに対しても、神の義の支配は怖るべき活事実である。

                                                 (『全集』第4巻.141頁)

 

               そうして事実我らの生活とその所行に対しては、隠れたるに見たもう父が極めて正確に報いたもう。我らは

           その事実を疑うことが出来ない。‥‥‥‥‥‥‥人生の事実は殆ど日々、隠れたるに見たもう父の報い給う

           報が、いかに厳正辛辣(しんらつ)にして仮借するなきかを証しつゝある。我らの不義は必ず罰せられる。

                                                 (『全集』第4巻.223頁)

           

 

                                                                        [三谷隆正 目次]   [ホームページ]          


 天 国

               第一に天国は個性の国であるに相違ないと私は期待する。‥‥‥‥‥

            ‥‥‥‥‥‥‥神の国はひとりの惜しまるゝ国に相違ない。そこではいとちいさき個までが、その独自なる

           個性を尊まるゝに相違ない。‥‥‥‥‥天国は個性爛漫として千紫万紅とりどりの光彩あいかゞやき、その

           間の生命の横溢(おういつ)ぶりは、言語を絶して豊満なるものであるだろう。

            ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            第二に天国は完き真実の支配する国であるだろう。‥‥‥‥‥

            ‥‥‥‥‥‥お世辞が露ほどもない国、野の花の如き真率さの漲(みなぎ)る国、随って心の底から安心して

           話のできる国、人みなが完き真実に耐え得るほど強く真実である国、かゝる真実の国が神の国であるに相違

           ない。‥‥‥‥‥

            ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            第三に天国はもちろん愛の国、愛による完き協同一致の国であるに相違ない。‥‥‥‥‥‥

                                                (『全集』第2巻.59〜63頁)

 

                                                                        [三谷隆正 目次]   [ホームページ]



 略 歴

  1889.2.6     神奈川県に生まれる

  1906.3      明治学院普通学部卒業

  1907.7      第一高等学校一部甲類‐英法に入学 (1910.6 卒業)

            内村鑑三に師事

  1910.7      東京帝国大学法科大学英法科に入学 (1915.7 卒業)

            在学中、病気のため一年休学

  1915.9      第六高等学校(岡山)教授 (1926.3 辞任)

            岡山市の日本基督教教会の会員として奉仕

  1923.1      児玉菊代と結婚

  1924.3      長女晴子誕生、生後三週間で死去

  1924.7      妻菊代永眠

  1926.4      岡山より東京へ移転

            千駄ヶ谷教会の長老として奉仕 (1930まで)

  1926.6      静岡高等学校講師嘱託 (8月退職)

  1926.9      東京外国語学校講師嘱託

  1927.3      第一高等学校講師嘱託

  1927.4      中央大学講師嘱託

  1929.3      第一高等学校教授任命、法制およびドイツ語担任

  1932.4      女子学院講師嘱託

  1934.9      東京女子大学講師嘱託

  1939.7      静岡高等学校長任命 (10月 病気のため辞任)

  1939.10     第一高等学校講師嘱託 (1942.4 辞任)

  1940.3      『畔上賢造著作集』の編集・刊行の責任者となって着手

            (1942.1 完了)

  1942.4      森豊子と再婚

  1944.2.17     逝去

               〔『三谷隆正全集 (第5巻)』の「三谷隆正年譜」にもとづき作成〕

 

                                                                       [三谷隆正 目次]  [ホームページ]


 主要信仰著書

              『三谷隆正全集』(全5巻).岩波書店.1965〜1966

              『幸福論』.岩波書店(岩波文庫)  [『全集』第2巻に収録]

 

 参考文献 

              『真理の人―三谷隆正先生―』.山田幸三郎・藤本正高・高橋三郎・中川晶輝 著. 待晨堂(待晨新書4).1964.

                    ※ 三谷隆正昇天二十年記念講演会(1964.2.16)講演集

              『三谷隆正‐人・思想・信仰‐』 .南原繁、高木八尺、鈴木俊郎 編 .岩波書店 .1966

              『三谷隆正の生と死』 .『三谷隆正の生と死』刊行委員会 編 .新地書房 .1980

              『三谷隆正の研究―信仰・国家・歴史―』. 村松 晋 著. 刀水書房. 2001.  

            ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

               『近代日本キリスト者の信仰と倫理』. 鵜沼裕子 著. 聖学院大学出版会. 2000.

                   ※ 「第五章 三谷隆正 ―その信仰と思想に関する一考察― 」(119〜139頁)

                  『神谷美恵子 若きこころの旅』. 太田愛人 著. 河出書房新社. 2003.

                   ※「対話する賢者 三谷隆正」(53〜70頁)

                        

                               

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