[ 非戦主義 ]
〔注〕『恩寵の生涯』‥‥『恩寵の生涯』.坂田祐 著.待晨堂 発行. 1966.
従軍し、戦闘に参加し、肉をさき血を流し、幾百千の生命のやりとりを、
つぶさに体験して、戦争は罪悪であることを痛感した。正義の戦争なるも
のはありえない。名はいかに立派であっても、スパイ、欺まん、略奪、放火、
殺りく、あらゆる罪悪は戦争につきものである。私は非戦主義者となって
帰って来た。
(『恩寵の生涯』.24頁)
1878.2. 12 秋田県鹿角(かづの)郡大湯村(現、十和田町大湯)で、父・中村富造、
母・ミヱの次男として出生。母の乳が出ず里子に出される。
1884. 4 大湯尋常小学校入学。
1888.3 大湯尋常小学校4年を卒業。
1891 この頃、不老倉銅山に一家移住。
秋、鹿角郡毛馬内(現、十和田町)高等小学校第2年級に入学。
(知人の家に寄宿。)
1892 夏、家計困難のため高等小学校を第3年で中退、銅山で働き家計を助ける。
1893 秋田で勉学しようと家出するが途中でとらえられ連れ戻される。
1896 岩手県九戸郡久慈の炭坑で働くために家出。
途中、大地震あり三陸大津波の襲来に遭うが幸い難を免れる。
久慈の炭坑で働くが、津波の被害により数日で事業が停止、永松銅山で働く。
(鉱山で一緒に働く青年より聖書を貰う。)
その後、会津に出て叔父の家に数日間逗留、叔父から旅費を貰い東京に出る。
以後、東京・横浜・横須賀・浦賀等で働き、ついに足尾銅山にいたり98年7月まで働く。
1898. 8 千葉県国府台の陸軍教導団を受験入学、騎兵科の生徒となる。
1899.11 陸軍教導団騎兵科を卒業。陸軍騎兵軍曹に任じ、近衛騎兵連隊付下士官を
命ぜられ赴任。
1900 秋、連隊より選抜され陸軍騎兵学校に入学。
1901 父、中風のため死去。
1901.10 陸軍騎兵学校を首席で卒業、天皇陛下恩賜の銀時計拝受。
1902.4. 20 近衛騎兵軍曹の軍服を着、長剣を帯びて神田を闊歩中、東京基督教青年会館前
で呼び止められ初めてキリスト教の説教(説教者:木村清松)を聴く。
その日に東京基督教青年会の会員となる。以後、毎日曜午後、青年会に通い聖書
を学ぶ。この頃青年会幹事の丹羽清次郎から内村鑑三の『聖書之研究』誌を紹介
され、その後、第1号から買い集めて読む。
1902.12 陸軍士官学校・馬術教官に転任。
1903.2 宣教師ヘンリー・タッピングのバイブルクラスに入会。
1903. 3 四谷バプテスト教会に出席し中田重治の説教を聴く。以後、毎日曜日この教会に出席。
1903. 5. 3 小石川インマヌエル教会で洗礼を受け、四谷バプテスト教会(当時「四谷浸礼教会」の
会員となる。
1903. 5 伝道師となることを決心する。
1903. 10 東京伝道学校(霊南坂教会内)に入学。。
(午前、士官学校で教鞭。午後、東京学院で教え、伝道学校に通学。)
1903. 11 現役満期除隊、予備役に編入。東京学院の寄宿舎に入る。
1904.4 東京学院に高等科が併設され、その第1年級に入学。生徒のまま中等科・高等科で
体操を教える。
1904. 6 召集令状を受け、弘前・騎兵第8連隊に入隊、第1中隊分隊長として従軍。
弘前では毎日曜日、兵営から騎兵軍曹の軍服姿で外出し、弘前教会や弘前女学校
の日曜礼拝に出席。
1904. 9 弘前より大阪へ。大阪で約40日間滞在。
大阪バプテスト教会宣教師ワインドから『祈祷の答』と聖書の分冊「ヨハネ伝」50冊を貰い、
これを戦地へ持って行く。
1904. 10 大阪を出帆し大連に上陸、黒溝台・奉天の会戦に参加。
戦地では部下の完戸半次郎から内村鑑三の『求安録』・『後世への最大遺物』
『愛吟』を貰う。また毎月内地の親友より『聖書之研究』が送られ、これらをくり返し熟読。
分冊「ヨハネ伝」を部下に配布して露営の火で聖書講義をする。
この戦闘中に母、脳溢血で死去。
1905.10 戦死者遺体発掘火葬作業に従事(約2週間)。
1906. 3 戦地より、非戦主義者となり帰る。
(戦場で胃拡張になり医師から1年半ともたないと死の宣告を受ける。)
1906. 4 金鵄勲章功七級及勲七等青色桐葉章拝受。
1906. 4. 27 坂田チヱと結婚、坂田性となる。
1906.8 任陸軍技手、軍馬補充部大山支部に赴任。
1907. 6 正規の学校教育を受けるため依願免官、東京に帰る。
1907. 9 東京学院の編入試験を受け、中等科第4学年に編入。(29歳)
1909. 3 東京学院中等科を卒業。
1909. 9 第一高等学校に入学。(31歳)
一高YMCAに入会。
1911.10. 1 バプテスト教会の会員のまま内村鑑三の集会に入門を許される。
1912. 1. 30 白雨会(はくうかい)発会、創立会員となる。
1912. 7 第一高等学校を卒業。
1912. 9 東京帝国大学文科大学に入学、哲学科宗教学を専攻。
1915. 6 大学最後の口述試験で非戦論を主張。
1915. 7 東京帝国大学を卒業。東京学院の教師となる。(37歳)
日本バプテスト神学校の講師を兼任。
1917 東京学院が中学部を廃止。関東学院の創立にあたる。
1919.1
「私立中学関東学院」創立、学院長に就任。
1924.5〜 11
米国バプテストミッションから招かれ渡米。。
1937. 4 関東学院院長に就任。
1940. 6. 24 妻・チヱ、胃癌で死去。
1941. 8. 27 佐々木トシと再婚。
1945. 5 横浜大空襲で本館と隣接木造校舎の間にはさまれ顔面を焼く。
〔第二次大戦中、キリスト教主義の学校に対する干渉・圧迫があったが、
学院での礼拝、聖書の授業、讃美歌を止めることをせず。〕
1949. 4 大学開設、学長を兼任。
1952 神奈川文化賞を受領。
1954 藍綬褒章を受領。
1965.3 学院長を引退。(理事長継続)
1965. 4 勲三等旭日中綬章を拝受。
1965. 11 横浜文化賞受領。
1966. 5 『恩寵の生涯』(待晨堂)刊行。
1969.12. 16 死去。
1969. 12. 17 密葬出棺式(自宅)。
1969. 12. 27 告別式(学校葬)(横浜・関東学院高等学校)。
(『恩寵の生涯』の年譜(247〜249頁)および同書の記述に基づき作成。)
『恩寵の生涯』. 待晨堂. 1966.
『坂田祐と関東学院』. 坂田祐先生記念事業委員会 編. 関東学院. 1973..