塚本虎二   

目 次

             [ 祈り ]  [ 信仰 ]  [ 生活問題 ]  [ クリスチャン ]  [ 聖書 ]  [  ]  [ 救い ] 

             [ 復活 ]  [ 天国 ]

             [ 略歴 ]  [ 主要信仰著書 ]  [ 参考文献 ] [ 記念講演会 ]

 

        

                                                 〔注〕『著作集』‥‥『塚本虎二著作集』 発行所 聖書知識社

                                                                                    [ホームページ]


  祈 り

 

            神は不動であると同時に動である。不動なるは彼が義であり給うからであり、動なるは彼が愛で

           あり給うからである。義の神は強くして動かない。しかし愛の神は弱くして動く。愛なる神は人の愛

           ―たといそれがいかに小さくまた不純であっても―その愛に負け給う。彼の愛が純であるだけ大

           きくあるだけ、彼は弱く、彼は負け給う。ここに祈りの秘密がある。祈りは神と人との相撲である。

           ここに神の人に対する愛と信頼が、人の神に対するそれと力を争う。そしてこの相撲においては、

           弱きが勝ち、強きが負ける。

                                                (『著作集』第4巻.38頁)

 

               ただ任せることを知って求めることを知らない信仰は死んでおり、求めることを知って任せるこ

           とを知らない信仰は不信仰である。任せるが故に求め、求めるが故に任せる。求めてついに任せ

           た時、神はその乞いを容れ給う。これが祈りの神秘境である。

                                                 (『著作集』第5巻.73〜74頁)

 

                                                                         [塚本虎二 目次]  [ホームページ]


  信 仰

 

           ‥‥‥‥‥しかし、聖書中に、他人の信仰によりて救われた例は決して少なくない。‥‥‥‥‥

           とにかく、神は本人の信仰の有無にかかわらずこれを救い給うことあるを知らねばならぬ。わたし

           自身の実感を言えば、わたしが救われたのは、わたし自身の信仰によるのではなくして、誰か他人

           の―多分わたしを愛する人の―信仰によるように思われる。わたしの信仰はわたしを救いに入るる

           には、余りにも貧弱である。

                                                 (『著作集』第3巻.25頁)

 

                ‥‥‥‥‥‥しかして、信仰が目覚めているか眠っているかは、暴風のときに、最も露骨に表明

           される。眠れる信仰、死にたる信仰は、玩具(おもちゃ)の鉄砲と同じように、非常の時には役立たない。

            我らは信仰を最も必要とするときに、最も信仰が弱くなる者である。しかし、信仰は非常時のために

           ある。非常時に役立たぬような信仰は、ない方がましである。

                                                 (『著作集』第3巻.63〜64頁)

 

               生命は戦闘である。生きたる魚は水流に逆らって泳ぐ。従って、それは断えざる不安である。常に

            死の危険に曝されているからである。もちろん、我らの心は神において真の平安を見出す。しかし

            その平安は、大寺院(カセドラル)の中に安置されたる聖体に見る如き死にたる平安ではない。生ける

            平安は、これを譬えば、澄み切って廻っている独楽(こま)の如き平安でなければならぬ。神に対する

            信頼のみによって落付き得る平安でなければならぬ。従って、それは絶えず転落の危険に曝されて

            いなければならぬ。‥‥‥‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            教会も、信者も、神のみによって支持され、従って、絶えざる動揺と不安とに置かれたる状態が、最

            も健全である。

                                                  (『著作集』第3巻.121頁)

 

                神が我らの目を開かれるにも期がある。その期が来ぬ限り、神はいかに我らが泣いても、喚(わめ)

                   いても、駄々をこねても、我らに耳を傾け給わない。時到らざるに目を開くことは、それがかえって

            我らを害すべきことを知り給うからである。しかして我らは彼に目を開けられた後に、始めてそれが

            早きに過ぎず、遅きに失せず、実に絶好の時期であったことに気付くのである。

             かくして、信仰は忍耐である。「時が来れば必ず成就する」神の言(ことば)を信じて、最後まで忍耐

            することである。

                                                  (『著作集』第3巻.159頁)

 

                 信仰は動揺する。純であればあるだけ動揺する。信仰は生命(いのち)である。活物(いきもの)である。

             故に動く。風が動くように動く。―ゲッセマネの園、また十字架上におけるイエスの信仰の烈しき動

             揺を見よ!動かぬ信仰、それは死んだ信仰である。形式、学問、経験、習慣等の突かえ棒にて

             支えられた信仰は、死んだ信仰であるが故に動揺しない。それは石塔のように動かないであろう。

             しかし、真の信仰、ただ信仰のみの信仰、純一無雑、ただ信ずるばかりの信仰は、動く。ちょうど

             澄み切った独楽(こま)が、何らかの刺激、または回転速度の減ずることによって直きに振れ出す

             ように、純粋なる信仰は振れ動く。否、ふるえ動くことによって、我らはその人の信仰が活きており、

             また純であることを知る。信仰は敏感なる磁針のように、絶えずふるえ動きつつ、常に正確に北を

             指さねばならぬ。

                                                   (『著作集』第3巻.273〜274頁)

 

                  信仰の力は神のものであって、人間の力ではない。信仰の銅線をもって神につながれば、無限

              の力が神から流れてくる。その力の大小は銅線の大小に関係しない。信仰には有無はあっても

              大小はない。

                                                   (『著作集』第5巻.301頁)

 

                   ‥‥‥‥‥すなわち、信仰はその性質上どんなに小さくとも、ありさえすればそれに無限の力が

              ある。しかし信仰は神への絶対的の自己委譲であって、そこに少しも自分の努力への自負信頼

              というものがあってはならない。絶対者なる神への信仰は絶対でなければならない。それは奴隷

              がその主人に対するような絶対服従、信従の関係でなければならぬ。そこに条件とか保留とかい

              うものがあってはならない。

                                                   (『著作集』第5巻.303頁)

 

                   信仰は聖書研究の結果から引き出された結論であってはならない。それは信仰ではない。思想

               であり観念であり単なる信念である。信仰は神自ら聖霊をもってわたし達の中にお植えつけになる

               天来の力である。聖書が解(わか)って信仰が生まれるのでなく、いつも言うように、信仰が与えられ

               て聖書がわかるのである。

                                                    (『著作集』第6巻.151〜152頁)

 

                    すべてを神に献ぐるとは、僧院に入ることではない。伝道することではない。もちろん、神学校に

               入って牧師となることではない。自分に絶望することである。自分の道徳に、自分の信仰に破産し、

               身代限りをして、着のみ着のままにて、ちょうどルカの放蕩息子のように、父なる神に帰り往くこと

               である。私の道徳とか、私の信仰とか、口はばったいことが言えないこと程に、自分自身に愛想を

               尽かすことである。神に対して全然「私の」が無くなることである。ただそれだけである。

                                                     (『著作集』第6巻.271頁)

 

                    真の信仰の特質は、それが簡単であり、無難であり、徹底である点にある。而(しか)して徹底は

               多くの場合に於て、極端と見え、非常識と思われる。しかし、極端と過激とを恐れて、人は信仰の

               人たるを得ない。徹底せざる信仰、極端ならざる信仰、灰色にして生温(なまぬる)き信仰は、甘き唐

               辛(とうがらし)ほど無意味の存在である。現代クリスチャンが無力なる所以(ゆえん)は、彼等が極端を

               恐れるからである。

                                                     (『著作集』第10巻.316頁)

                                                                          

                                                                         [塚本虎二 目次]  [ホームページ]

 


  生活問題 

            

            生活問題は自分で自分のパンをかせぎ取ろうとすることによっては解決しない。そのことは今日の

           社会のいたましい姿が示しているように、焦ればあせるだけ解決しなくなって来る。生活問題は人生

           最大の実際的信仰問題である。それをすっかり神様にまかせきるまでは解決しない。自分の働きで

           食っているということほど傲慢な考え方、不信仰はないからである。御心なら明日もパンを下さいと

           祈って黙って働く、これが信仰の「いろは」であり、生活問題の根本的解決法である。

                                              (『著作集』第1巻.192〜193頁)

 

                我らもクリスチャンである限り、狼の中の羊である。我らは狼らと同じ力、同じ武器をもって戦うこ

            とは出来ない。もし彼らと同じ武器なる、金銭と威力と学問と術策とをもって戦わんとするならば、我

            らは必ず負ける。しかし、我らの武器は別にある。それは正直である。単純である。無邪気である。

            無策である。マリヤの夫ヨセフが、夢の御告げに従って動いたような単純なる信頼である。一見いか

            にも危険なる戦法である。しかし、この戦法によるならば、我らはヨセフがヘロデ大王に勝ちしように、

            必ず勝つことが出来るであろう。否、既にたびたび我らは勝った。今もなお常に勝ちつつある。

                                               (『著作集』第3巻.238頁)

 

                                                                       [塚本虎二 目次]  [ホームページ]

 


  クリスチャン

 

              ‥‥‥‥‥‥‥今日のクリスチャンに神の子たるの自覚、自信、自尊の何と乏しいことであろう。

             彼らは徒(いたず)らに自分のお臍ばかりを穿鑿(せんさく)して、信仰が足りないとか、駄目であるとか言う

             のを挨拶のように考えている。彼らは、自分が神の子の宝血によって贖われて神の子となった者であ

             ることを忘れている。彼らは、かかる偽りの謙遜によって、神の子を踏み付けつつあることに気付か

             ない。愚の極みであり、不遜の極みである。我らクリスチャンたる者は、それがどんなに小さな者であっ

             ても、洗礼者以上である。この世のいわゆる聖人、君子、道徳家などと自分を比較するような、そんな

             けちな、しみったれな真似をしてはならぬ。全能の神の、子とされた者ではないか!

                                               (『著作集』第3巻.284頁)

 

                                                                         [塚本虎二 目次]  [ホームページ]

 


   聖 書

 

              従って聖書がわかるというのは、度々言うように、数学の問題がとけるのと違って一つわかれば

             すべてがわかるのである。それはちょうど親心がわかって、今まで不可解であった親の態度がすっ

             かりわかると同じである。このことかのことが解るのでなく、すべてがわかるのである。そしてこれは

             聖書が神の霊感によるものであることを思えばむしろ当然である。すなわち、読者がある一節または

             一句を通して同じ神の霊に触れる時、全体の精神が氷解するのである。

               ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

               言うまでもなく、右のようにして聖書の根本真理がわかっても、古典としての難しい所が解るのでは

              ない。それらは学問の力によるほかはない。しかし学問的にわかっても、前に言うように信仰がわか

              るわけではないから、本当の聖書の読み方はあくまでも一人で静かに祈りながら読むことである。聖

              書は人が書いたものではあるが、神の霊によって書いたものであるから、それがわかるためにはこれ

              を書いた人と同じ霊の世界に入らねばならぬ。そしてそれには祈りが必要である。

                                              (『著作集』第4巻.1〜3頁)

 

                                                                         [塚本虎二 目次]  [ホームページ]

 


   神        

                世には旧約の神と新約の神とを区別して、前者は義、後者は愛の神であると言う者がある。

               二つを区別しないまでも、義の神が新約に入って愛の神になったと言う者がある。前説は異

               端であり、後説もまた誤まっている。神は永遠に変わらない。しかし摂理と啓示は進む。キリ

               ストを十字架につけ給うたことによって、きびしい審判の神は救いを与える愛の神として己を

               示し給うた。しかしこれは義の神が愛となり給うたのではなく、ただ旧約においては地下水と

               して流れていた方面が、ここに初めて地上に噴出したに過ぎない。神が変わり給うたのでな

               く、啓示が進んだだけである。

                ただ注意すべきは、神の義はあくまでも義であって、如何に恩恵の意が加わっても決して

               それが無くなることはもちろん、弱まることもないのである。

                                            (『著作集』第9巻.175〜176頁)

 

                                                                         [塚本虎二 目次]  [ホームページ]


  救 い

                ‥‥‥‥‥わたし達は霊をいただいて肉を克服し、それによって清い罪なき人となって天国

              に入るのでなく、信仰によって霊を頂くとそれが当然かつ自然にわたし達を永遠の生命へと導く

              ことである。努力ではない。霊が、言わば自動的にそうするのである。今まで地獄行きの下り列

              車に乗っていた者が、信仰によって天国行きの霊の上り列車に乗り換えたのである。それによ

              ってわたし達の生活の方向、目的が反対になり、生活原理が逆になったのである。従ってその

              汽車から飛び出さないかぎり、長い汽車旅行のうちには戦いがあり失敗があるけれども、結局

              最後の日に目的地に着くことだけは確かである。

                                            (『著作集』第10巻.123頁)

 

                                                                         [塚本虎二 目次]  [ホームページ]


  復 活

 

                復活はキリスト教の土台石である。復活なくしてキリスト教はない。だから初代教会の伝道は

               復活の証明につきた。瞬くひまにキリスト教が世界を征服したのは、初代教会が復活を、然り

               復活だけを説いたからである。今日のキリスト教会に力が無いのは、この信仰が弱ったからで

               あり、生きた信者をつくり得ないのは、復活を説かないからであると言っても、多分誤らないで

               あろう。

                                             (『著作集』第8巻.39〜40頁)

 

                    前にも言うたように、初代教会においては復活の信仰が信仰の主要部分であり、福音の主

                調であった。初代クリスチャンには復活の信仰なきキリスト教というが如きのものは考えられな

                かった。然り、復活すなわち福音であった。しかし今日の教会は果たしてどうであるか。一年に

                一度復活節に百合の花を飾って復活の歌を歌うだけで、復活を説かない。教理はあっても信

                仰は無い。学者伝道者にして公然キリストの復活の事実を否定し、復活の信仰を嘲(あざけ)る者

                が少なくない。どうしてこうなったのであろうか。

                  復活信仰の必要が無いからである。これが無くとも、否、無い方がかえって楽にやってゆけ

                 るからである。すなわち現代クリスチャンは真面目にクリスチャンの生活をしていないからであ

                 る。もし今日わたし達が真剣にキリストの弟子らしく生きようとするならば、たちまちにして復活

                 信仰なしには生きることの出来ない人間となるであろう。福音に忠実にただ一人の神を信じ、

                 胡麻化さず妥協せず、徹底して聖書の命ずる通りの生活をするならば、復活が絶対の必要と

                 なり、その瞬間に今まで困難と思われたこの信仰が自然の要求となり、当然のこととして信ぜ

                 られるに至るであろう。必要があれば世に復活ほど信じ易い信仰は無い。そして復活の信仰が

                 生き返る時にわたし達はますます強く立って戦うことが出来、かくてまたますます復活信仰の必

                 要を感じてその信仰が強くなり、実際生活と復活信仰とが互に因となり果となってわたし達を高

                 めるのである。

                                              (『著作集』第8巻.221〜222頁)

 

                                                                         [塚本虎二 目次]  [ホームページ]


  天 国

 

                わたし達は天も地も、黄泉も地獄も同じただ一人の神の法則と意志とが支配していることを

               忘れている。それゆえ死んでしまえば、地上のことは一切帳消しになって、新しい輝かしい別の

               世界が生まれ出るかのように考えている。もしそうであったら、人生ほど楽な呑気な所はない。

               しかし首が回らなくなってやけ酒を飲んでも、借金はなくならず、酒屋の勘定が殖えるくらいが

               おちであるように、死んでみると、あまりにもそこに地上生活と同じ法則が行われており、地上

               で勘定のすまなかった罪の負債が立派に残っているばかりか、それに高い高利がついている

               ことを発見するであろう。

                                              (『著作集』第5巻.286頁)

                    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                    すると昭和二十六年の大晦日、寒い、冷たい雨の降る日であった。ぬかるみの中を一人トボ

               トボ歩きながら、大きな立派な新築の家を見て、みすぼらしい自分の姿が可哀そうになり、自分

               も天国にゆくとあんな立派な家に住めるのだろうかと思ったその瞬間「ノー! 天国に行っても

               今と同じだ、もっとみじめかも知れない」という声が聞えた。私は愕然(がくぜん)とした。今まではこ

               の世でみじめな生活をしておけば向うに光栄の生活が待っており、この世でふみつけられている

               者は天国に行くと、今度はこの世でふみつけていた人たちを見かえしてやることが出来るように

               考えていたからである。

                 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                  ‥‥‥‥‥‥天国は今まで考えていたように貧しい者が金持になり、悲しんでいた者がほほ

               えむように環境がかわるのではない。ただ凡(すべ)てのものの価値が転倒するだけである。貧乏

               人はこの貧乏なままで天国では金持である。というのは天国では貧しいことが富んでいることで

               あるからである。従ってみじめな境遇の人はもっともっとみじめになることが天国ではより幸いで

               あるということがわかった。七十近くなってこんなことがやっとわかるのでは恥しいと思ったが、し

               かしこれで始めて今まで何となく腑(ふ)におちなかったことがすっきりして来た。

                                              (『著作集』第10巻.442〜443頁)

 

                                                                         [塚本虎二 目次]  [ホームページ]

 


  略 歴

    1885.8.2   福岡県朝倉郡久喜宮村(現在の杷木町)に生まれる。

    1904       福岡の修猷館中学卒業。第一高等学校入学。

    1905       一高2年生の時、内村鑑三著『基督教問答』を読み、深い感銘を受ける。

    1906       一高3年生の時、『聖書之研究』の読者となる。

    1907.2     神秘的な入信を経験。

    1909       東京帝国大学法科大学3年生の時、内村鑑三の柏木聖書研究会に入門。

               内村門下では、柏会に参加。

    1911       東京帝国大学卒業。農商務省に就職。(数年して参事官に昇進)

    1919.5      農商務省退職。

    1921        斎藤園子(富士見町教会(牧師植村正久)の教会員)と結婚。

    1922.2      長男 晃出生

    1923.5      長女 嗣子出生 

    1923.9.1    ドイツ留学を計画、準備がととのった矢先、関東大震災発生し夫人即死。

                留学をとりやめ、以後伝道活動を開始。 

    1923.11     初めて柏木聖書講堂の講壇に立つ。

                以後、内村鑑三の前座を務める。(1929年12月まで)

    1925.7      『聖書之研究』に初執筆。(1929年12月まで毎号寄稿)

    1929.10     「東京聖書知識普及会」(夜、東京大手町・衛生会館講堂)を始める。(独立の第1歩)

    1929.12     内村集会から独立。「東京聖書知識普及会」の会場を生命保険講堂に移し、午後の集会に改める。

    1930.1      『聖書知識』(月刊誌)発行。(1963年6月第397号まで)

    1930.6      「東京聖書研究会」(東京丸の内・東京海上ビル)開始。

                (後に、「丸の内無教会基督教講演会」に改称。)

    1951        『福音書異同一覧』出版。

    1953        『マルコ福音書』(「口語訳新約聖書」第1分冊)出版。

    1956        『マタイ福音書』、『ルカ福音書』出版。

    1959        『ヨハネ福音書』出版。

    1960        発病

    1960.12     丸の内聖書研究会解散。以後、聖書の改訳に専念。

    1961        『内村鑑三先生と私』(伊藤節書房)出版。

    1962        『私の無教会主義』(伊藤節書房)出版。

    1966        『使徒のはたらき』、『ロマ書』出版。

    1973.9.9    逝去

          

                                                          [塚本虎二 目次]   [ホームページ]

 


 主要信仰著書  

                『塚本虎二著作集』(全10巻).聖書知識社.1978〜1979

                『塚本虎二著作集・続』(全8巻). 聖書知識社. 1984〜1986.  *

                『内村鑑三先生と私』. 伊藤節書房. 1961.

                『福音書』.岩波書店(岩波文庫).1963

                『使徒のはたらき』.岩波書店(岩波文庫).1977

                『無教会主義論集』.キリスト教図書出版社. 1986.

 

 参考文献 

                『新生のおとづれ』. 塚本虎二 編. 聖書知識社. 1935.

                『塚本虎二先生信仰五十年記念論文集 聖書とその周辺』.関根正雄・前田護郎・斎藤茂 編.伊藤節書房.1959.

                『去思と望憶』(塚本虎二著作集刊行記念寄稿集). 聖書知識社. 1979.

                『新しいいのちを求めて』. 関根正雄・前田護郎 編. 山本書店. 1979.

                         ※ 塚本虎二5周年記念キリスト教講演集

                    『落穂拾い』. 白井きく 編. 白井第二集会. 1980.

                『歴史の中の塚本虎二先生 ― 十周年記念講演 ―』.塚本虎二記念講演会事務局 発行. 1983.

                    『太宰治と「聖書知識」』. 田中良彦 著. 朝文社. 1994.

                『25周年 歴史に生きる塚本虎二先生』. 斎藤顕・新井明・高橋照男 編. シャローム図書. 1999.

                    ※ ・ 塚本虎二先生10周年記念キリスト教講演集  ・ 塚本虎二先生25周年記念キリスト教講演集

 

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