内村鑑三

 

目 次

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                                                 〔注〕『全集』‥‥『内村鑑三全集』 発行所 岩波書店

 

                                                                                    [ホームページ]


 祈 り

           ‥‥‥基督(きりすと)信徒は絶間(たえま)なく祈るべきなり、然(しか)り彼の生命は祈祷なり、

           彼尚(な)お不完全なれば祈るべきなり、彼尚(な)お信足(た)らざれば祈るべきなり、彼能(よ)

           祈り能(あた)わざれば祈るべきなり、恵まるるも祈るべし、呪わるるも祈るべし、天の高きに上げ

           らるるも、陰府(よみ)の低きに下(さ)げらるるも我は祈らむ、力なき我、わが能(あと)うことは祈ることのみ。

                                             (『全集』第2巻.249頁)

 

              衆人相偕(とも)に祈るの利益二つあり、其第一は神が各自の心に存する牆壁(しょうへき)を排除し、

          心をして心と通ぜしめ、茲(ここ)に真個の兄弟的団合を作らしむるにあり、人心を結附(むすびつ)ける

          ものにして誠実なる祈祷会の如きはあらず、人は神に於いてのみ互に相一致するを得る者なり、

          偕に祈り得ざる者は真正の兄弟姉妹にあらず、偽善を怕(おそ)れて人の前に祈り得ざる者は未(いま)

            だ人と真誠に交わりしことなき人なり、真個の鰥寡(かんか)孤独とは人と偕に祈り得ざる者なり、吾等

          が二人或は三人、 或は五十人、六十人相偕に心と声とを合して祈る時に、神は吾等の中に在(いま)

             して、吾等の隔離したる心を繋(つな)ぎ、吾等をして彼の中に在て相互に真個の兄弟姉妹たらしめ

          給う。

           其第二は祈祷に力の加わることなり、一人の祈祷に一人の力あり、十人の祈祷に十人の力あり、

          五十人の祈祷に五十人の力あり、‥‥‥‥‥‥‥‥吾等は兄弟の祈祷を藉(か)りて吾等の祈願に

          力を添うるを得るなり、吾等は又兄弟の祈祷に和し、之を助けて之に吾等の力を添うるを得るなり、

          われらは祈祷に於ても、他の事業に於けるが如くに、兄弟姉妹互に相助くるを得るなり。

                                              (『全集』第10巻.262頁)

 

             ‥‥‥聖徒の交際は祈祷の交際なり、‥‥‥‥‥‥‥祈祷は祈願のみに非ず、讃美も祈祷なり、

           感謝も祈祷なり、心に恩恵を感ずること、是れキリスト信者の祈祷なり、‥‥‥‥‥

                                               (『全集』第11巻.78頁)

                                              

            ‥‥‥私は実(じつ)に或(あ)る時は思いました、アナタは実は在(いま)さないのではあるまい乎(か)

           若(も)し在すとすれば人の祈祷を聞かれない者ではあるまい乎(か)と、私は或時(あるとき)はアナタ

           に祈祷が出来なくなりました、私は口を噤(つぐ)みました、私はアナタを信じた事に就(つい)

           恥(はじ)るに至(いた)りました、然(しか)しながら神様、私の身躰(からだ)の事に就(つい)ては斯(か)くも

           冷淡なるが如(ごと)くに見え給(たま)いしアナタは私の霊魂の事に就ては特別に聖慮(せいりょ)を垂(た)

                 れられました、私が世の困難失敗のために度々(たびたび)アナタを離れんと致しました時にアナタは

           思掛(おもいがけ)なき時に私の霊魂にアナタの声を吹入(ふきい)れ給(たま)いまして、アナタの深き御心

           (みこころ)を私に示し給いました、アナタは私の身の境遇をば 善(よ)くしては下さりませんでしたが、

           然(しか)し私の霊魂をば艱難(かんなん)を経(へ)る毎(ごと)に強く且(か)つ健(すこや)かになして下さいました、

           ‥‥‥私は外より責めらるると同時に段々と中(うち)に富める者となりました、‥‥‥

                                              (『全集』第11巻.358~359頁)

 

           余(よ)は多くの事を神に祈求(ねが)えり、余は勿論(もちろん)余の身の事を祈求えり、余の家の

           事を祈求えり、余の骨肉の事を祈求えり、余の友人の事を祈求えり、余の国の事を祈求えり、

           而(しか)して時には自他の事を忘れてキリストと彼の福音の事を祈求えり、而して多くの年の間、

           多くの事を祈求いしと雖(いえど)も、其中(そのうち)、確かに神に聴(き)かれたりと信ずるは唯(ただ)

                 最後の祈求のみ、‥‥‥

           ‥‥‥我が祈求(ねがい)の聴かれざりしに非(あら)ず、然(しか)り、我が最大の祈求の聴かれしに

           由(よ)り、我がすべての祈求は聴かれしなり、主の栄光は顕(あら)われつつあり、‥‥‥

                                               (『全集』第18巻.168頁)

 

           祈祷(きとう)の人とは祈祷をする人ではない、祈祷を以(もつ)て事を為(な)す人である、更に進んで、

           祈祷を以てするにあらざれば何事をも為(な)す能(あた)わざる人である、祈祷を以て学ぶ人である、

           祈祷を以て働く人である、祈祷を以て戦う人である、即ち自己の力を以てせずして神の能(ちから)

           以て万事を為す人ある。

              ‥‥‥‥‥‥‥‥

           祈祷の人とは祈祷に実力あるを確認する人である、之(これ)に天地を動かすに足(た)る実力の存する

           ことを信じて疑わない人である、宇宙の最大勢力の霊なる神であることを知り、霊の誠実を以て彼に

           到(いた)り、彼より超自然的の能力を仰(あお)がんと欲(ほっ)する者である、‥‥‥‥

                                                (『全集』第18巻.199~200頁)

     

           信者が神に捧(ささ)ぐる祈祷は悉(ことごと)く聴(き)かるると聖書の或(あ)る所には書いてある、‥‥

           然(しか)るに聖書の他(ほか)の所には聴かれざる祈祷の例(ためし)が幾個(いくつ)も掲げてある、‥‥  

           ‥‥‥故に「何事」も聴かるると書いてあるが、然し、何事も我が求(ねが)うが儘(まま)に聴かれ

           ざる事は確(たしか)である、信者の祈祷の悉く聴かれざる事、信者が神に捧ぐる祈祷の中に彼に

           受納(うけいれ)られない者のある事を知るは、我等の信仰を維持する上に於て極めて大切である。

                                                (『全集』第20巻.94~95頁)

 

           余(よ)に一人の友がある、‥‥‥彼の最近の書翰(しょかん)に由(よ)れば彼は過(すぐ)る三十年間、

           曾(かつ)て一日も余に就(つい)ての祈祷を怠(おこた)りしことなしと云(い)う、‥‥‥

           過る三十年間に余は様々な危険に遭遇した、身の危険、名の危険、霊の危険は踵(くびす)を接して

           余に臨(のぞ)んだ、而(し)かも其(そ)の孰(いずれ)もが余を斃(たお)すことが能(でき)なかった、或(ある)者が

           余を支えた、‥‥‥是(こ)れ何に由(よ)るのであろう乎(か)、余は自分で其(その)説明を得ることが

           能(でき)ない、然(しか)れども今に至(いたっ)て知る余の友人の間断(かんだん)なき祈祷が其(その)大理由

           でありしことを、‥‥‥‥

                                                (『全集』第23巻.31頁)

 

           祈祷は義務ではない、快楽である、神と交際(まじわ)る事である、父と語る事である、我が凡(すべて)

           の祈求(ねがい)を以(もっ)て彼に近づく事である、‥‥‥祈祷の快楽は自己の利益より離るる丈(だ)

           其(そ)れ丈け大なるを覚(おぼ)ゆ、祈祷に快楽を覚えざるは自己の利益をのみ維(こ)れ神に訴うる

           に因(よ)る、神の心を以てするにあらざれば楽んで神と交際る事は能(でき)ない、神は愛である、

           其(その)愛を以て彼に近づく時に祈祷は最大の快楽たらざるを得ない。

                                                 (『全集』第23巻.169頁)

 

           ‥‥‥誠(まこと)に敵を赦(ゆる)すの最も善(よ)き途(みち)は彼の為に祈るにある、‥‥‥

           而(しか)して敵を駆逐(くちく)するの方法は彼を亡すに非(あら)ずして彼の為に祈祷(いのる)にある、

           祈祷を以(もっ)て敵を友と化(か)して彼も生き我も生くるのである。

                                                 (『全集』第23巻.380頁)

 

           基督者(クリスチャン)の祈祷は世界の広き丈(だ)け其(そ)れ丈(だ)け広くなくてはならない、‥‥

           然(しか)り基督者は全世界の為に、全人類の為に祈るべきである、‥‥‥‥

           ‥‥‥而(しか)して斯(かく)の如(ごと)くにして我等の祈祷の区域を拡張して我等も亦(また)其れ丈け

           自己を拡張するのである、広く愛して広く祈るに止(とど)まらず広く祈りて広く愛すべきである、

           我等は全世界全人類の救拯(すくい)幸福(さいわい)を我等日々の祈祷の題目となして自身万人と共に

           救わるるの資格を作るべきである。

                                                 (『全集』第24巻.331頁)

 

           私は自分自身で祈りません。私は神様に私に代(かわ)って祈って戴(いただ)きます。霊なる神様が

           私の衷(うち)に宿り給(たま)いて、私を通うして神様の聖意(みこころ)を祈り求むる事、時には言い難(がた)

           慨歎(なげき)を以(もっ)て、それが本当の祈りであります。哲学的には不可解であります、然(しか)

           実験的には真理であります、此(こ)の神様が其(その)子供の衷(うち)に在(あ)りて彼等を通うして神様に

           祈り給うと云(い)う事は。それは実に私の祈りであります、‥‥‥

                                                  (『全集』第28巻.69~70頁)

 

           祈祷は大小に関(かか)わらず凡(す)べて聴(き)かれる。其(その)大なる者が先きに聴かれて小なる者が

           後に聴かれる。世界人類に関わる祈祷が第一に聴かれ、其(その)次ぎに国家社会に関わる祈祷が

           聴かれ、終りに我家と我身とに関わる祈祷が聴かれる。

                                                  (『全集』第29巻.436頁)

 

           唯(ただ)祈る丈(だ)けでは人をも家をも国をも救う事は出来ない。我等は祈ると共に十字架を負(お)わな

           ければならない。血を流すことなくして救いあることなし。

                                                  (『全集』第30巻.12頁)

 

           凡(すべ)ての道義的祈祷は聴(き)かれる。我意ならで神の聖意の成(な)らん事を欲(ほっ)する祈祷は

           必ず聴かれる。又(また)如何(いか)なる場合に在(あ)るとも心に平安あらん事を求むる祈祷は必ず聴か

           れる。‥‥‥心の清からん事、独立、勇気、忍耐、聖書の難句を照らさん為の光明を求むる祈祷は

           必ず聴かるる事と見て差支(さいつかえ)ない。私の実験に依(よ)れば凡ての霊的祈祷は必ず聴かれる。

           若(も)し直(ただち)に聴かれないならば終(つい)には聴かれる。

                                                  (『全集』第30巻.400頁)

 

           私に金が無くとも、知識、能弁、健康が無くとも、私は国の為(ため)に、同胞の為に、人類の為に大なる

           事を為(な)す事が出来る。私は祈る事が出来る、‥‥‥祈祷は神が人としての私に、殊(こと)にクリス

           チヤンとしての私に賜(たま)わりし最大の特権である。‥‥‥

            人は窮(きゅう)すれば人に頼む。人の援助(たすけ)を得(え)て窮地を脱(だっ)せんとする。そして人の援助

           の絶(た)えし時に行詰(ゆきづま)りたりと云(い)う。彼は己(おのれ)に祈祷の特権あるを忘れるからである。

           何が無くとも祈る心は有る。是(こ)れさえあれば我に万物ありである。‥‥‥

           ‥‥‥祈祷の哲理を解せずと雖(いえど)も祈祷の実力を知る。我は弱き人である、然(しか)れども祈祷の

           人である、故(ゆえ)に強くせられ、又(また)人を強くする事が出来る。

                                                   (『全集』第30巻.491頁)

 

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 孤 独

           我は独りである、我の行くべきの教会はない、我を教え導くべき教師も牧師もない、我と哀楽を共にするの

          会友もない、我は至て淋しき者である。

           然し我は独りではない、神は我と共に在る、‥‥‥‥‥

           ‥‥‥‥、我には天下数万の孤独の朋友がある、孤独なるは我れ独りではない、基督も孤独で在(ましま

          した、又多くの基督の弟子は孤独である、人類は素々(もともと)孤独の動物である、‥‥‥‥‥

           ‥‥‥‥、我にも我の友がある、然(しか)り我は孤独であればこそ、斯()くも多くの友を有()つのである、

          孤独とは何んである乎()、孤独とは心を友とする事である、爾()うして心を友とする者は天下宇内(てんかうだい

          総て心を友とする者を友とする者である、‥‥‥‥‥‥‥‥‥人と面()のあたり談じたり語たり為()なけ

          れば友でないように思うのは未だ基督に於ける友の何たる乎を知らないからである。

           此世では孤独でも宜(よろし)い、孤独の方が宜い、真性の友人と偽わりの友人とを判別し難い此世に於ては

          多く友を索(もと)めるのは多くの危険を冒す事である、‥‥‥‥‥‥

                                                   (『全集』第9巻.234~235頁) 

 

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 正 義

            吾等(われら)が此世に於て正義を唱うるのは其現世に於て実行されんことを望むからではない、

           吾等は此世は罪悪の世なるを知る、神の正義を憎むの世なるを知る、悪人が跳梁して義人が迫害

           せらるゝの世なるを知る、而(し)かも吾等は正義を唱道して歇(や)まない。

            正義は第一に神の正義である、神の正義であるから吾等は如何なる場合に於ても之を唱えなくて

           はならない、其利害は吾等の関する所ではない、神の正義であるから吾等は全世界の抵抗に遭うて

           も之を唱えなくてはならない。

            正義は第二に世を鞫(さば)く者である、正義の唱道なくして世は其日毎に犯しつゝある所の罪悪の

           罪悪なるを知ることが出来ない、吾等は現世を正義の世となすことは出来ないかも知れない、然しな

           がら吾等は神の正義を唱えて世をして其神に戻(もと〔ママ〕)れる者であることを知らしむる事が出来る、

           正義の唱道は世の救済の初歩である、之を為さずして福音を伝播するも無効である。

            故に吾等は正義を唱えなくてはならない、大胆に之を唱えなくてはならない、世の之を容れざるも

           意とするに足らない、其此世に採用されんが為めに唱うるのではない、其正義なるが故に、其之を

           審判(さば)いて終に之を悔改に導かんがために、吾等は憶〔ママ〕せず怖れず之を唱うべきである。

                                                (『全集』第10巻.211~212頁)

 

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 社会改良

           ‥‥‥‥、若()し人生の終局の目的なるものがあるならば、是(これ)は福音の宣伝であると思う、‥‥‥

                   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           然(しか)し吾等(われら)は伝道の他(ほか)にも社会改良に従事する、而(しか)も最も熱心に、又世の人に率先

           して之に従事する、社会改良は吾等の本職ではないが、然し吾等独特の仕事である、‥‥‥‥‥

                   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           ‥‥‥‥、吾等は吾等と宗教を異にする者の発起に係りたればとて世の善き事業に向て反対を表しない、

           何人に依て発起されても宜しい、‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           ‥‥‥‥、社会改良は神の聖旨(みこころ)である、‥‥‥‥‥‥‥

                   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           ‥‥‥‥、基督教が社会改良と化した時はその大に堕落した時である、即ち我国今日の基督教の如き者

           であって、希望もなく、歓喜もなく、精神もない、乾燥無味、味を失うた塩のような無為無能の者である、基

           督教の社会改良は任意的の者でなくてはならない、即ち右の手の為すことを左の手に知らざらしむる底の

           ものでなくてはならない、‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                                                   (『全集』第9巻.333~337頁) 

 

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 キリスト教

            基督教の修養第一は祈祷であります。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            我等の修養第二は聖書の研究であります。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            我等の修養第三は労働であります、労働は我等の信仰を確かむるものであります、亦(また)之を固(かた

           める者であります、労働は信仰の実験であります、‥‥‥‥‥‥‥‥

           基督教は書斎の宗教ではありません、又寺院教会の宗教でもありません、基督教は実際の宗教であり

           ます、‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                                                    (『全集』第10巻.22~23頁) 

 

            一、基督教はイエスキリストに依て素めて世に唱えられた教であります、‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            二、基督教は聖書の上に立つ教であります、‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

               ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            三、基督教は人類の堕落を教うる教であります、‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            四、基督教は基督に於ける贖罪を教うる宗教であります、‥‥‥‥‥‥ 

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥  

            五、基督教は肉体の復活を信じます、‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                                                        (『全集』第10巻.56~59頁)

 

             ○余の基督教は第一に来世的である、‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           ○余の基督教は第二に贖罪的である、‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           ○余の基督教は第三に奇蹟的である、余は奇蹟をば有り得ない事とは信じない、奇蹟は天然的現象の

           激甚なるものであって、決して天然の法則に逆ったものではない、天然とは普通の現象を指して云(い)

           ものであって、奇蹟とは特殊の現象を云うものである、故に基本を探って見れば天然と奇蹟との間に差別

           はない、爾(そ)うして余は基督教は罪に死せし人類を救わんための特殊の勢力であると信ずる、基督教は

           普通の倫理ではない、仁を践(ふ)み義を行うた位(くら)いで人の霊魂は救い得らるゝ者ではない、彼は既に

           天然的には死したる者であるから、彼は天然的に救い得らるゝ者ではない、彼を救うには特殊の勢力が要

           る、即ち奇蹟が要る、奇蹟的ならざる宗教は罪に死したる人を救うの能力(ちから)を有(も)たない、‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           ○余の基督教は第四に聖書的である、‥‥‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                                                                  (『全集』第10巻.399~400頁)

      

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 キリスト者

           先づ第一に心に留め置くべきことは洗礼を受けた者の必しも信者でない事であります、‥‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           又教師又は牧師なりとて必しも信者であるとは限りません、‥‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           先づ第一に好んで聖書を読まない者は基督信者ではありません、‥‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           第二に祈らない者は基督信者ではありません、‥‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           第三に基督信者は他人の悪事を語ることを好みません、‥‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           第四に基督信者は人を憐む者であります、‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           第五に働かない人は基督信者ではありません、‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           ‥‥‥‥‥‥‥基督信者は酒を飲まない者、煙草を吸わない者であるとか、世間には禁酒禁煙を以て

          基督信徒たるの特兆(とくちょう)であるように思う人がありまするが、それは間違いであると思います、飲酒

          喫煙は之を罪悪と見倣(みな)す事は出来ません、‥‥‥‥‥‥‥‥

                                                 (『全集』第10巻.115~119頁)

 

              基督信者には患難があります、‥‥‥‥‥‥‥基督信者は神と基督とを信じて却(かえっ)て患難を

          身に招いたようなものであります、患難は基督信徒の附着物(つきもの)であると称(い)うても宜(よ)いと

          思います。

            基督信徒には世間普通の患難があります。‥‥‥‥‥‥私共が基督を信じたればとて神は是等の

           患難より私共を特別に救い出しては下さりません、‥‥‥‥‥‥

            然(しか)しながら此外に尚(な)お殊更(ことさ)らに基督信者には彼れ独特の患難とも称すべきものが

           あるのであります、彼には世と絶縁するの患難があります、彼には罪と奮闘するの患難があります、

           眼に見えぬ神を常に信仰の眼に認め置くの患難があります。敵をも愛さねばならぬ患難があります、

           神の正義を実行するために世人は勿論近親骨肉の者までに反対されるの患難があります、真理と

           異端とを弁別せねばならぬ患難があります、時には親や君にまでも逆らわねばならぬ患難があります、

           基督信者の患難は到底世の人の量り知ることの出来る者ではありません、‥‥‥‥‥‥

                                                  (『全集』第10巻.165頁)

                                                                        [内村鑑三 目次]   [ホームページ]

                                     


 伝 道

           伝道師たらんと欲する者は専門家たるを要せざるのみならず専門家たる可らざるなり、‥‥‥‥‥

          ‥‥‥‥‥伝道師の学問は寧ろ深きを要せずして(各専門学に於て)広きを要するものなり、‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           伝道師たらんと欲する者は経済学並に社会学の研究を要す‥‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           伝道師たらんと欲するものは科学の研究を要するなり、‥‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           伝道師たらんと欲する者は歴史学を研究せざる可らず、‥‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           伝道師たらんと欲するものは十分なる聖書の研究を要するなり、‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           理想的の伝道師ならんと欲するものは聖書の書かれし言語に依って之を研究することを要するなり ‥‥‥‥

                                                   (『全集』第1巻.266~270頁)

 

               基督教の伝道とは我が主張を世に及ぼし、我が徳を以て人を化し、以て我党我弟子を作る

           ことではない、基督者の伝道とは我の罪あるを世に表白し、我の受けし恩恵を人に示し、我が

           救主を世に紹介し、以て彼の従者、彼の弟子を作る事である、‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            此意味を以てすれば真正(ほんとう)の基督信徒たる者は誰でも伝道に従事する事が出来る、

           否(い)な、伝道に従事することの出来ない者は実は信者ではないのである、伝道は説教でもな

           ければ牧会でもない、伝道は我が心に実験せし神の拯救(すくい)を世に発表することである、‥‥‥‥‥

                                                    (『全集』第10巻.160頁)

 

                                                                         [内村鑑三 目次]   [ホームページ]

 


 実 験 

           基督教は理論にあらずして事実なり  実験なり  理論のみを以て 基督教を悟らんとするは

          理論のみを以て化学を研究せんとするが如く基督教の何物たるかを了解し能わざるなり‥‥‥

                                                      (『全集』第1巻.272頁)

 

                                                                      [内村鑑三 目次]   [ホームページ]

 


 日 本

            孰(いず)れの国にも国歌なるものがなくてはならない、然(しか)し我日本にはまだ是(これ)がない、

           「君が代」は国歌ではない、是は天子の徳を称えるための歌である、国歌とは其(その)平民の心を

           歌うたものでなくてはならない、国は実は其平民の所有(もの)であって、貴族の所有ではないから、

           国の理想は其平民の中(うち)に在(あ)って貴族の中にはない、平民の心を慰め、其望を高(たこ)

           し、之に自尊自重の精神を供する歌が日本国民の今日最も要求する所のものであると思う。

                                                       (『全集』第10巻.395頁)

 

                                                                       [内村鑑三 目次]   [ホームページ]


 日本人

           ‥‥‥‥‥‥否()な日本人は元来正義を嫌う民である、彼等は利の為めとなれば何んでも為()る、

           同胞の生血をも歃(すす)る、正義其(その)物を利用しても利を計らんとする、日本人の嫌うもので実は正義

           にまさるものはない。

                                                       (『全集』第9巻.221頁)

                                                                      

                                                                       [内村鑑三 目次]   [ホームページ]

 

                                                        


 世界人

            ‥‥‥‥‥‥然り余は余の国人に捨てられてより世界人(Weltmann)と成りたり、‥‥‥‥‥

                                                       (『全集』第2巻.20頁)

                                                                      [内村鑑三 目次]   [ホームページ]  

 


 人 生

            私が考えて見ますに人間が後世にのこす事の出来る、サウして是は誰にも出来るところの遺物で利益ばかり

           あって害のない遺物がある。何であるかならば勇ましい高尚なる生涯だと思います。‥‥‥‥‥‥而(しか)して

           高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、‥‥‥‥‥即ち此世の中は是は決して悪魔が支配する世の中

           にあらずして、神の世の中であると云う事を信ずる事である。失望の世の中にあらずして、望みの世の中である

           ことを信ずる事である、此世の中は悲みの世の中でなくして、喜びの世の中であるということを我々の生涯に実

           行して其生涯を世の中の贈物として此世を去るということであります。

                                                    (『全集』第4巻.280~281頁)

 

                                                                       [内村鑑三 目次]   [ホームページ] 

 


 天 国

            ‥‥‥‥‥天国とは神に依(よつ)て救はれし霊魂が新たに肉躰(たい)の復活に依て成りし霊躰に宿って

           永久に存在する処(ところ)の名称であります。

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            天国は何処に有る乎(か)、夫(そ)れも私は少しも知りません、‥‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            ‥‥‥‥‥、天国は何処にあらふか夫れは私共に取て大切なる問題では御座いません、‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            天国に入り得るの資格は何である乎、何う云う人が天国に入り得る乎、天国とは如何なる人に依て

           組織せられたる社会である乎、‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            第一  勿論富や位階勲章は天国に入るの資格とはなりません、

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            第二  天国は亦(ま)た学者の集合所ではありません、

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            第三  天国とは世に称する道徳家に往(い)く処ではありません、

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            第四  天国は亦た宗教家の棲家ではありません、

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            第五  然(しか)らば慈善家ならば天国に入るを得る乎と云うに必ず爾(そ)うとも限りません、

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                                                       (『全集』第8巻.181~185頁)

 

                                                                       [内村鑑三 目次]   [ホームページ]


 略 歴

  1861.3.23    高崎藩士内村宜之(よしゆき)の長男として江戸に生まれる

  1874       東京外国語学校入学

  1877       札幌農学校へ第二期生として入学

  1877.12     クラークの遺(のこ)した「イエスを信ずる者の誓約」に署名

  1878.6      メソヂスト監督教会宣教師より受洗

  1878.12     メソヂスト監督教会に入会

  1881.1      札幌独立基督教会建設委員となる

  1881.7      札幌農学校卒業、開拓使御用係准判任の辞令を受ける

  1881.10     開拓使民事局勧業課に勤務

  1881.10     札幌YMCAを結成(副会長)

  1882.2      開拓使廃止にともない札幌県御用係になる

  1883.6      学農社農学校教師

  1883.12     農商務省農務局水産課勤務 (1884.10 辞職)

  1884.3      浅田タケと結婚 (10月頃別居,1889.5 正式離婚)

  1884.11     渡米

  1885.1      ペンシルヴァニア精神薄弱児養護院の看護人になる

  1885.4      長女ノブ生れる

  1885.9      アマスト大学に選科生として入学 (1887.7 卒業)

  1886.3      回心を体験

  1887.9      ハートフォード神学校に入学 (1888.1 病気のため退学)

  1888.5      帰国

  1888.9      北越学館(新潟)仮教頭 (12月 辞職)

  1889.3      東洋英和学校、水産伝習所教師

  1889.7      横浜かずと結婚

  1890.9      第一高等中学校嘱託教員

  1891.1.8     札幌教会に退会を通告

  1891.1.9     第一高等中学校教育勅語奉読式で「不敬事件」を起す

  1891.2.3     第一高等中学校嘱託教員を依願解嘱

  1891.4.19    妻かず死去

  1892.9      泰西学館(大阪)教師、大阪高等英学校教師兼任

  1892.12     岡田しづと結婚

  1893.2      『基督信徒の慰』を刊行

  1893.4      熊本英学校教師

  1893.8      『求安録』を刊行

  1893.8      京都に移り住む

  1895.5      『HOW I BECAME A CHRISTIAN』を刊行

  1896.9      名古屋英和学校教師

  1897.1      『万朝報』英文欄主筆 

  1897.7      『夏期演説 後世への最大遺物』を刊行

  1898.6      『東京独立雑誌』を創刊 (1900.7 廃刊)

  1899.7      女子独立学校(東京、角筈)校長

  1900.4      『宗教座談』を刊行

  1900.9      『聖書之研究』を創刊 

  1900.11      札幌独立基督教会に再入会

  1901.3      『無教会』を創刊 (1902.8 廃刊)

  1901.4      木下尚江と足尾銅山鉱毒被害地を視察

  1901.7      黒岩周六等と理想団を結成

  1901.8      角筈聖書研究会発足 

  1903.10      非戦論のため万朝報社を退社

  1905.2      『基督教問答』を刊行

  1912.1      娘ルツ死去

  1918.1      再臨運動を開始

  1918.11     『基督再臨問題講演集』を刊行

  1922.3      『約百記(よぶき)講演』を刊行

  1924.3      『苦痛の福音』を刊行

  1924.9      『羅馬書(ろましょ)の研究』を刊行

  1925.9      『ガリラヤの道』を刊行

  1926.3      英文雑誌『The Japan Christian Intelligencer』を創刊

  1926.4      『加拉太書(がらてやしょ)の精神』を刊行

  1926.10     『一日一生』を刊行

  1930.3.28     心臓病により死去

                 

              〔岩波書店『内村鑑三全集(第40巻)』の「年譜」にもとづき作成〕

 

                                                                       [内村鑑三 目次]  [ホームページ]


 主要信仰著書

              『内村鑑三全集』(全40巻). 岩波書店. 1980~1984.

              

 

 

 参考文献

              『内村鑑三追憶文集』. 内村祐之 編集・発行. 聖書研究社. 1931.

              『追想集 内村鑑三先生』. 鈴木俊郎 編. 岩波書店. 1934.

              『内村鑑三伝』. 益本重雄・藤沢音吉 共著. 内村鑑三伝刊行会. 1935.

              『内村鑑三伝 信仰思想編 』. 益本重雄・藤沢音吉 共著. 内村鑑三伝刊行会(独立堂書房). 1936.

              『預言者としての内村鑑三』. 太田十三男 著. 大翠書院. 1948.

              『追想集 内村鑑三』. 鈴木俊郎 編. 淡路書房. 1949.

                    ※『追想集 内村鑑三先生』. 鈴木俊郎 編. 岩波書店. 1934.の実質的再版

              『回想の内村鑑三』. 鈴木俊郎 編. 岩波書店. 1956.

              『内村鑑三』. 山本泰次郎 著. 角川書店(角川新書). 1957.

              『日本のアウトサイダー』. 河上徹太郎 著. 中央公論社. 1959.

                    ※「内村鑑三」(197~233頁)、「正統思想について」(235~254頁)

              『内村先生と私』. 塚本虎二 著. 伊藤節書房. 1961.

              『内村鑑三と現代』. 鈴木俊郎 編. 岩波書店. 1961.

                     ※内村鑑三先生生誕百年記念キリスト教講演会(1961.3.25~26 女子学院講堂)講演集

              『内村鑑三とともに』. 矢内原忠雄 著. 東京大学出版会. 1962.

              『花巻非戦論事件における内村鑑三先生の教訓』. 斉藤宗次郎 著. 牧歌社. 1962(再版)

              『内村鑑三の遺産』. 鈴木俊郎 編. 山本書店. 1963.

                      ※内村鑑三先生記念キリスト教講演会(1963.3.30~31 女子学院講堂)講演集

              『ある日の内村鑑三先生』. 斎藤宗次郎 著. 教文館. 1964.

              『内村鑑三 人と思想 』. 関根正雄 編著. 清水書院. 1967.

              『石原兵永著作集 4,5,6 身近に接した内村鑑三(上),(中),(下)』.  山本書店. 1971~72.

              『内村鑑三 ―真理の証人』. 中沢洽樹 著. キリスト教夜間講座出版部. 1971.

              『内村鑑三以後四十年』. 鈴木俊郎 編. 岩波書店. 1971.

                     ※内村鑑三先生四十周年記念キリスト教講演会(1970.3.28~29 女子学院講堂)講演集

              『資料 内村鑑三先生記念キリスト教講演集 昭和5年~18年』. キリスト教夜間講座出版部. 1972.

              『内村鑑三記念平和講演 我々の平和の主張』. 武祐一郎・中川晶輝・ 堤道雄 著. 日本友和会. 1973.

              「内村鑑三」. 三浦永光 著. (『キリストの証人たち 抵抗に生きる 4』.日本基督教団出版局.1974.所収)

              『評伝 内村鑑三』. 小原 信 著. 中央公論社(中公叢書). 1976.

              『内村鑑三』. 森 有正 著. 講談社(講談社学術文庫) 1976. 

              『内村鑑三伝(再増補改訂新版)』. 政池仁 著. 教文館. 1977.

              『内村鑑三』. 亀井俊介. 中央公論社(中公新書). 1977.

              『私の内村鑑三論』. 由木 康 著. 教文館. 1978.

              『内村鑑三 五十周年 記念講演集』. 石原兵永 編. 新地書房. 1980.

                      ※内村鑑三 五十周年記念キリスト教講演会(1980.3.29~30 東京YWCA講堂)講演集

              『内村鑑三をめぐる作家たち』. 鈴木範久 著. 玉川大学出版部(玉川選書). 1980.

              『内村鑑三とひとりの弟子 ―斎藤宗次郎あての書簡による 』. 山本泰次郎 著. 教文館. 1981.

              『内村鑑三と矢内原忠雄』. 中村勝巳 著. リブロポート. 1981.

              『内村鑑三』. 松沢弘陽 責任編集. 中央公論社(中公バックス 日本の名著38). 1984.

                     ※ 内村鑑三著作:「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」,[求安録」,「地人論」,「小篇」

                            松沢弘陽:「近代日本と内村鑑三」

              『内村鑑三』. 鈴木範久 著. 岩波書店(岩波新書). 1984.

              『内村鑑三談話』. 鈴木範久 編. 岩波書店. 1984.

              『晩年の内村鑑三』. 内村美代子 著. 教文館. 1985.

              『恩師言 ―内村鑑三言行録・ひとりの弟子による 』. 斎藤宗次郎 著. 教文館. 1986.

              『内村鑑三とラアトブルフ』. 野田良之 著. みすず書房. 1986.

              『近代思想史における内村鑑三  ―政治・民族・無教会論― 』. 渋谷 浩 著. 新地書房. 1988.

              『新潟女学校と北越学館』. 新潟県プロテスタント史研究会 編. 新潟日報事業社出版部. 1990.

              『現代に生きる内村鑑三』. 内田芳明 著. 岩波書店. 1991.

              『希望のありか ―内村鑑三と現代― 』. 佐藤全弘 著. 教文館. 1991.

              『内村鑑三と不敬事件史』. 大河原礼三 編著・発行. 木鐸社 発売. 1991.

              『内村鑑三論』. 道家弘一郎 著. 沖積舎. 1992.

              『日本の覚醒 ― 内村鑑三によって ―』. 新保祐司・富岡幸一郎 著. リブロポート. 1993.

              『内村鑑三』. 新保祐司 著. 構想社. 1994.

              『内村鑑三と留岡幸助』. 恒益俊雄 著. 近代文芸社. 1995.

              『「内村鑑三」と出会って』. 名古屋学院大学・近代思想史研究会 堀 孝彦・梶原 寿 編. 勁草書房. 1996.

              『晩年の内村鑑三』. 安藝基雄 著. 岩波書店. 1997.

              『シリーズ宗教と人間 内村鑑三』. 富岡幸一郎 著. 五月書房. 2001.

              『髙木謙次選集 第1巻 ―内村鑑三とその周辺 』. キリスト教図書出版社. 2005.

              『内村鑑三 1861-1930』(別冊『環』⓲). 藤原良雄 編. 藤原書店. 2011.

              『内村鑑三の人と思想』. 鈴木範久 著. 岩波書店. 2012.

              『神こそわれらの砦 内村鑑三生誕150周年記念 』. NPO法人今井館教友会 編. 教文館. 2012.

              『内村鑑三 悲しみの使徒 』.若松英輔 著. 岩波書店(岩波新書). 2018.

              『内村鑑三 その聖書読解と危機の時代 』. 関根清三 著. 筑摩書房. 2019.

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              『わが歩みし精神医学の道』. 内村祐之 著. みすず書房. 1968.

              『鑑三・野球・精神医学』. 内村祐之 著. 日本経済新聞社. 1973.

              『道理の感覚』. 天野貞祐 著. 岩波書店. 1937.

                        ※「内村鑑三先生のこと(一)、(二)」(13~30頁)

                 『近代精神とその限界』. 家永三郎 著. 角川新書. 1950.

                        ※「近代精神とその限界 ―内村鑑三の思想的考察― 」(55~170頁)

              『わが心の遍歴』. 長与善郎 著. 筑摩書房. 1959.

                        ※内村鑑三に係る個所 101~102、112~116、121、147、306、435~436頁

                 『内村鑑三・我が生涯と文学 現代日本のエッセイ』. 正宗白鳥 著. 講談社文芸文庫. 1994.

                       ※「内村鑑三」(7~95頁)、「内村鑑三雑感」(97~128頁)

              『近代日本のキリスト教思想家たち』. 鵜沼裕子 著. 日本基督教団出版局. 1988.  *

                       ※「内村鑑三 ―「天然観」を中心に 」(71~100頁)

              『近代日本キリスト者の信仰と倫理』. 鵜沼裕子 著. 聖学院大学出版会. 2000.

                       ※「第二章 内村鑑三における宗教的寛容について」(56~74頁)

                              「第三章 日本人キリスト者の死生観 ―内村鑑三を中心に― 」(75~95頁)

              『非戦論』. 富岡幸一郎 著. NTT出版. 2004.

                                        『内村鑑三と再臨運動 救い・終末論・ユダヤ人観』. 黒川知文 著. 新教出版社. 2012.

                 

              

 

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