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1883.4 .28 岡山市川入(旧:賀陽郡庭瀬村大字川入字小西)で父・大賀綱太、母・と免の12人兄弟の長男として出生。
1888.4 賀陽郡庭瀬尋常小学校入學。
1890.9 一家の財政的逼迫により岡山市東田町72に転居。
岡山市西中山下の新小学校に転入学。
* 同校は間もなく合併により尋常岡山小学校と改称。
1892.3 尋常岡山小学校卒業。
1892.4 高等岡山小学校入学。
1895.3 一家、岡山市仁王町59に転居。
1896. 3 岡山高等小学校卒業。
1896. 4 岡山県立岡山尋常中学校入学(1901年、岡山県立岡山中学校と改称)。
1897. 4 一家、岡山市仁王町47に転居。
1899 中学四年生の頃、友人から『東京独立雑誌』を借りて読み、内村鑑三の名を知る。
1901.3 岡山県立岡山中学校卒業。
1901. 5 チブスに罹り進学を断念。回復後、翌年5月まで岡山高等小学校に奉職。
1902. 1 岡山基督教会で宣教師ペギーから受洗。
1902. 7 内村鑑三の第三回角筈夏期講談会に参加。
この夏期講談会後、内村鑑三の角筈聖書研究会に入会。
また、いわゆる「角筈十二人組」に参加。
* 内村鑑三の命で、九段の教会と海老名の本郷教会を脱退。
1902.9 第一高等学校(第二部、工科)に入学。
1905. 7 第一高等学校卒業。
1905. 9 東京帝国大学理科大学植物学科に入学。
* 伯父より学資の援助を受ける。
1905.11 角筈聖書研究会が解散し、東京教友会が結成され、メンバーとなる。
1907. 9. 18 母、死去。
1907. 11 父、廃業し岡山市内山下35に転居。
1209 この頃から数年間、小石川指ケ谷の盲唖学校の生徒に伝道。
1909. 7 東京帝国大学理科大学植物学科卒業、大学院に進学。
週一回、中学校の先生を内職にしながら、教授の副手をつとめる。
1909.10 父、大阪に転居し、弟妹たちが親戚知人方に分散することとなり、末弟を引き取る。
1910. 6 新設されたばかりの第八高等学校講師となり名古屋に赴任。
1911. 1. 4 内村鑑三の仲人で、塩尻うた(歌子)と結婚。
1911. 7 第八高等学校教授に就任。
内村鑑三の来訪滞在を機に自宅で聖書研究会を始める。
* 同僚教授の一人から忍び得ない圧迫をうけ、貧困と戦いつつ7年間を過ごす。
1911.8 弟妹4人を名古屋に呼び養う。
1913.1 内村聖書研究会内に「モアブ婦人会」発足し、妻・歌子が会員となる。
1917.2 南満州鉄道株式会社教育研究所員として大連に赴任。
* 生活のため収入の多い満鉄に転職。大連には、父と弟3人を伴う。
満鉄では、社内で早天祈祷会を行う。
1921
この頃から、満州各地30箇所余りに日曜学校を創立しキリスト教を伝道。
1923. 8 〜1926.6 欧米留学
1923.12 内村聖書研究会内に「洗足会」が発足し会員となる。
1926.6 新設の満州教育専門学校教授に就任。
1926. 11 大連より奉天に転居。
1927.4 理学博士の学位を得る。
1928.6 張作霖爆死事件発生。
その顛末の詳細を知り、内村鑑三に顛末を述べて満州引き揚げを相談する。
1931.4 妻、『すみれ図譜』(大賀歌子著、生き物趣味の会)刊行。
1931. 9 柳条溝事件発生、その詳細を知る。
1932. 2 満州事変に釈然としないものを感じ、南満州鉄道株式会社を退職。
※ 「満州事変に賛成しなかった」から「天皇に不忠した国民」として「官吏はできない」
との理由で「民間人」となる。
1932. 3 東京に戻る。
1932.4 東京女子大学講師を委嘱される。
※ 「天皇に不忠をした」のだから「正式にすべきではない」として講師にとどまる。
東大農学部植物学教室および自宅で研究を続ける。
1932. 4 父の隠居により家督を相続。
1933. 8 経堂、青山等を経て、東京府淀橋区上落合1の468に居を定める。
1934 東京女子大学講師を辞任。
1944.1 末弟、死去。遺族6人同居。
1944. 4 東亜学校高等科講師に就任。
1944. 8 東京農林専門学校(現、東京農工大学)講師を委嘱され、臨時教育養成所で教える。
学内で聖書研究会を開く。
1945. 5 戦災のため自宅を焼失。
1945. 6 東京都北多摩郡府中町新成区8931に転居。
この月、新居で教友と感謝祈祷会を開き、これが機縁で「霊交会」が生れる。
転居後、間もなく、府中聖書研究会とケヤキ並木聖書研究会(自宅)を開く(後に、合併)。
また、自宅で日曜学校も開く。
1945. 6.5 父、岡山で死去。
1946. 4 日華学院(旧称、東亜学院)廃校のため講師辞任。
1948. 4 東京農林専門学校臨時教員養成所閉所につき講師辞任。
1948 この頃から基督教独立学園高等学校(山形県)を隔月位に訪問、無給で生物学を講義。
1950. 4 関東学院大学教授に就任。関東学院高等学校の生物学特別授業にも出講。
1950 鳥取大学非常勤講師。
1951.3 千葉市検見川の泥炭層から約二千年前の古蓮の実を得る。
1951.7 弟の一人の罹病により、甥姪の3人を引き取り養う。
1952.7 「二千年ハス」(「大賀ハス」)が初めて開花。
1952.12 府中聖書研究会を中止。
* 大家から家の明け渡しを迫られ、府中を去り千葉県検見川に移住する決心をしたため。
1953. 8 「二千年ハス」がハンブルグ市で開花。
1953. 9 ドイツハンブルグ名誉賞を受ける。
1953. 11 府中市の有志により家屋が提供され、東京都府中市本町5丁目9432
(後、寿町2丁目8の4に住居変更表示)に転居。
これを機に「府中大賀会」が誕生し、経済的援助等を受けることになる
1954 鳥取大学非常勤講師を辞任。
1954 『ハスを語る』(忍書院)刊行。
1955. 11 妻、倒れ半身不随になる。
1956. 3. 2 妻、死去。
1957. 3 『偲び草』刊行。
1958.1 郷里岡山県吉備町にて町民による「大賀一郎博士後援会」結成。
1959.11 府中市の婦人が中心となり「蓮の実会」が誕生し、月々研究費を贈られることになる。
1960 『ハス』(『ハスを語る』を再版改名、内田老鶴圃)刊行。
1961. 11 紫綬褒章を受賞。
1964. 10 脳軟化症のため自宅で倒れ、都立府中病院に入院。
1964. 11 武蔵境病院に転院。
1965. 2 東京大学付属病院中尾内科に転院。
1965. 4 勲三等瑞宝章を授与される。
1965. 6. 15 死去。正五位に叙せられる。
1965. 6. 20 告別式(キリスト教婦人矯風会館)。
1965.7 『ハスと共に六十年』(アポロン社)刊行。
1965. 10. 9 吉備町民告別式(岡山県都窪郡吉備町立吉備中学校)。
1965 没後、蔵書と学術資料の全部が府中市へ寄贈され、府中市立図書館では、
その後寄贈された書物を加えた約7000冊を『大賀文庫目録』を作成して保存。
参考資料: ・『蓮ハ平和の象徴也 ―大賀一郎博士を偲ぶ―』(大賀一郎博士追憶文集刊行会 編集・発行、1967)
・『ハスを語る』(大賀一郎 著、忍書院、1954)
・『ハスと共に六十年』(大賀一郎 著、アポロン社、1965)
・「大賀一郎」(長島時子著)〔『無教会キリスト教信仰を生きた人びと―内村鑑三の系譜』(無教会史研究会 編.
新地書房.1984)213〜253頁〕
・『政池仁著作集16』(政池仁 著. キリスト教図書出版社. 1987)189〜195頁、458〜462頁
『ハスを語る』. 忍書院. 1954.
『ハスと共に六十年』. アポロン社. 1965.
『大賀一郎 「ハスと共に六十年」 』(人間の記録106). 日本図書センター. 1999.
(底本:『ハスと共に六十年』. 大賀一郎 著. アポロン社. 1965.)
『蓮ハ平和の象徴也 ―大賀一郎博士を偲ぶ―』.大賀一郎博士追憶文集刊行会 編集・発行. 1967.
『ある求道者の晩年 ―大賀一郎博士のこと―』.井上茂朗 著. 井上道子 発行. 1979.