富田和久

 目 次

              [ 祈り ]  [ 信仰 ]  [  ]  [ 神の前に一人立つ ]  [ 体制の外に出る ]  [ 人間・人生 ]  

              [ 目に見えない世界 ]  [ 歴史 ]  [ 正義 ]   [ 平和 ]  [ 預言の精神 ]  [ 我らの国籍 ] 

              [ 十字架 ]  [ 救い ]  [ 霊と真実 ]

              [ 略歴 ]  [ 主要信仰著書 ]  [ 参考文献 

 

                                       〔注〕『著作集』‥‥『富田和久著作集』.編集発行者 富田和久著作集刊行会 

                                                                                     [ホームページ]

 


  祈 り

                ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

             次に祈りはまた神の御言の播(ま)かるる畠(はたけ)である。‥‥‥‥‥‥‥‥

                ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

             現実の我らの畠は、いつもあまりに雑草多く、播かれた種子の生え出ずるもの少なく、成長

            するものはなお少ない。実に我ながら情けないほど少ない。かくては果たして幾何(いくばく)

            実を望み得るであろうか。思うてこのことに至る時、本当に悲観せざるを得ないような有様で

            ある。しかし如何(いか)に不毛であっても、雑草が多くとも、この祈りの畠そのものは決して

            手放してはならないのだ。我らの生活を蔽う肉欲の棘(とげ)ある雑草は恐ろしい。しかし罪の

            戦慄(りつ)の故をもって、我らは祈りまでも諦(あきら)めてはならない。それは正に死守すべき

            最後の一線である。知るべし。祈りを失っては神の御言の種子は立ち枯れる外なきことを。

             かくて祈りこそ、キリスト者たる我らの生活の第一原理であり、また最後の一線である。

                                                (『著作集』第6巻.216〜217頁)

 

                                                                        [富田和久 目次]  [ホームページ]

 


  信 仰

             信仰はとらえどころのない具体性の乏しい問題であろうか。そうみえるのは信仰を知識の問題

            として考えるからである。しかし、信仰は知識ではない。それは深い意味において実践の問題で

            ある。いずれを選ぶかという決意の問題である。

                                                 (『著作集』第6巻.73頁) 

 

                                                              [富田和久 目次]  [ホームページ] 

 


  

             ‥‥‥‥‥‥神には、人を救うという不動の意図、そういう面と、とどまることのない救いの働き、

            動きの面とが、二つながら備わっている。

             これは、人間の言葉で言えば矛盾ですが、神様の立場から見れば、神の世界から見れば、決して

            矛盾ではなく、生きた全体である。

             たしかに人間の関る「部分」だけを見れば、常に神に牽かれ、一所懸命這い上がろうとして動いて

            いるが、何時、目標に達するという保障はない。 ― しかし、「全体」をみれば、神は、自ら人間の世

            界に人として降(くだ)ってくることによって、人間を上なる世界に導いて下さる。そういう働きが繰り返さ

            れている。そこに働きがある。神は単なる置物ではない。

             人は絶えず神に向かって牽かれている。神は常に人に向かって心を注がれている。そういう互いの

            動きがあって、その全体は、人間の救いを実現するという、動かざる意図、あるいは筋をもっている。

            ― ですから、神においては、動くものと動かぬものとは決して言語矛盾・自家撞着ではなく、むしろ、

            そうであって初めて生きた全体が表わされておるのです。

                                                    (『著作集』第2巻.379頁)

 

                                                                         [富田和久 目次]  [ホームページ]


  神の前に一人立つ

 

              ‥‥‥‥‥‥現体制の問題点は、彼らが好んで国益という言葉を用いますけれども、国際社

             会における正義とか平和に関る日本の使命ということについては極めて歯切れが悪く、これを口

             にすることがないという点であります。これは、実質的に、国家至上主義を意味しているのではな

             いか。‥‥‥‥‥‥‥‥

              第二に、国内問題について考えますと、この四十年間人々を動かしてきた体制も、また、反体制

             も、ある意味で自覚ある個人というものを育ててこなかったのではないか。集団の意識は育ててき

             たけれども、個人の自覚を育ててこなかったのではないか。そうだとすれば、そこに残るものは、集

             団至上主義、もしくは党派至上主義でありまして、外からこれを見れば、党派的利己主義と選ぶと

             ころは無いのであります。

              かくして、国家至上主義にせよ、党派至上主義にせよ、それは集団的全体主義でありまして、‥‥

             ‥‥‥‥‥‥‥いわば情緒的に集団に埋没することによって得られる、安堵感に寄りかかって、そ

             れ以上は考えずにいこうということではないか。

              このような視点から見ますならば、今日の日本人に最も欠けているものは、神の前に一人立つとい

             う個の自覚であります。これを宗教的な言葉で申しますならば、神観の問題である。神をいかなる存

             在と考えるかというその思想的態度が徹底しておらない。神の前に一人立つ、という精神的態度が

             あれば、そこで自己の不明と不完全を自覚しない人はありません。また、神なしでやっていけると高

             をくくっていた自分の罪、すなわち的外れの態度を、恥じない人はありません。そうして、そこに立って

             初めて真の自分を知るということが起こる。すなわち自覚ある個人が誕生するのであります。

                                            (『著作集』第4巻.290〜291頁)

 

                                                                        [富田和久 目次]  [ホームページ]

 


  体制の外に出る

 

               ‥‥‥‥‥‥常識というものがなくては日常生活が成り立たないことは勿論でありますが、

              かけがえのない大切な問題については、非日常的な、常識をこえた視点からものを見るとい

              うことが必要ではないか。また、見るだけでなく、場合によっては、日常的な世界からあえて

              一歩外に出て歩むということが必要ではないか。‥‥‥‥‥

               ‥‥‥‥‥‥そのような選択をする者、あるいは、そのような行動を起こす者は、さしあた

              っては、ごくわずかな者、少数者である。言葉をかえていえば、大勢からみて仲間はずれであ

              る。その意味においては、恥を担う者となるかもしれない。― しかし、長い目で見れば、この

              ような少数の人間こそ、時代の腐敗を防ぐ塩の役割を果たすのではないか。また更に困難な

              問題が次々に現れてくる新事態を迎えた場合― 、来たらんとする時代を担っていく、新しい

              思想を供給することができるのではないか。

                                                   (『著作集』第4巻.355頁)

 

                                                                         [富田和久 目次]  [ホームページ]

 


  人間・人 生

              小さい自分の計画通りに事を運ぶなんていうことは、めったにあるものではない。思いも

             よらないことが次から次へと起こってきまして、これで最後かと思うような場面が何度か展

             開される。しかし、それを自分の計画、自分の予想から説明したり、引き出したりすること

             はおそらく不可能、誰にとっても不可能である。自分という視点から考えたのでは、人生に

             起こってくる出来事というのは不可解という他はない。支離滅裂という他はない。どんなに

             真面目に、どんなに順序立てて考えようとしても、人間は自分という視点からだけでは人生

             の出来事はまとめようがない。それが現実であると思います。しかし、客観的に人生という

             ものは前へ進んでいるし、出来事は次々に起こってくる。そうであるとするならば、これらの

             背景にあるものは人間を超えた神様の指である。もしそうでないとすれば、支離滅裂である。

              しかし人生の出来事全体に、その場その場では私たちが怖(お)じ、惑うことも多いわけで

             すが、全体として何か意味をあらしめるものがあるとすれば、それは神様の計画である。そ

             して、その意味あらしめることの目的は、人間の生涯というものの、個々の事件の意味はと

             もかくとして、生涯全体を、神に属する者として、神に顔を向けた者として、神の栄光を賛美

             するということがその目的である。

                                             (『著作集』第3巻.32〜33頁)

 

                 ‥‥‥‥‥‥現在われわれの生きている状態というのは、そこに不法の力が働いている。

             神に反する霊から出た力が働いている。しかしそれが全てを支配しているかというとそんな

             ことはなくて隠れている。なぜ大きな顔をして出てくることができないかというと、サタンの力

             に対抗する不法を阻む力というのがあって、これもまた隠れて働いている。実際は現実の

             社会というのはその隠れた二つの力のいわばバランスの上に成り立っている。いろいろ動

             揺、揺れはあるけれども、最後的な形ということにならないで、あっちへ揺れたり、こっちへ

             揺れたりして、ぐらぐらしながら時が進んでいるというのは、不法の力が働いている一方、

             不法を阻む力も働いていて、どちらも非常にはっきりと顔を表わしているという形ではなくし

             て、隠れて働いているからです。

               ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

               そういう状態が現実にありまして、そういう状態が歴史を形成しつつ、あるところまでいく。

              最終的にその不法の力というものが、自ら神と称して歴史の表面に踊り出てくるような段階

              になれば、福音の源である神もまた自ら歴史の表面に現れておいでになる。それが来臨で

              ある。

                                             (『著作集』第3巻.278〜279頁)

 

                                                                         [富田和久 目次]  [ホームページ]


  目に見えない世界

 

                ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

              ぶどう園というのは、今日私たちのおかれた社会でありまして、その中で経済的な論理とい

             うものは日々行われている。我々は、それをはなれて生活することはできない。

              しかし、たとえ目に見える世界はそういうものが支配しているにせよ、もう一つそれとは別に、

             目に見えない世界というものが、これと重なって存在していることを忘れてはいけない。実は、

             目に見えない世界の方がずっと大きくて、目に見える世界の果てよりも更にひろがっており、

             目に見えない世界の方が大事なのです。― それは、心の世界、人格的応答の世界であり

             ます。

              目に見える世界はそのままで暫く保つように思われるかもしれないが、もし、人格的な生命、

             人格的な生きがい、人格的な愛というものがなかったとすれば、やがては破局にいたり、分解

             する ― それ以外の予想をもつことは難しい、そういうごく限られた部分的なものであります。

              これに対して、目に見えない世界は、それら全体を支える力である。 ― すなわち、目に見

             える世界を外から囲んでこれを支えるだけでなく、目にして見える世界が存在している領域でも、

             これと重なって目に見えない世界があるのであって、目に見える世界だけでつじつまが合ってい

             るように思うのは考えちがいであります。

              目に見える世界にも、目に見えない世界が重なっている。この二つの世界の両方があってはじ

             めて、人間は人間らしく生きることができる。社会は社会として存続することができる。‥‥‥

                                                (『著作集』第2巻.358〜359頁)

 

                                                                         [富田和久 目次]  [ホームページ]

              


   歴 史

              既存の体制を変革するものは表面的には力関係であるように見えますが、よく考えてみると

             力関係を最後的に左右するものは必ずしも人間ではないのです。人間は歴史に参加いたしま

             すが、歴史は人間の努力の総和ではありません。人間を超えたある絶対的な意志がこれを

             オーバールール(overrule,超制)している。動かしている。事を改めるに人間の力が足りなけれ

             ば現在の枠組がいつまでも続くように見えることはあります。しかしながら本当はそうでない。絶

             対的な真理を侮って自力で平穏を保っているように錯覚している支配体制は何時か必ず毀たれ

             る。神の前に毀たれる。それは、平静に見える、その表面の下に、神の怒りが動いているから、

             神が怒りを発し、これを打つからであります。人間の力が足りないということは、必ずしも歴史が

             進行を停止する、止まってしまうということを意味しておらない。歴史は神の掌にあって今もどん

             どん進んでいる。

                                                (『著作集』第4巻.184〜185頁)

 

                                                                        [富田和久 目次]  [ホームページ]

 


  正 義

               ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

               かくして今日では、″正義″は、″国益″という言葉におきかえられて無内容化している。

              ″平和″は何時の間にか″生産性″とか、経済的な利益とか、そういう言葉におきかえられ

              て、利益をめぐっての分極化を生んでいる。そういう形での混迷と狂燥とが日本の現実を支配

              しているのではないか。

                ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

               こういう状態を全体として見ますと、正義と平和ということが全く離ればなれになって、無内容

              化していることに気付きます。今にしてこの正義と平和とが国家の理想という原点に立ち帰って、

              一致点を見い出さなければどういうことになるか。一方においては国益の上に居直るという、そ

              ういう正義があり、他方においては目的を立てたら、それに対しては手段を選ばないという思想

              がある。もしそういう二つの傾向がいずれも自省を欠き、原点に立ちかえることなく、ある日突然

              に合体したとすればどうなるか。日本は新しい意味で軍国化の方向に一目散に行ってしまうので

              はないか。‥‥‥‥

                ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                このような正義と平和の乖離ということは何処から起こったのであろうか。‥‥‥‥‥‥

               それは日本人が自分の力で、自分の手の届くところで小廻りがきく、自分のことは自分で勝手

               にできるという考えに基づいて行動してきたことの帰結でありまして、‥‥‥‥‥理想の喪失、

               あるいは正義と平和とを共々に支える原点の喪失からきている。言葉をかえて言えば、真に

               畏るべきものを畏れなかった結果である。畏るべきものは真理の根源である神であります。

                                                             (『著作集』第4巻.218〜219頁)

 

                    何時の頃からか、為政者は二言目には「国益」という言葉をもって批判に答えるようになり

               ましたが、今や、国益とは一党の利益、あるいは私の利益のことだ、と予想しなければならな

               いほど、我々の国は汚れてしまっている。政治的な政策の決定と経済的利益とが癒着いたし

               まして、議会で行われている証言さえ、その裏にはどんな虚偽がひそんでいるか予想もでき

               ないという事態になっている。‥‥‥‥‥

                                                   (『著作集』第4巻.233頁)

 

                                                                        [富田和久 目次]  [ホームページ]

 


  平 和

              平和をつくり出す道は何であるか。それには種々の場合が考えられますが、基本的にいえば

             垂訓の中に言われておりますように「踏みつけられて踏み返さない」ということではあるまいか。

               ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

              平和をつくるということは代償なしにはあり得ない。誰かが踏みつけられることなしに平和が

              成就するということはあり得ない。それほどに人間の心はたかぶりゆがんでいる。‥‥‥

               このような現実の状況の中にあって、私どもが自分の利害、損得ということにこだわっている

              限り、神を信ずると言いながら、私どもの内には平安がなく、外に対しては平和がありません。

              自分にこだわることはやめよう。自分に属する物はどうなってもいい。取るなら取りなさい。そう

              決心した時に私たちは、もはや何者にも脅かされない。何者にも振り回されない。小さいけれど

              も本当の平和の原点となることができるのであります。

                                               (『著作集』第4巻.204〜205頁)

 

                                                                        [富田和久 目次]  [ホームページ]

 


  預言の精神

               預言者は、「祭司」によって代表される体制に対して、批判者の立ち場に立っている。さらに、

              旧約の伝承をふまえて生まれた、新約聖書のキリスト教の中にも、預言者の精神がはっきり

              流れています。― そして、放置すれば形骸化しやすい、政治的もしくは宗教的体制に対して、

              批判者としての預言者の出現と預言の精神こそ、キリスト教の生命であります。

               この意味においてキリスト教は、自ら批判し、自ら浄化する動機を内に秘めているということ

              ができます。

                                                 (『著作集』第4巻.337頁)

 

                   ‥‥‥‥‥‥‥厳しい批判精神によって特徴づけられる西欧の父性原理との対比におい

               て、万物を抱擁する寛容な母性原理というものが日本の特殊性、あるいは優越性として強調

               されれば、一見分かりやすい面があるかもしれません。― しかしながら、不用意にこれを丸呑

               み込みする人が出てくれば、たとえ清濁合わせのむ度量というような態度を装っても、実際には、

               正邪の弁別を敬遠し、節操のない妥協をかくしたり、弁護したりする役割を担うことがあるのでは

               ないか。自己批判に通ずる父性原理、あるいは預言の精神というものを体よく敬遠するための

               口実となっているのではないか。

                もしそうだとすれば、母性原理がいかに日本神話の特徴であるとしても、これは批判の対象と

               してみなければなりません。

                                                  (『著作集』第4巻.342〜343頁)

 

                                                                         [富田和久 目次]  [ホームページ]


  我らの国籍

              ‥‥‥‥‥‥‥天に属する者には、天に属する者にふさわしい生活の姿、生き方があります。

             そして、その考え方、生き方は、この世に根拠をおく人々の生きざまとはどこか異質である。

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

             第一は、地上の組織の問題です。我々は国家とか、組合とか、あるいは政治的、あるいは経済

             的の意味で地上の組織に属しておりますが、天に国籍をもつ者は、地上の組織の中におりなが

             ら、これを越える立場にある。我々は地上の組織の上に居らねばなりません。例えば、国家の自

             衛という問題がありますが、私たちがあえて申しますことは、国の守りは根本的には神に委ねる

             べきだ、ということであります。‥‥‥‥‥‥‥

              第二は経済問題であります。それは、最終的に、物質に依り頼むことを止めなければ、希望は

             ない、ということであります。‥‥‥‥‥‥‥‥この世の富に頼ることを止めなければ、一国の

             宰相といえども、独立国家といえども、世界を動かす謀略の犠牲にならないとは言えないのです。

             物に頼るからこそ、物質的利益を得るためには、ゆずるべからざるものをゆずり渡すことになる

             のです。‥‥‥‥‥‥‥‥‥

               ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

              かくして私たちが、抽象的でなく、具体的に私たちの意見を述べ、生活を立てるならば、地の国

              はそういう存在を黙って放置しては置きません。村八分ということが言われますが、それどころ

              ではありません。‥‥‥‥‥

               ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

              しかしながら、時を経てみますならば、そのようにして社会より葬られ、社会から追放された者が、

              次の時代の社会に真の生命を与える者となったのであります。天に国籍をもった者の使命は、か

              くの如く厳しいものであります。そのような使命を弱い一人の人間が、組織に仕えない人間が、こ

              の世において果たしていくことが、一体できるのであろうか。ある場合には、死を覚悟しなければ

              ならない、死んでしまったら終わりではないか、というのがこの世の常識でありますが、信仰によっ

              て立つ者にとっては死は終着ではありません。罪に伏した者を信仰の故に贖い出して下さった神

              は、信仰によって眠る者を永遠の生命に導いて下さるのです。‥‥‥‥‥‥‥‥‥

              かくて、歴史の全体を通じてこれを支配し給う神の存在を知る時、私たちの眼前には余人の知ら

              ない大きな世界が開けてまいります。そして、そのような世界に立つことができれば、現実の足元

              にある困難にして解決できないものは一つもない。これが天に国籍をもつ者の確信であります。

                                                (『著作集』第4巻.237〜239頁)

 

                                                                        [富田和久 目次]  [ホームページ]

 


  十字架

              十字架の内容は何か。それは私たちの罪の事実である。自分だけは例外だという傲(おご)りは、

             繰り返し何度でも粉砕されなければならない。人間の中に罪の指摘によって壊されない聖域など

             というものはないのだから。そして、罪の自覚によって砕かれた魂だけに本当の希望が見えてくる。

                                                 (『著作集』第6巻.162頁)

 

                                                                          [富田和久 目次]  [ホームページ]

 


  救 い

               ‥‥‥‥‥‥自分自身が一人の人間として救われるという時に、自分を守るという、自分の

              命を守るという本能をもって生きている私たちは、本当に自分を百パーセント捨てて、イエスに

              明け渡すということができるかどうか、それは確かに問題です。

               しかし、私は考えるのですが、そういう自分自身の問題という段階では、私たちは大手を振っ

              て、ニコニコして自分を明け渡すわけではないのであって、いわば追い詰められて、どうしようも

              なくなって、砕かれると言いますか、自分を明け渡すという経験をする。理想的に物事が運ばな

              い。自分自身の予想とは異なった形で事柄が発展しまして、人間としての自分ではどうしても解

              決できないところへ押し込められて、いわば外から強制的に砕かれて自分に何も残らないよう

              になる、させられる。そういうことの結果、私たちは死に導かれるのではなくて、かえって砕かれ

              た結果、命が自分の中に注がれるという、そういう経験をする。だから自分一個の問題としては

              いわば、われわれは強制的に砕かれ、強制的にというのはおかしいですけれども、救いを恵ま

              れる。

                                                (『著作集』第3巻.702〜703頁)

 

                                                                          [富田和久 目次]  [ホームページ]


  霊と真実

               ‥‥霊と真実ということが単に私ども一人一人の心の内側の問題であるだけでなく、民族とか

              国家とか私どもがそこに生きている社会のあり方、社会全体としての存立というものに深い関連

              があるのではないか‥‥‥‥

               一つの国が何時までも生きのびていく可能性があるか、一つの民族に永遠的な存在理由があ

              るか否かという問題は何によって答えることができるだろうか。種々の答えがあると思いますが

              根本的に言うならば、これはその国あるいはその民族が心を傾けて何を追求するか、すなわち

              如何なる理想に向かって歩むかということにかかっているのではあるまいか。また、如何なる態

              度をもってその理想を追求するか、追求していくかということにかかっているのではあるまいか。

                ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

               ‥‥‥‥今日の日本に欠けているものは霊と真である。‥‥‥‥困難な日本の現状を言い

              くるめて通ろうとするのでなく、現状を正しく認識するということがなければ、そこから前進という

              ことはありえません。神の前に己を投げ出して立つという、その態度がなければ、私どもはどん

              なに考えてもこの袋小路から抜け出すことはできないのであります。今の日本には小さい人間

              というものの殻を破って、自分というものの扉を開いて、自分よりも高いものから力を得ようとす

              る、自分よりも深いものの声を聞こうとする、そういう精神が失われつつあるのではあるまいか。

                                                  (『著作集』第4巻.7〜14頁)

 

                   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                このような今日の問題の分裂と混迷と停滞とはどこからきたのでありましょうか。‥‥‥‥

               今日の停滞は事柄の複雑さや内容の豊かさからきているのではありません。それは本来結び

               合わすことのできないものを無理に結び合わそうとする二心にあるのです。‥‥‥‥

                ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

               真理を重しとし、真理によって国を潔めようとするのか、国家を重しとし真理を国家に奉仕せし

               めんとするのか、私たちはその答をせまられているのです。すなわち事は並列の問題ではなく

               選択の問題であります。どちらをも少しずつという場合ではなく、岐れ路に立っているのです。

                                                   (『著作集』第4巻.24〜25頁)

 

                    事実を無視してはいけない。しかし、現実に押し流されてもいけない。混沌とした現実の中か

                ら、真なるものと偽なるものとを読み分けねばならない。真実をもって現実の背景を見抜き、

                理想の立場から、正しく現実を批判することがなくてはならない。

                                                    (『著作集』第4巻.75頁)

 

                     ‥‥‥‥真実をもって現実を見通すだけでなしに、真実をもって事実を創り出すということが

                 なければならない。与えられた事実に対して、それは善い、これは悪いと言うだけでなく、新し

                 い生きた事実を私ども自身が生み出さねばならない‥‥‥‥

                                                     (『著作集』第4巻.78頁)

               

 

                                                                        [富田和久 目次]  [ホームページ]

               


  略 歴 

 

   1920.4.21   東京・原宿(今の渋谷区)に生まれる。

    1937.4       第一高等学校(理科甲類)入学。矢内原忠雄による「法制経済」の講義を聞く。

                一高基督教青年会で三谷隆正に教えを受ける。

    1937.7       黒崎幸吉主催・山中湖畔聖書講習会に参加、矢内原忠雄の聖書講義を聞く。

    1937.8       『中央公論』で矢内原忠雄の論文「国家の理想」を読む。 

    1937.9       矢内原忠雄の家庭集会に入会を許される。 

    1940.3       第一高等学校卒業。

    1940.4       東京帝国大学(理学部物理学科)入学。

    1942.9       東京帝国大学理学部卒業。兵役につき、海軍造兵見習尉官に命ぜられる。

                 (以後、 海軍技術見習尉官、海軍技術中尉、海軍兵学校附兼教官、海軍技術大尉、

                 海軍兵学校教官を歴任。)

    1944.12      矢内原忠雄の司式により中上川節と結婚。

    1945.9        終戦により復員。

    1948.4        東京大学理学部研究員。

    1949.6       東京大学理学部助手。

    1951.4       京都大学助教授。

    1951.9        家庭集会(聖書研究)を始める。

    1952.9        「京都嘉信研究会」発足(〜1962年3月)。

    1953.10       英国・オックスフォード大学留学(〜1954年9月)。

    1954.9        アメリカ・ハーバード大学に留学。

    1955.7       理学博士(東京大学)。

    1956.4        塩谷饒(京都大学教養部助教授)と京大聖書研究会をつくる。

    1957.6        家庭集会の名称を「北白川集会」とする。

    1958.4       京都大学教授。

    1960.5       新日米安保条約反対を表明、富田研究室が理学部の反対運動の拠点となる。

                 日米安保条約反対のアピールを英文で作成し、世界各国の研究者に送る。

    1960.6       京大本部で安保反対の学生運動支持の演説をする。

    1961.10      『ともしび』(京大聖書研究会誌)第1号発行。

    1962.4        『嘉信とともに』(京都嘉信研究会誌)発行。

    1962.10       個人信仰誌『おとづれ』1号発行。

    1962.12       『ひこばえ』(北白川集会誌)1号発行。

    1963.12       英国・バークシャー、ハーウエル国立原子力研究所に研究出張(1964年12月、帰国)。

    1966.2        京大学内集会でキリスト者の立場から、紀元節復活抗議の講演をする。

    1967.1        北白川集会の会場を京都府立勤労会館に移す。

    1969.2        京大・学生部封鎖の事態の中で、「総長への手紙」を記す。

     1969.4       京都大学理学部長・評議員を併任(任期2年)。学部改革、学生問題に労苦する。

    1970.10       『若樹』(北白川集会誌)発刊。

    1972.3        欧米12カ国に5ヶ月間出張(8月、帰国)。

    1972.8        京都大学大学院理学研究科担当。

    1974.12       大津市比叡平に転居

    1977.9        財団法人京大会館樂友会理事・評議員を兼任(任期3年)

    1983.11        「全世界物理学者の緊急アピール」(核軍拡競争の即時停止と平和実現を訴える)

                   の賛同者の一人として京大樂友会館で記者会見。

    1984.4         京都大学を定年退職、京都大学名誉教授になる。

    1985.10        ブリュッセルの国際会議に出席。英国・オックスフォードを訪問。

    1987.5         客員教授としてアメリカ・イリノイ大学に約一カ月滞在。

    1991.1.2      急性心不全のため逝去。

    1991.1         北白川集会解散。

    1991.9         『おとずれ』84号(最終号)発行。

    1991.12        『富田和久遺稿・追想集』刊行。

    1992.4         『北白川集会40周年記念文集』刊行。

    1994.8〜1996.7 『富田和久著作集』(全6巻)刊行。

 

                                     ( 『著作集』第6巻.「富田和久年譜」(5〜33頁)に基づき作成。) 

 

                                                                        [富田和久 目次]  [ホームページ] 


 主要信仰著書 

                  『富田和久著作集』(全6巻).富田和久著作集刊行会 編集発行.1994〜1996.

                  『冨田和久遺稿・追想集』. 冨田 節 編集発行. 1991.

            

                                                            [富田和久 目次]  [ホームページ] 

 


 参考文献

              『北白川集会四十周年記念文集』. 北白川集会四十周年記念文集刊行会 編集発行. 1992.

 

                                                             [富田和久 目次]  [ホームページ]

 

 


 

 

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