大塚久雄

目 次

             [ 真理への畏敬 ]  [ 心の貧しさ ]  [ 意味喪失の時代 ]  [ 価値の転倒 ]  [ 苦難の神義論 ]  

             [ 略歴 ]  [ 主要信仰著書 ]  [ 参考文献 ]

 

                                         〔注〕 『社会科学と信仰の間』 ‥‥発行所 図書新聞社.1967.

                                                      『生活の貧しさと心の貧しさ』‥‥発行所 みすず書房.1978.

                                                      『意味喪失の時代に生きる』‥‥発行所 日本基督教団出版局.1979.

                                                      『社会科学と信仰と』‥‥‥‥発行所 みすず書房.1994.

 

                                                                       [ホームページ]

 


 真理への畏敬

                  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                私が「真理への畏敬」などという、かなり堅くるしい表現を用いて、さしあたっていいたいのは、

               実はこうした事実を素直に事実として承認する心がまえなのです。やや大げさな言葉を使えば、

               事実そのものを、モーセが自分の立つところは聖なる地であると知ってはだしになった、あるい

               はヨブが大空から響いてくる神の声の前にもう理屈なしに黙ってあたまを下げたような誠実さを

               もって、謙虚に事実を事実として承認し、また、ダビデ王の罪を問責するナタンのように勇敢に

               正しいことを正しいとして主張する、こうした主体的真実なのであります。‥‥‥‥‥

                  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                  ‥‥‥‥‥‥‥今の日本に何よりも必要なのは、この真理に対する畏敬の念、つまり自分

               に不利であっても、どんなに辛くても、とにかく事実は事実として承認するということからすべてを

               始めるという態度、さしあたっては相手に負けてもいいから、とにかく真実を先に立てて行動しよう

               という態度、こういう真理への畏敬の念ではないでしょうか。

                                                   (『社会科学と信仰の間』 34〜46頁)

 

                                                                         [大塚久雄 目次]   [ホームページ]

 


 心の貧しさ

                   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                 自分は人なみではない。恥ずかしくて人前になど出られない。彼は自分の内面において名

                誉感といいますか、そういうものを完全に喪失してしまっている。自分がこの世の中に生きて

                いる積極的意味などどうしても見出せない。人々に誇り得るような、あるいは、分け与えうる

                ような内面的な財というものを、何ももっていない。こうして内側がまったく空っぽになっている。

                ‥‥‥‥‥‥‥‥‥これが精神的貧困であり、心の貧しさだと思います。

                   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                 現在わが国においては、いわゆる高度成長によって、社会の経済的な諸事情がひじょうに

                変わってきた。いってみれば、経済的な貧しさとははっきりと違った心の貧しさがしだいに前面

                に出てくるようになった。心の貧しさの問題というものが、生活の貧しさの問題と並んで、しだい

                にはっきりと認識されるようになり、重要な意味をもつようになってきた、‥‥‥‥‥

                   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                  ‥‥‥‥‥‥‥‥経済的貧困という重要問題のいわば付録として精神的貧困の問題が

                現われてくるというものではなく、むしろ、そもそも精神的貧困の問題が何らかの形であらかじ

                め解決されているのでなければ、経済的貧困の問題も解決のめどが見出されない。‥‥‥

                   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                  ‥‥‥‥‥‥‥‥奴隷たちがどうしても奴隷の境遇から脱れ出ようと決意するようになる

                のは、奴隷状態が自分たちに人間としての品位を失わせ、この社会で生きていく積極的な意

                味を見出すことができないと感じて、心がほんとうに貧しくなったときです。それによって彼らの

                価値観が転倒したときです。経済的貧困のばあいも同じで、そうした状態にあるだけでは、それ

                を無くそう、現状を乗り越えてさらによい状態を作り出そう、というような理想を追求する行動は

                出てこない。それが精神的貧困あるいは心の貧しさを生み、それに裏打ちされて、彼らの内面

                で価値の転倒がおこなわれたときにはじめて、現状を変え、理想により近い状態を作り出して

                いこうということになるわけです。‥‥‥‥‥‥‥‥

                                              (『生活の貧しさと心の貧しさ』27〜39頁)

 

                                                           [大塚久雄 目次]   [ホームページ]


 意味喪失の時代

                 現代の、とりわけ文明諸国においては、世界が、そしてそのなかでおこなわれている人間の

                すべての営みが急速に意味を失いつつある。いや、世界はそうした意味に満ちていた、といっ

                てもよいでしょう。ところが、その、世界がおびていたさまざまな意味が、いまやかき消すように

                失われつつある。そういう「世界の意味喪失」ともいうべき現象が現在文明諸国に拡がりつつ

                ある。‥‥‥‥‥‥‥

                   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                  ‥‥‥‥‥‥世界の意味喪失の動きはそうしたことだけに止まらないで、ちょうど赤ん坊を

                湯桶の水といっしょに流してしまうように、人類の生存にとって不可欠と考えねばならぬさまざま

                な意味、それを究極においてささえる諸価値とのつながりをさえ消し去ってしまう、そうした結果

                を生みはじめたのです。なかでも重要なのは、このわれわれの生きる日常的な世界のなかでは、

                聖なるものへのつながりはもはやほとんど見出せず、信仰の居り場所がこの世界から消えさっ

                てしまったということです。‥‥‥‥‥‥‥‥それに、このように聖なるものへの信仰が人々の

                心から消え去っていきますと、こんどは、それぞれの固有な価値を基準として自律的に動くさまざ

                まな文化諸領域を統一する原理が失われ、そして、そこに無政府的な価値の多元化という現象が

                生まれてくることになるというわけです。

                    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                  しかし、なかでももっとも重大なことは、人々が生きることの意味を見失ってしまったように思わ

                れることです。何のために生きているのか、その意味が分からない。生きていることの意味が分か

                らなければ、人々の生きがいも失われてしまう。

                    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                  ‥‥‥‥‥‥‥現代文化を貫いている形式合理的な思考、その原則にしたがう思索のなかに

                われわれが止まっている限り、この問題の解明はありえないのではないか、‥‥‥‥‥‥

                    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                  ‥‥‥‥‥‥‥どう考えても正しい意味での宗教の復位、そしてそれを通して、人々の間に実

                質合理的な思考原則を浸透させていくこと、それより他に道はありえないのではないか、‥‥‥‥

                    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                  ‥‥‥‥‥‥‥形式合理的な原則の上にうちたてられている日常の世界から宗教の世界への

                移行は、彼らの身についている形式合理的思考の上にたつ限り、連続的なものではありえない。そ

                こには、どうしても思考の大きな飛躍がなければならない。つまり、初期キリスト教の神学者が喝破

                した「非合理なるにも拘わらずではなく、むしろ非合理なるが故に、私は信ずる」、まさにこの飛躍が

                なければならない。

                 ところで、これはかってブレーズ・パスカルが言ったように、まさしく賭けです。‥‥‥‥‥‥‥‥

                 ‥‥‥‥‥‥‥‥その結果の良し悪しを科学的に予測するというようなことは、原理的にできない。

                われわれにできることは、その賭けを敢えて試み、そして信仰の立場に飛躍してみることです。そして、

                そうした信仰の立場から、こんどは逆に、われわれが今までその中に浸り切っていた形式合理的な思

                考とその上に立つ人工的コスモスをいま一度振り返ってみますと、それが実質的に非合理的であった

                ことがわれわれの目にはじめてはっきりみえてくる。‥‥‥‥‥‥‥

                                                  (『意味喪失の時代に生きる』63〜91頁)

 

                                                                        [大塚久雄 目次]   [ホームページ]

 


 価値の転倒  

                  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥  

                ともかく、山上の垂訓や平野の説教にあらわれている思想は、およそ現世での常識からかけは

               なれています。いや、非常におそろしい言葉だとさえいえましょう。‥‥‥‥‥‥‥‥この中では、

               われわれが常識で知っているような、この世で通用している価値観は、まったく否定され、価値の

               根本的な転倒がおこなわれているからです。そして、現世では人間にとって全く実行も実現も不可

               能なことだ、ということも、私も認めるほかありません。

                  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                 ‥‥‥‥‥そのような現世の常識に反した、実行も実現も不可能のような教えが、われわれに

                とっていったいどういう意味があるんだろうか。‥‥‥‥‥‥実は、私には、まさにそれが現世では

                実行も実現も不可能なところに、かえって山上の垂訓の一ばん大切な点があるように思うのであり

                ます。‥‥‥‥‥‥

                  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                 ‥‥‥‥‥‥人間は確かに自分たちの利害関連によって動かされております。‥‥‥‥しかし、

                同じく利害関連にしたがって動いているといっても、われわれは、自分自身がその中に立っている

                その同じ利害関連を、物質的利害でもいいし、その他のさまざまな内面的利害でもいいんですが、

                そういう利害関連を、自分の目前の、小さな、低い価値観点から眺めることもできますが、しかしまた、

                もっと長い目で、もっと高い価値観点から眺め、その人生における意味をすっかり変えてしまうことが

                できるわけです。‥‥‥‥‥‥

                  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                  ‥‥‥‥‥‥イエスの場合には、その同じ現世の利害関連の意味を、したがって人間の現世

                 における行動の方向を、一変させるような価値観点を示して下さっている。つまり、現世の利害を

                 こえたところへ、彼は価値の究極の観点をおきかえ、それによって現世における人間の生活の意

                 味と行動と行動の方向づけとを一変させようとしておられる。そうおもうのです。価値の徹底的な

                 転倒です。‥‥‥‥‥‥

                  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                   ‥‥‥‥‥‥イエスの教えは、たえずこういう不幸な人々、一番どん底で苦しんでいる人々に

                 目標を合わせてそういう人々に価値の転換を迫り、そして、目前のいろいろな、渦巻く利害関連と

                 いうものを、遠い、深い価値観点からみなおして、そしてその意味をすっかり変え、そして彼らに本

                 当の幸福が何であるかを教え、行動の方向を一変させる。そして、現在の苦しみの中から内面的

                 に、あるいは外面的に救い出す。そうした方向転換の起点を、イエスは、山上の垂訓で、われわれ

                 に教えて下さっているんだろうと思うのです。

                                                 (『社会科学と信仰の間』59〜64頁) 

 

                                                                        [大塚久雄 目次]   [ホームページ]


 苦難の神義論 

                        最初に述べましたように、あのモーセ律法にはじまって旧約聖書全体を貫ぬいている考え方

                  は、こうでしたね。君たちは、ヤによってエジプトにおける奴隷状態から救い出された人々

                  の子孫なんだ、だから、貧しい人々、虐げられている人々、寄るべない寡婦や孤児、あるいは

                  他国人をも自分たちと同じように扱い、親切にしなければならない、というのです。こうした律法

                  からも分かりますように、彼らの宗教的思考の中心におかれていることがらは、なぜこの世の中

                  に苦しみがあるんだろう、この苦しみはそもそも何に由来し、人々はどうすればそれから救われ

                  ることができるのか、そうした問題ですね。これが、さきほどの「幸福の神義論」にたいして「苦難

                  の神義論」Theodizee des Leidens とよばれるものなのです。

                      ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                    イスラエルの人々も、キリスト教徒たちも、現世における人間の苦しみは何に由来し、どうす

                  ればそうした苦しみから救われることができるかということを必死になって問題にしたわけですが、

                  ここでは、現世において苦難のなかにある人々、とりわけ抑圧された社会層の方に、そうした苦

                  難を除去するための宗教的使命があたえられるという形をとることになった。ですから、キリスト

                  教では、神は貧しい者、虐げられている者、愚かな者、幼い者に真理を顕わしたもう、ということ

                  になるのです。

                                              (『意味喪失の時代に生きる』50〜51頁)

 

 

                  「神はあえて無きに等しいものを選ばれた」とパウロが言っていますように、そういう貧しく、身分が

                  低く、愚かな、現世においては無きに等しい人々こそが、神の国を来らせるというヤの摂理

                  に協力する、そうした使命を与えられているばかりでなく、時至ってこの地上に神の国が実現した

                  暁には、その国の民とされて地を継ぐものとなるのだ。そういう「苦難の神義論」がキリスト教の中

                  には脈々として流れ続けているわけです。ただ、残念なことは、近代のキリスト教では、その影が

                  大変うすくなってしまっていることは争えません。再臨や終末ということはどこかへ消えてしまった

                  感があります。キリスト教における救いが何か仏教のそれに近くなっているのはそのためではない

                  か、と私はひそかに考えております。 

                                                    (『社会科学と信仰と』142頁) 

 

                                                           [大塚久雄 目次]   [ホームページ]


  略 歴


    1907         京都に生まれる。

    1924         中学4年から三高(文乙)入学。 母死去。

    1927         東京帝国大学経済学部入学。

    1927 .6       内村鑑三の聖書講義に出席(大学生の3年間)。

    1927         暑中休暇に入る少し前、帝大聖書研究会入会。

    1929         夏、信州星野温泉で内村鑑三に会い、マルクス主義とキリスト教信仰について示唆をうける。

    1930         東京帝国大学経済学部卒業、東京大学助手(任期3年)。

    1933         法政大学講師。

    1938         『株式会社発生史論』(有斐閣)、『欧州経済史序説』(時潮社)出版。

    1938         法政大学経済学部教授。

    1938 .3.27    内村鑑三記念講演会で講演、「プロテスタント・内村先生」

    1939         東京大学経済学部助教授。

    1941 .5.31    父死去。

    1941         春、一高へ行く途中バスで左膝を怪我。(長期療養の身となる)

    1943. 1       左脚を上腿部から切断。

    1944         『近代欧州経済史序説(上巻)』(日本評論社)出版。

    1945        東京大学経済学部教授。

    1947         夏から長期にわたり病臥。

    1948         『宗教改革と近代社会』(第1刷、みすず書房)出版。

    1949         『近代欧州経済史入門』(時潮社)出版。

    1955         『共同体の基礎理論』(第1刷、岩波書店)出版。

    1961. 12 .2    矢内原忠雄先生信仰五十年記念講演会で講演、「真理への畏敬」。

    1963         東大聖書研究会主催クリスマス講演「価値の転倒」。

    1965         『国民経済』(弘文堂、フロンテイア・ブックス)出版。

    1966          『社会科学の方法』(第1刷、岩波新書)出版。

    1966 .12 .4    矢内原忠雄先生五周年記念講演会で講演、「生活の貧しさと心の貧しさ」。

    1967         『社会科学と信仰の間』(図書新聞社)出版。

    1968 .3       東京大学定年退職、東京大学名誉教授となる。

    1968         『近代化の人間的基礎』(初版第1刷、筑摩叢書)出版。

    1969         日本学士院賞。

    1969 〜1986    『大塚久雄著作集』(全13巻.岩波書店)出版。

    1970         国際基督教大学教授。

    1975         文化功労者。

    1976. 12 .12   矢内原忠雄先生十五周年記念講演会で講演、「信仰の論理と世俗の論理」。

    1977         『社会科学における人間』(第1刷、岩波新書)出版。

    1978          国際基督教大学客員教授。 

    1978         『生活の貧しさと心の貧しさ』(みすず書房)出版。

    1979          『意味喪失の時代に生きる』(日本基督教団出版局)、『歴史と現代』(第1刷、朝日選書)出版。

    1985          国際基督教大学を定年退職。非常勤の客員教授となる。

    1992         文化勲章。

    1994         『社会科学と信仰と』(みすず書房)出版。

    1996 .7 .9     死去。

 

                                                           [大塚久雄 目次]   [ホームページ]


 主要信仰著書

                『大塚久雄著作集』(全13巻). 岩波書店. 1969〜1986 *

                『三訂 宗教改革と近代社会』. みすず書房. 1961.

                『社会科学の方法 ―ヴェーバーとマルクス― 』. 岩波書店(岩波新書). 1966.

                『社会科学と信仰の間』. 図書新聞社. 1967.

                『近代化の人間的基礎』. 筑摩書房(筑摩叢書). 1968.

                『社会科学における人間』. 岩波書店(岩波新書). 1977.

                『生活の貧しさと心の貧しさ』. みすず書房. 1978.

                『歴史と現代』. 朝日新聞社(朝日選書). 1979.

                『意味喪失の時代に生きる』. 日本基督教団出版局. 1979.

                『社会科学と信仰』. みすず書房. 1994.

                『国民経済』. 講談社(講談社学術文庫). 1994.

                『近代欧州経済史入門』. 講談社(講談社学術文庫).1996.

                

 参考文献

                『マックス・ヴェーバー研究』. 大塚久雄・安藤英治・内田芳明・住谷一彦 著. 岩波書店.1965.

                『マックス・ヴェーバー研究 生誕百年記念シンポジウム 』. 大塚久雄 編. 東京大学出版会. 1965.

                『「甘え」と社会科学』. 大塚久雄・川島武宜・土居健郎. 弘文堂(弘文堂叢書). 1976.

                マックス・ヴェーバー著 『プロテスタンテズムの倫理と資本主義の精神』.大塚久雄 訳.

                                                         岩波書店(岩波文庫). 1989.

                『20世紀の歴史家たち(1)』. 今谷 明・大濱徹也・尾形 勇・樺山紘一 編. 刀水書房. 1997.

                     「大塚久雄」(229〜244頁、著者:近藤和彦)

                『歴史への視線 ―大塚史学とその時代―』. 住谷一彦・和田強 編. 日本経済評論社. 1998.

                『大塚久雄と丸山眞男 動員、主体、戦争責任』. 中野敏男 著. 青土社. 2001.

                『大塚久雄 人と学問 付 大塚久雄「資本論講義」』. 石崎津義男 著. みすず書房. 2006.

                

                                                                       [大塚久雄 目次]  [ホームページ]

 


                

                     

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