矢内原忠雄

 目 次

         [ 祈り ]  [ 神 ]  [ 神の国 ]  [ 神の義 ]  [ 神の救 ]  [ 神の経綸 ]  [  ]  [ 十字架 ]

         [ 信仰 ]  [ 聖霊 ]  [ 信仰生活 ]  [ 悲哀 ]  [ 一人で立つ ]  [ 永遠の生命 ]  [ 復活 ]  

         [ 再臨 ]  [ 預言者的信仰 ]  [ 平和論 ]

         [ 略歴 ]  [ 年譜 ]  [ 主要信仰著書 ]  [ 参考文献 ]  [ 記念講演会 ]

                                                             〔注〕『全集』‥‥『矢内原忠雄全集』 発行所 岩波書店

 

                                                                                      [ホームページ]


 祈 り

 

         最初のエクレシアの集りが、祈り会の性格をもつものであったことは、特にわれわれの

         注意をひく。信者の集りは、祈りの集りである。祈をもって始まり、祈をもって終る。

         祈のないところに、エクレシアはない。

                                          (『全集』第6巻.555頁)

 

         信仰のあつい人の祈によっても、病の治癒の行われない場合がある。それはその人の祈りが

         弱いからでもなく、いわんや神の能力に制限があるからではない。それは神の能力の問題でなく、

         神の意思の問題である。‥‥‥‥

         神の思いは人の思いを越えて高くあり、神の恩恵の与えられる形は、人と場合において

         決して一様でない。ただ、神は信じて祈る者の求めに対し、常に最善の答えを与えたもう

         ことは確実である。

                                          (『全集』第7巻.302,303頁) 

        

         自己の意思を神の意思に一致させることが人の祈の真の意味であって、その反対ではない。

         しかし神の御意(みこころ)がすぐにはっきりわからないことがある。また神の御意がそれとわかっても、

         それがあまりにも我が意思に反するものである時、すぐにはそれに従って行けないことがある。

         そういう時、我らは神の前に幼児(おさなご)のごとくに泣き、訴え、駄々をこねる。しかし父は憐憫(あわれみ)

         をもって我らをつつみ、結局神の御意に従わざるを得ないようにしむけ給う。そして我らがついに

         神の御意に我が意思を一致させて、全く従順な態度になったとき、メラの水のような苦渋に満ちた杯も

         いかに甘美となるか。

                                           (『全集』第7巻.692頁) 

        

         祈は聖霊の掩護(えんご)による我らの全面的防御である。祈によって我らは自己の意識する又意識せざる

         一切の弱点を蔽(おお)い得るのである。

                                           (『全集』第8巻.578頁) 

        

         生命の世界と死の世界の峻別(しゅんべつ)は、熱帯寒帯の区別の如(ごと)く、神の定め給(たま)いし宇宙の秩序で

         あって、人が之(これ)を乱す事ができないものである。かかる事の為(た)めに我等が祈るのは無駄なことで

         あって、斯(か)くの如き事を祈の対象とすることを、神は我等に要求し給わない。神は我等に祈り得るだけを

         祈らしめ給う。我等は信仰的常識を以(もつ)て祈り得るだけを祈り、而(しか)して他は凡(すべ)て神の大権に委(ゆだ)

         ねて安んずべきである。

                                           (『全集』第8巻.695頁) 

        

         我らの祈の中、如何(いか)なる部分が神の御意(みこころ)に合致するかを我らは知らない。ただ祈が聴かれた

         事後に 於(お)いて、之(これ)を知るのみである。イエスは予(あらかじ)め祈るべき事項と祈るべからざる事項とを

         箇条(かじょう)書きにして指定するような、愚なことを為(な)し給わない。彼は人の弱きを知り給う。故(ゆえ)に事柄を

         限定せず、何でも自由に祈り願うことを許し給い、ただイエスの名によりて祈ることをだけ命じ給うたのである。

         之によって我らは恐れなく自由に祈る。

                                           (『全集』第9巻.248,249頁)

        

         意気消沈(いきしょうちん)して望を失わんとする時、我らの心は索漠(さくばく)として蝋(ろう)を噛(か)む如(ごと)く、

         何事にも興味を感ぜず、祈さえ忘れ、茫然(ぼうぜん)として無力の中に坐る。神を見失うて、人生は俄(にわ)かに

         空虚と化せざるを得ない。その苦痛は死よりもなほ耐え難(がた)いのである。

         この危機にのぞみて、突如(とつじょ)として静かなる細き声が聞える、「汝(なんじ)らわが顔を求めよ」と。 ‥‥‥

         何処(いずこ)から此(こ)の声は送られたか。如何(いか)にしてそれが我が耳に入ったか。我が心はうつろであって、

         かかる声を聞こうという欲求さえも有(も)たなかったのである。従(したが)ってこの声は父なる神から自発的に

         送り給うたのであって、純然たる神の恩恵であるに相違ない。神は我が心の耳がこの声をとらえ得るに

         最適当の時機を見計って、之(これ)を送り給うたのである。 ‥‥‥

         この御声(みこえ)のささやきを心に聞いて、己(おのれ)にかえりたる我は直(ただち)に祈る。

                                            (『全集』第11巻.77頁) 

        

         真実は神に近づくための絶対必要なる条件である。我々は神学の知識とか信仰箇条(かじょう)とかを

         以(もつ)て神に近づくことは出来ない。神は真実であるから、我らも真実以外には神に近づくべき態度は

         ないのである。然(しか)るに人間の真実は人間の祈のほかにはなく、人間の義(ただ)しさは人間の懇求のほかには

         ない。人は自己の不真実な者であること、義しくないものであることを知り、その真実の足りないもの、

         義しくない者が神に依(よ)り頼んで、赦(ゆる)しと憐(あわれ)みを祈り求める。それ以外に人間の有(も)ち得る

         真実はないのである。

         我々は自分の真実でないことを知らなければ、神に祈ることは出来ない。

                                            (『全集』第11巻.317,318頁) 

        

         人と神との本来の関係は、祈る者と祈りをきき給う者との関係である。

                                            (『全集』第11巻.429頁)

 

           しかし我は未だ死んでは居ない。死んだも同然のあわれな状態ではあるが、我にはなお祈の力と意思が

         残されて居る。すべてのことが絶望となり、虚無に帰する前に、その最後の瞬間において、我は夜神にむ

         かって叫び、朝神にむかって祈る。このわが祈がみまえに達しないのであろうか。

                                            (『全集』第11巻.494〜495頁)

 

           祈りは生にいたる呼吸の門である。祈って居るところに、希望がある。たとい主観的に彼は「死んだも同然」

         であっても、彼は神の御手に抱かれて、その中でもだえて居るのである。彼をとぢ込める苦難の厚い壁の

         外を、神のいつくしみと真実が更にとりかこんで居るのである。

                                            (『全集』第11巻.496頁)

        

         信仰といい、希望といい、愛といい、それはすべて神より与えられるものであって、人間が自己の力に

         よって獲得し、もしくは維持するのではない。即ちたえず祈によらなければ、我らはこの三つの支柱さえも

         保つことが出来ないのである。その意味において、基督者(きりすとしゃ)の生涯は祈の生活である。祈を忘れた

         基督者は、水をはなれた魚にひとしい。祈なくしては、人生のにがさが甘さに変えられることは出来ない。

         祈なくしては、信仰も希望も愛も育たない。

                                             (『全集』第14巻.209頁)  

        

         私共の心が悲しんでおる時、弱っておる時、淋しい時に、神様に対してお父さま、天のお父さま、こう

         お呼びして御覧(ごらん)なさい。之(これ)を祈と言うんです。祈ということは何もむずかしいことではなくて、

         祈というものは父親を慕(した)う心である。この寄るべないもの、弱いものが、「お父様」とこう申し上げる

         時に、信仰の力というものが与えられる。‥‥‥

         之はただ自分の心の持ち方という問題ではなくて、本当に天のお父さんからの力が心に加ってくるのです。

                                             (『全集』第14巻.221,222頁) 

        

         悲しみに陥(おちい)った者は、神に呼ばわり求めなければなりません。時がたてば悲しみの記憶の薄(うす)らぐ

         ことはありましても、祈らずしては悲しみを歓喜に化することは出来ません。

                                             (『全集』第14巻.461頁)

        

         祈は人の心を神に結ぶだけでなく、祈る人の心と祈られる人の心を主にありて結びつけ、かつ

         共に祈る人どうしの心を互いに結びつける。すなわち祈によって愛はかき立てられ、強められる。

                                             (『全集』第14巻.666頁) 

        

         ‥‥少数のクリスチャンの存在が、地の塩、世の光である。世界あるいは日本が滅亡を免(まぬが)れ、

         腐敗から救われるのは、少数ではあるが真のキリスト信者の存在と、その祈りによるのであります。

                                             (『全集』第15巻.459頁) 

       

         しばしば我々は人のために祈ることしか出来ない。しかし祈ることが出来るのは、その人の為めに 

         最大のことが出来ているのである。

                                             (『全集』第17巻.404頁) 

        

         祈りによって人は、神にむかって「父よ」と呼びかけ、神から「子よ」との声を聞く。この幸福は、

         自分で口に出して神に祈ることによって得られる。しかも最初の自覚した祈りを口に出すには、

         その時機があるのであって、強いられてなし得ることでもなく、また人真似で出来ることでもない。‥‥

         しかしその「時」が遂にきて、初めて「父よ」と呼びかける祈りがわが口唇(くちびる)から出た時、

         天地は新(あらた)なる光につつまれて、わがたましいは父なる神の愛の栄光に目さめる。
        

                                             (『全集』第17巻.423頁)

    

         孤独の友よ、野に出でて神に祈れ。野に生える木は、偽善と不真実に満つる人間よりも、汝(なんじ)にとりて 

          しばしばより真実な心の友となることが出来るであろう。               
                                                 

                                             (『全集』第17巻.474頁) 

        

         祈は神と我との秘密の会合である。これは人に知らすべきでなく、又(また)人に知られるべきではない。

         自分と神とだけある時、真の自分の孤独がある。これは何人(なにびと)ものぞき見することを許されない

         自分の心の秘密である。

            ‥‥‥‥ 

         神と偕(とも)なる秘密の場所でなければ、祈は実を結ばず、愛は育たない。従って公開の場所における

         戦闘力を生じないのである。                                  

                            (『全集』第17巻.481〜482頁) 

         

         天に召(め)されても、みたまの祈りに添えて、自分たち復活の生命の祈りが、地上に残っている愛する人々

         に対して、非常に強い慰めと、教えと、導きを与える。私どもの愛する者が天に召されたときに、

         皆それを感ずるのです。地上にいた時よりも、もっともっと深い愛をもって、天に召された彼らの祈りが 

         私どもを助ける事を実感する。

                                             (『全集』第20巻.645頁) 

       

         人が聖霊を受けるのは、祈によるのです。しかもそれは必ずしも、「我に聖霊を与え給え」という祈に

         限りません。「聖霊を与え給え、聖霊を与え給え」という熱狂的な祈によって得た熱狂的な聖霊は、やがて

         時とともにさめます。そしてさめたあとは、前よりも、信仰的にも、道徳的にも悪くなるのです。

         われらはむしろ普通の日常生活の中において、ルカ伝第十一章やマタイ伝第六章でイエスが教え給うた

         ような祈を、イエスの教え給うたような態度で祈る時、神は求むる者に「善き物」、即ち聖霊を賜(たま)うの

         です。しかし又それは、祈が直接に聞かれた時だけでなく、むしろ祈の聞かれない時に聖霊が与えられる

         ことを、われわれはしばしば経験によって知っている。 

                                             (『全集』第21巻.24頁)

                                                                                     

                                                          [矢内原忠雄 目次]  [ホームページ]


  

 

         神はただに各個人一人一人の神であり、一人一人との間に人格的交渉を有(も)ち給(たも)う。神は各個人を

         個々的に保護し、個々的に教え慰(なぐさ)め、個々的に話しかけ給う。従(したが)って人も亦(また)、各自個々的

         に神に対して責任を取り、又(また)個々的に神と口をきかなければならない。神は人と個人的交渉を有ち給う。

         それは神が単なる概念的、法則的存在ではなくして、人格的実在たるが故(ゆえ)である。

                                              (『全集』第6巻.218頁)

 

         実在の根柢(こんてい)たる人格神は必然的に霊的である。それ自身実在の根柢であるから、何等(なにら)の物質的

         形状を以(もっ)て神の形を表現し制約し得ない。

                                              (『全集』第6巻.220頁)

 

         「父なる神」、之(これ)が人格神としての神の性格である。而(しか)して神を父と見るこの信仰が、イエスに対し神の

         本質についての深き洞察と、神との親しき霊交と、論戦を一貫しての自由さ、新鮮さ、智慧(ちえ)と勇気とを賦与し

         たる根本である。イエスの敵は神との活ける交りを欠いたが故に、彼等の神観は形式的であり、概念的であり、

         化石したる公式主義的把握となった。之に反しイエスは神を父と信じたが故に、自由無礙なる新鮮なる生命力、

         行動力が、彼の神観より泉み出たのである。

                                               (『全集』第6巻.220〜221頁)

 

         信仰に入って活きたる神様との交りに入るその最初は、己の罪を知って、この罪ある自分自身をどうするか。

         この問題にぶつかったときに、始めて神はわが神となりたもう。今まで神について聞いていたんですけれども、

         その時から神様は『わが神』となりたもう。いわばそのときに私共は神様に組みつくんです。神様と私共との

         取組合いを感ずる。神の力を自分に感ずる。神様が私共の両方の利腕(ききうで)を掴(つか)まれまして、

         私共に体の自由を与えられない。私共はその下にもがいて自由になりたいと思いますけれども、どうしても

         神様が離して下さらない。神の怒の恐ろしさを私共が自分の身に感ずるのです。而(しか)して神がその怒の

         御顔を和げて、私共を祝福して下さる迄は私共も神様を離さない。こうして、神の御腕の強さ、神の御手の

         温さを、自分たちの心の皮膚に感ずる。そのときに神様は『わが神』となりたもう。

                                                        (『全集』第8巻.57頁)

 

         神の言が神に逆らう此の世の権力を審くことは現実の事実である。圧し潰されたように見えた神の言が

         決して消滅せず、時を経てその真理の勝利が認識せられ、圧し潰したと見えた此の世の勢力が決して

         勝利せず、やがて内部的及び外部的の原因によりて崩壊することは、我らの経験する事実である。

         その崩壊と滅亡の直接の手段として此世的なる勢力の用いられることはあっても、その根本的なる原因

         は神の言の真理性の貫徹にある。

                                                       (『全集』第9巻.541頁)

 

            ‥‥‥‥不思議なことには、神がこのように、言わば顔面朱をそそいで怒り給い、私が思わず「罪を

         赦して下さい」、「御手をゆるめて下さい」、「痛みを和げて下さい」といって取りすがる時、神と私とだけ

         のこの格闘の中には、いわば神の体温を私の膚に感ずるような、何とも言えぬ親しさと温かみが涌い

         て来る。それは他人ののぞき見や口出しを許さぬところの、神と私と二人だけの世界であった。

                                                       (『全集』第11巻.527頁)

 

           神は原理的であって注釈的ではない。又具体的であって、概念的ではない。神は原理の具体的適用

         を重んじ給う。神の嫌い給うものにして、原理を離れたる煩些(はんさ)の論議と、具体性を失いたる概念

         的思索の如きはない。

                                                       (『全集』第12巻.611頁)

       

           神を知る方法は、理知的には聖書の記事に基く神学的思索を必要とするが、実験的にはイエスの生涯

         と、イエスを信ずる者の生涯によって知られる。そして、それが神についての何よりも確実な具体的知識

         なのである。

          ‥‥‥‥‥

         人は自分の生涯の実験によってのみ、神をたしかに認識することが出来る。

                                                        (『全集』第14巻.187頁)

 

           神があるということを、議論で証明することが困難なように、神がないということを証明することもできない。

         結局、神を信ずるか信じないかという決断の問題です。信ずるということは、すべて決断です。人生で何か

         事をするのは決断して飛び込むという意思のはたらきによるのであって、これがなければ何もできない。

                                                        (『全集』第22巻.98頁)

        

 

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  神の国

 

         「神の国」というのは神の支配し給(たも)う国、神の御意(みこころ)の完全に行われる社会です。

                                              (『全集』第6巻.26頁)

 

         「神の国」は霧(きり)の彼方(かなた)にある様(よう)な神秘的なもの、人間の理解を超越した不可思議なものでは

         なく、それは実際的なものであって、人間に解(わか)り得(う)るものである。‥‥‥神の国の真理は、人間に

         見られる事を避(さ)けて暗い内陣に隠(かく)されている本尊の様なものではない。又(また)普通の人間の頭では

         何とも理解困難な様にひねくり廻(まわ)された理窟(りくつ)でもない。解(わか)るものだ。誰にでも解るものだ。

         解る心の持主には誰にでも解る。その解る心とは、素直な、誠実な心に外(ほか)ならないのです。

                                              (『全集』第6巻.71頁)

 

         神の国には神の国の標準がある。而(しか)して神の国の民たる者は、神の国の標準を以(もっ)て此世(このよ)

         の事をも考えねばならないのである。‥‥‥神の国は、実(じつ)は幼児のような心の持主(もちぬし)の国なのです。

           ‥‥‥‥‥‥‥

         イエスの名のために、世の最も弱き者よりも尚(なお)弱くなり、最も罪ある者よりも尚罪を負(お)う者が、神の国にて

         大なる者となるのです。

                                                      (『全集』第6巻.155頁)

 

         神の国は平和、寛容、柔和、節制である(ガラテヤ5の22,23)。

                                                      (『全集』第6巻.163頁)

 

         ‥‥‥‥現実の水準に引下げて理想を解釈すべきでなく、反対に理想によって現実を支え、現実を指揮し、

         現実をば理想の水準に基(もとづ)いて解釈すべきである。之(これ)が神の国の民たる者の生活態度です。神の

         理想は現実界に対しては啓示として与えられ、現実界は義務として之を受け取る。‥‥‥

                                                      (『全集』第6巻.167頁)

 

         この世では、君と認められる者が権力を振(ふる)って民を支配する。しかし神の国に於(お)ける有力者は、

         威張(いば)る者ではなくして事(つか)える者である。支配者ではなくして僕(しもべ)である。

                                                      (『全集』第6巻.181頁)

 

         神の国は進化的に来るのではなく、革命的に来るのだ。そして革命の前夜には、一方では新しき神の国

         の胚種が自然及び社会の胎内に成熟すると共に、他方では革命せらるべき自然界の欠陥及び社会の

         罪悪が極度に現れる。かくして神の国は決戦的に来るのだ。

                                                      (『全集』第6巻.224頁)

 

         ‥‥‥神の国の来ることは唯(ただ)時間的の問題ではない。それは品質(クオーリティー)の問題である。

         神の国の来ることを信じ、其処(そこ)に目標を置いて生活する者には愛がある、歓喜がある、希望がある、

         力がある。之(こ)れは神の国が権能を以(もっ)て来ることの予表(よひょう)であり、或(ある)意味に於(おい)ては

         既に来て居るのだと言える。

          神の国の来ることは信仰である。併(しか)し信仰は想像と異り、霊の眼を以て霊的事実を具体的に見る

         ことである。神の国は神の計画の中には既(すで)に出来上って居(お)り、それが時間的空間的には歴史を

         通じて地上に実現せられるというだけの事である。故(ゆえ)に信仰の眼が開かれるならば、神の国の姿をば、

         今でも現実的具体的に「見る」を得る。その地上実現は時の問題であって、原理の問題ではない。

                                                      (『全集』第6巻.330〜331頁)

 

         義は、神の国の政治の内容である。食物に飢え渇(かわ)く者の要求するところは、単に物質的なる食物に

         止(とどま)るのではない。彼らは暗黙のうちに義(ただ)しき社会を求めているのである。

                                                      (『全集』第6巻.345頁)

 

         如何(いか)に財多く、健康も丈夫であり、学問・道徳に勝れて居ても、心高ぶり、悲しみを知らず、正義の感覚

         なく、戦を作り、義の為(た)めに責めらるることを恐るる者は神の国の無資格者であって、‥‥‥

          ‥‥‥‥‥‥

         消極的には自己に何の恃(たの)むものをも有(も)たざる貧しさ、積極的には神の国のために自己の何もの

         をも惜(おし)まざる雄々しさ。神の国の民たる者の特質は、この二つに尽(つ)きているのである。

                                                      (『全集』第6巻.347頁)

 

         ‥‥‥神の国は来世(らいせ)の希望であるが、それが為(た)め現実的に無内容な存在であるわけではない。

         来世とは単に現世(げんせ)の時間的継続ではなく、現世を支配し、指導し、基礎づくる永遠の生活原理である。

         神の国は終(おわり)の日に於(おい)て完全に地上に成就するものであるが、それは天の処(ところ)にありては世の

         創(はじめ)の前より既(すで)に存在し、且(か)つ現世に於いても潜在的に実在し、部分的に実現しつつある。

         「悲しむ者は慰(なぐさ)めらるる」という。慰めの完全なる成就は来世に於いて与えられるが、併(しか)し彼は現世

         に於いて既に之(これ)と同質なる慰めを受くるのである。神の国の慰めは永遠的である。従って来世的でもあり、

         現世的でもある。それは来世的たるが故(ゆえ)に、最も確実なる現世の慰めであるのである。

                                                       (『全集』第6巻.348頁)

 

         天国は、自己の信仰もしくは行為によって、自分の力で押し入り、割り込むことのできるところでなく、ただ神の

         恩恵によって受け入れられるところであるから、どうしても母の乳房にたよる幼児のごとく、単純に、素直に、

         恐れずして信頼する態度でなければならないのである。

                                                       (『全集』第7巻.307頁)

 

         神の国は人間の努力をつみかさねてその上に築かれるのではなく、人類社会が進化して理想状態に到達

         するのではない。神の国は神より出でて、地上に来るのである。それは神の意思と神の能力とにより、神の

         経綸に基づき、神の審判を通して地に臨むのである。それであってこそ、我らは地上における神の国の完成

         について希望と確信をもつことができる。

                                                       (『全集』第7巻.356頁)

 

         ‥‥‥イエスが神の国の福音を宣(の)べ伝えることを始められてからは、神の国に入る態度と方法において

         革命が起ったのである。もはや律法の維持という消極的・静止的方法では、神の国に入る迫力のないことが

         明らかになった。神の国は生命の満ち溢れたものであるから、これに入ろうとする者にもまた、生命の躍動し

         た態度と気魄(きはく)が必要なのである。自分は律法を知っているとか、洗礼を受けたとかいう安心と「顔」とで、

         神の国に入れるものではなく、律法は守れても守れなくても是非(ぜひ)とも神の国に入れていただきたいという、

         積極的な求めの必要なことが明らかとなったのである。

                                                       (『全集』第7巻.501頁)

 

         神の国は信ずる者の心の中にある。また信ずる者のコイノーニア(霊交)の中にある。何時、何処にというように、

         時間・空間の限定の中に存在するものではなく、それは霊的な生命であり、霊的な生活である。

                                                       (『全集』第7巻.542頁)

 

           キリスト教は、人類の社会がこのまま進化して行って、神の国が地上に成るものとは信じない。

           ‥‥‥‥‥‥

         即ち個人の救が人間の努力によっては来らず、キリストの恩恵によって与えられると同様、社会の救としての

         神の国も亦(また)、人類の努力によっては来(きた)らず、神の恩恵によって来る。神の国、即ち理想社会は自然

         的進化としては来らず、審判を通じてカタストローフの形で来る。こういう意味において、天国もしくは神の国の

         地上実現は、現世的であると共にまた来世的であり、終末的である。

                                                       (『全集』第14巻.204頁)

 

           この世に生きながらこの世のものでないところの基督者の存在と、その交りであるエクレシアこそ、地上歴史の

         現段階において実在する神の国の現実の姿である。

                                                       (『全集』第17巻.399頁)

         

 

                                                          [矢内原忠雄 目次]  [ホームページ]


 神の義

 

         神を信ずる敬虔な人々は、この世にあっては弱者であり、貧者であり、飢え渇(かわ)く者であって、世の権力者、

         富者、満ち足(た)りた者から軽蔑され、抑圧される。しかしながら神は彼らの祈を聞き給(たも)うて、虐げる者の手

         から抑圧される者を解き放ち給う。この審判が神の義である。従って神の義は神の救の中にあるのである。

                                                        (『全集』第6巻.477頁)

 

         神の義を与えられること、即ち救であります。救とは神の義の成就であります。之が個人になされたときに

         個人が救われるし、社会になされたときに社会が救われるし、人類或いは宇宙になされたときに人類・宇宙

         が救われる。

          ‥‥‥‥‥‥‥

         パウロが「神の義」という時には、ただに神の義(ただ)しさというだけでなく、人をしてその義しさを獲得せし

         める方法をも含めた意味に用いて居る。その方法は福音の恩恵である。この神の完全と神の恩恵とを一つ

         にしたものが、パウロの言っている神の義であります。‥‥‥道徳的完全という意味に於ける「神の義」は、

         パウロを待たずして旧約聖書以来言われて来て居るのでありますから、之は凡(すべ)ての人々に共通な認識

         であります。その共通性を抽(ぬ)き去ってみると、特にパウロの言う神の義とは神の恩恵ということである。

         神が凡て誰でも信ずる者をば救いたもう、それが神の義という事であります。

                                                    (『全集』第8巻.22〜23頁)

 

         神様の正義は罪を審判(さばき)ますが、併(しか)し救に至って始めて正義は完くせられるのであります。神の正

         義は刑罰を伴いますが、刑罰そのものを目的とせず、刑罰を以て終るものではありません。それは必ず救を

         目的とし、救を予想し、救に向って流れ入るのであります。

                                                               (『全集』第12巻.55頁)

 

                                                          [矢内原忠雄 目次]  [ホームページ]


 神の救

 

         ‥‥‥人の生涯と人類の歴史は意味と目的をもたぬ偶然の連続であるのではなく、神の意思と経綸(けいりん)

              によって成(な)しとげられる救の過程であることを示すものであり、そこにわれわれは救の確実性の根拠を

         見出すことができるのである。救の可能性は「偶然」にかかっているのではなく、人間の意思と努力にある

         のでもない。それは神が自(みずか)ら立て給(たも)うた目的を、神自らの意思と能力により、神の定め給う計画

         と順序に従って遂行し給うことによって達成されるのである。

                                                       (『全集』第6巻.425頁)

 

         

         『救』は静態的でなく動態的であり、機械的ではなく生活的の現象である。従って自ら『救』を追(おい)求むる生活

         態度なくしては、絶対にその真実性を把握することは出来ない。無信仰の神学者よりも、信仰ある無学者の方が、

         『救』の真理を善(よ)く理解して居るのである。無信仰の神学は自己を迷わせ、他人を迷わせ、神の途を紊(みだ)

         ものであって有害なること之(これ)に勝るものはない。

                                                       (『全集』第8巻.293頁)

 

           ‥‥‥自分は蛆虫(うじむし)だ、何のとるべき所がない者だ、という事を知ることが、神の救を受けるに必要な前提

         である。苦しみに遇(あ)いながら、多少なりとも自分の意志に執着し、自己弁解を残している間は、神の解放は来

         らない。汝の苦難を解くにはまだ早い、と神は言い給う。我々が己を投げ出すまで、神は限り無き憐みの目を上よ

         り注ぎながらも、我々を苦しみの中から引き出し給わない。

                                                       (『全集』第12巻.522頁)

 

           救は神から逃げ出すことによっては得られず、かえって神の審判の中に留ることによって与えられる。我らは神の

         審判を恐れるが、怒り給う神は同時に赦し給う神であることを信じて、神の審判の中に留れば、神は我らの服従を

         よろこび、我らの罪を赦して、意想外なる平安と恩恵を増し加えて下さるのである。

                                                       (『全集』第13巻.577頁)

                                                                       

                                                          [矢内原忠雄 目次]  [ホームページ]


 神の経綸

 

         我らの人生に起り来るすべての事実が悉(ことごと)く我ら自身の意思に基くものではなく、神の意思に基くのである。

         我らの計画によらずして神の計画により、我らの能力によらずして神の能力を以て遂行せられるのである。人は

         自分の主権的立場から人生の意義及び目的を考える時は、いくら考えても解るものでない。人生を神の経綸(けいりん)

              の一部として見る時、始めて確乎(かっこ)たる積極的意義を自己の生涯に見出し得るのである。

                                                       (『全集』第8巻.537頁)

 

         ‥‥‥十字架は「時」の見地より見れば敗北であり恥辱であるけれども、神の経綸の永遠的見地より見れば

         勝利であり栄光である。

           ‥‥‥‥‥‥

         之(これ)と同様に、キリストを信ずる我らが此の世の生涯の「今」という時点に於(お)いて受くる苦難も、之を永遠

         の神の経綸中に置かれたる一節として見る時、苦難即栄光たるを知る。又之を後(のち)(あら)われんとする栄光

         に比すれば、今の時の苦難は、物の数にもあらざるを知る。物事を時間的(此世的)に見ると永遠的(信仰的)に

         見るとでは、かくも大なる差異を生ずるのである。

                                                     (『全集』第9巻.228〜229頁)

 

         神の経綸は人間の歴史を通して行われ、神の意思は人間の意思を通して実現せられる。天に於いて既成の

         事実たる神の国が地に於ける事実として実現する為めには、人間の意思活動を経由する。人間の意思活動

         を経由して神の国が地上に実現せられて往(い)く過程をば歴史と呼ぶのである。

                                                     (『全集』第9巻.396頁)

 

         ‥‥‥我らは現実の問題に頭を突込んだままでは、神の国の経綸上我らの置かれている位置を知ることが

         出来ず、前途の到達点をもまた明かにすることが出来ない。その為(た)め徒(いたず)らに焦燥し、苦慮するのみ

         であって、到底(とうてい)苦難を脱する途を見出し得ないのである。

           ‥‥‥‥‥‥

          我らが地上に於て当面する問題は、天にありては原理的に解決済みの問題である。換言すれば、我らは

         天にありて既に解決済みの問題だけを問題として与えられるのであり、従って我らは信仰に由(よ)りて解決し

         得(う)べき問題だけを問題として有(も)つのである。‥‥‥現実の生涯若しくは歴史の到達点は、神の経綸の

         出発点に於て既に獲得せられて居る。我らはキリストに由りてすでに勝利の獲(え)られた戦闘を戦うのであって、

         決して勝敗不明の戦に従事して居るのではない。この事実の信仰による認識が基督者の戦闘力であり、‥‥‥

                                                     (『全集』第9巻.493頁)

 

         被抑圧者に苦悩がある如(ごと)く、抑圧者にも恐怖がある。而(しか)して圧迫者は自己の恐怖を除こうとして益々

         烈しく圧迫するが、それは決して自己の苦悩と恐怖を解かない。蓋(けだ)し圧迫者も被圧迫者も共に神の御手の

         中にあり、抑圧者の恐怖の原因は、彼の不信仰にあるが故である。彼らは項(うなじ)を強(こわ)くして益々神に逆う

         が、歴史が進行して、時が来れば、神の審判により忽(たちま)ちその権力を崩壊せしめられる。長き眼を以て歴史

         を見るとき、神に逆う権力にして崩されざるはなく、神を信ずる被抑圧者にして救われざるはない。

                                                     (『全集』第9巻.615頁)

 

         ‥‥‥すべての事件に「時」があるのであって、定められたる「時」が来るまではそれが続き、「時」が来れば終る。

         「時」より早く終ることなく、「時」を過ぎて終らないことはない。

          「時」は区切られてある。即ち「時」は有限である。いかに長いように見えても、「時」には必ず終が来るのである。

         而(しか)してすべての「時」は神の司(つかさど)り給(たも)うところである。之(これ)を知る時、我らの心から焦燥は消え失

         せる。悪人の跋扈(ばっこ)は必ず終る時が来る。義人の苦難も必ず終る時が来る。「時」であるから、待てないこと

         はない。

                                                   (『全集』第9巻.664〜665頁)

    

           人の生涯は、神の経綸の中において与えられる位置付けによってのみ意味をもつ。いつまで生きたかという事で

         なく、いつまで神の経綸において主役を与えられたかに、人の生涯の意味はあるのである。

                                                   (『全集』第10巻.658頁)

 

                                                          [矢内原忠雄 目次]  [ホームページ]


  

 

         ‥‥人間には、生活から来る恐怖よりも更に深刻な恐怖がある。それは神の前に立つ畏怖である。‥‥‥

         何故人は神の前に立つことを恐れ、その前から避けようとするか。それは人が神の命令に背いて、罪を犯した

         からである。「罪」こそ人の恐怖心の実体であって、生活上の恐怖はすべて罪の恐怖の結果であり、反映である。

         それ故に罪が赦され、罪の支配から贖(あがな)われ、罪の手中から取り戻されてのみ、人は真実に懼(おそれ)なく

         神の前に立ち、聖と義とをもって神につかえることができるのであり、それに伴って生活上の恐怖もまた解消する

         のである。

                                                        (『全集』第7巻.39頁)

 

         何が故に人は自由の道を示されても、之に向って霊魂を飛躍せしめ得ないか。人の霊魂の自由に向っての飛翔

         を引き止めて居るものは何か。それは「罪」である。人の自由を奪うて居る根本的な力は境遇でもなく、無知でも

         なく、罪である。

                                                        (『全集』第9巻.140頁)

 

                                                          [矢内原忠雄 目次]  [ホームページ]


 十字架

 

         己(おのれ)を棄てる者は己に「さよなら」したものです。生活の目標が自己でなくなって、神の事が目標となった

         者です。かかる歩み方をする者の人生が必然的に十字架を負(お)わされる道であるのは、世間の歩み方が

         丁度(ちょうど)反対に神の事を思わず、人の事を思うからです。実に悲劇的な食(く)い違いです。併(しか)しその

         十字架を自分から求めて背負(せお)え、と言うのではありません。それではやはり「己」です。真実なる人生を

         歩んで居(い)れば、十字架は他人から負わされるのです。ただそれを負わされた時、いやと言わないで負って

         往(い)かねばなりません。

                                                       (『全集』第6巻.136頁)

 

           他人が如何にして自己の罪を負い得るか。他人が苦しむ事によって如何にして自己の罪が赦されるか。

         その如き事を理屈でいくら説明しても、満足の出来る回答は得られないであろう。贖罪又は代贖の理を

         神学的哲学的に論ずることは或る程度までは可能であろうが、それによっては決して衷心の完全なる満

         足を得る事は出来ない。人は論理によらず事実によってのみ納得(なっとく)せしめられる。我等は神の僕の

         苦難が如何なる論理によって我等の罪の赦(ゆるし)となるかを知らない。併し人も我等も共々苦しめ恥しめ

         て恥辱の死を遂げさせた処の彼が、実は神の僕であったという事実を見た時に、苦しんだのは彼である

         が彼の苦難の原因は我らの不義であった事、彼が苦しんだのは我等に代って苦しみ我らを救わんが為

         めに苦しんだのであった事をば直感するのである。

                                                       (『全集』第12巻.493頁)

 

           日本的基督教の樹立する為めには、日本的基督教に特殊なる苦難がなければならない。日本に在りて

         は、基督教徒の十字架の現実性は、教会攻撃からは来らない。舶来のカトリックをプロテスタントが攻撃

         し、又は舶来の教会を無教会が攻撃してもそれによって受くべき十字架は深刻な現実であり得ない。

         日本的基督教には日本的迫害がなければならない。思うに日本思想の精髄は其の国家観念にあるであ

         ろう。ここに日本思想の最美点があるであろう。しかも最美点のある処、最大の罪悪も亦伴うのである。

         日本的基督教は世界に比なきこの国家思想を保存完成すると共に、反動としての国家主義に対し具体

         的に抵抗するものでなければならない。

                                                       (『全集』第18巻.540頁)

 

                                                                       [矢内原忠雄 目次]  [ホームページ]


 信 仰

 

         イエスを救主(すくいぬし)と信ずるに就(つい)て最も必要な根本的条件は、我々の心の誠実です。心の最も深い

         所に於(お)ける真理に対する感受性です。イエスは我々の純なる心を要求し給(たも)う。そしてイエスに対する

         心の誠実さえ失わなければ、我々人間の「凡(すべ)ての罪と、けがす涜(けがし)とは赦(ゆる)される」のです。

                                                     (『全集』第6巻.59頁)

 

         イエスを信ずる者は、密(ひそ)かに信ずるだけでは足(た)りない。真正面(ましょうめん)からイエス様に相対(あいたい)し、

         面(かお)と面(かお)とを合(あわ)せて、自分の事をはっきり申上(もうしあ)げねばなりません。自分の信仰的立場を

         客観的に表明し、公然たる立場に置かねばならない。之(これ)が信仰を確実にする秘訣であります。いつ迄(まで)

         傍観者的心持(こころもち)で居(い)たり、集会でも人から見えない隅(すみっこ)に坐り込んで居る様な態度では、イエスの

         愛を真正面から受けることが出来ない。力を受けても愛を受けなければ、イエスの属(もの)とならない。その力は

         直(す)ぐまた失われてしまうのです。

                                                      (『全集』第6巻.84〜85頁)

 

         信仰は霊的でなければならない。しかし霊的であることと、神秘的であることとは同じではない。

          ‥‥‥‥‥

         真実な霊的信仰は、堅固な事実と常識ある道徳性によって裏付けされる。これに反し神がかり的な神秘的信仰は、

         事実を無視し、道徳をふみにじる。‥‥‥‥

         信仰というのは、イエス・キリストを信じて罪を赦(ゆる)され、心に平安と自由を与えられ、かつキリストにありて復活を

         信じ、死を越えての希望を与えられることである。その効果として人を愛する道徳性をきよめられ、真理を愛する知識

         性を啓発される。それ以外に人を驚かせるような不思議な業(わざ)や、神秘的経験を必要としないのである。

                                                       (『全集』第6巻.737〜738頁)

 

         行為を通じ、生活を通じて外に現われぬような信仰は、その活力を失うて、ついには消えてしまう。これに反し、

         キリストに在ることを認められ、そのことによって生活の喜悦とたたかいとを経験する者は、絶えず聖霊の油を

         増し注がれて信仰を強くされる。生きて働く信仰は百倍の実を結び、千倍の光を放つが、生活の実践を通して

         働かない信仰は立ち枯れとなり、立ち消えとなる。

                                                       (『全集』第7巻.249頁)

 

         我らは一度はイエスとまともから面をあわせる正しい位置に、我らを置かねばならない。イエスと我ら各自との

         関係を公然たるものとなし、イエスに対し、また社会に対し、おのれの信仰の理由と、信仰によって救われた

         事実とを告白しなければならない。それが救われた者の義務であり、また我らの救いを永続的ならしめる条件

         でもある。

                                                       (『全集』第7巻.278頁)

 

         ‥‥子の不良の故に母が神によりたのみ、神の言を聴いてこれを守る信仰の人となるならば、母は真の幸福

         をもつことができるのである。母は子の故に謙遜であることができる。母は子の故に神に祈ることができる。

         母は子の故に天国の希望をもつことができる。いつの日か、この子もまた神につれ返されるであろう。母が

         キリストによりたのんでいるかぎり、この子も母の祈の故にキリストに結ばれているだろう。

                                                       (『全集』第7巻.375頁)

 

         我らは自己の信仰の薄きこと、愛の乏しきことを嘆く。そしてそれが強くなり、大きくなることを願い求める。

         あたかも自分の信仰がもっと強くなれば、自分がもっと大事を成し得るかのごとく思い、或いは大事を成し

         てやろうというごとき考をもつ。かくして「信仰を増したまえ」という祈には、自分ではそれが非常に信仰的

         であると思いながら、自己のたかぶりとむさぼりが混入するおそれがあるのである。

          我らの信仰はからし種一粒ほどに微小である。それが当り前であり、またそれでよいのである。柿の種

         や、雀の卵ほどの大きさを必要としないのである。ただ自分が徹底的に無価値であることを知り、全く神

         によりたのみ、神の御面の美しさに見とれているならば、自己の良心の苦闘を経ないでも、いつの間にか

         自然に兄弟の罪を赦すことができる。

                                                    (『全集』第7巻.527〜528頁)

 

         自分が善意でなした信仰上の行為が、自分の思慮の不足もしくは信仰の不明のためもしも間違いをなし

         たらば、という恐怖心に基づいて消極的・退嬰的態度に出でる者は、信仰の本質を全然誤解しているの

         である。「人の義と認められるのは律法の行為によらず、信仰に由る」という原理を了解する者は、神に

         最も喜ばれることは我々が間違いをしないということではなく、間違いをしても神に依りたのむ信仰である

         ことを知るはずである。

                                                    (『全集』第7巻.590頁)

 

         キリストの十字架を信ずるだけでは物足りない。何かプラスXが必要であるというのは、信仰が一通りわかり

         かけた時に来る誘惑であって、且つ信仰堕落の始めであります。之によって芽生えの信仰は早くも溌剌たる

         生命を失って、形式化し、枯れてしまう。

                                                    (『全集』8巻.438頁)

 

            神に対する信仰は絶対的であるを要する。‥‥‥

           ‥‥‥‥‥

          神とマモンとに兼(か)ね仕(つか)うるは、信仰に似て信仰でない。それは信仰の外観を示すだけ、一層大な

          る不信仰である。同様に、神の言を人間的標準に引き下げて解釈する事も亦(また)、似而(にて)(ひ)なる

          偽善的信仰である。神の言は如何(いか)に人間的には理解に困難であり、実行に容易でなくても、無条件に

          絶対に之(これ)に服従する事が神の喜び給(たも)う信仰であり、この信仰的態度に出(い)づる時、之が理解

          と実行とに必要なる智慧と能力とは神自(みづか)ら之を人に賜うのである。

                                                    (『全集』第10巻.470〜471頁)

 

            ‥‥‥日本の如(ごと)く興隆しつつある民族、発展しつつある国家の国民が、信仰をば単に個人的に解す

          るのみならば、頭では「我等の国は天にあり」と言い乍(なが)ら、現実の生活に於(お)いては、国事に無関心

          なることによって意識的無意識的に国家社会の現状を肯定し、国家発展の為(た)めの凡(すべ)ての行動を

          是認し、世の繁栄に均霑(きんてん)して怪(あやし)まず、かくてその信仰として表白する処(ところ)と現実の生活と

          の間に矛盾を生じ、終(つい)にその信仰は此世の捕虜となる危険に陥るのである。

                                                    (『全集』第12巻.499頁)

 

            〔ヨブ記42・5について〕 之(これ)がヨブの疑問を解消した。疑問の内容を解いたというよりも、寧(むし)ろ疑問の心を

          融(と)かしたことによって、彼の疑問を解決したのである。

          〔同42・6について〕 神はヨブの苦難の原因を説明し給(たま)わず、又(また)神の審判が義(ただ)しきことを積極的に

          説明し給わなかった。即(すなわ)ちヨブの抱(いだ)きたる疑問に対して、直接の答を与え給わなかった。しかもヨブが

          かく満足したのは彼が神についての直接的な知識を啓示せられたからである。彼は前よりも深く広く神を知った。

          神について深く知れば、その他の問題は問題でなくなる。即ち問題に解決が与えられたのでなく、問題そのものが

          解消したのである。この解決ならざる解決が真の力ある活(い)きた解決であって、人生の推進力たり得(う)るものである。

          それは哲学的解決ではなくして宗教的解決であり、頭脳による解決ではなくして生活による解決であり、知的解決

          でなくして信仰的解決であった。・・・・・

                                                    (『全集』第13巻.300頁)

 

            人生の苦しみにあって「死んだ方がましだ」と嘆くのは、たしかに弱気ではあるが、必ずしも不信仰とはいえ

          ない。これを不信仰だとしてきめつけるのは、自ら人生の苦しみを味ったことのない者の公式主義である。

          死を望むほどの苦しみになやむ身をそのまま創造主である神の御膝に投げかけて、訴え、ゆさぶり、泣き

          じゃくり、わめき立てよ。ただ神から離れさえしなければ、神はついに御顔を現し給うて、涙にくもる眼も晴れ、

          人生のよろこびに満ち足ることができるであろう。

                                                    (『全集』第13巻.383頁)

 

            誠に人の神に対する態度は、絶対服従か不服従かいづれかの外にはない。己が理智により理解し得た限り

          に於いて神の意思に従い、理解し得ざる点は己の意思に従って歩むというのでは、信仰ではない。部分的信

          仰というものは有り得ないのである。解っても解らなくても、神に対しては絶対服従。之が信仰である。

                                                    (『全集』第13巻.476〜477頁)

 

            信仰は歴史の終局を現在とし、事物の本体を現実とする力であり、この洞察力によりて人は理想、換言すれば

          神の聖意思に於ける既定の計画と経綸を知り得る。即ち信仰によりて神を知るのである。‥‥‥

           信仰は空想ではない、想像ではない、それは理想の現実的認識である。従って信仰は人の世界観人生観の

          現実の基礎を為すものである。‥‥‥‥希望の確実性の根拠は何処にあるか。それは神に於て既に実現して

          居るからである。かくの如く将来の成就を現在化して希望を確信たらしむる力、之が信仰である。

                                                     (『全集』第15巻.96〜97頁)

 

             日本人が人間らしい人間になり、日本国が国らしい国となるためには、宗教の選択が必要であります。‥‥

            第一は、逃避的宗教でなく、戦闘的宗教であることが必要であります。山の中へ逃げこんで世を避けるので

           はなく、世に居りながら世のものでなく、世と戦うという信仰であることが必要です。

            第二は、儀式的宗教でなく、道徳的宗教たるを要します。‥‥‥即ち信仰は儀式的でなく、実践的であること

           を要します。

            第三に、物質的利益を主とする宗教でなく、霊的生命を第一義とする宗教でなければなりません。‥‥‥

            第四に、理性の働きをにぶらせる宗教でなく、却(かえ)って理性の働きを活溌にし、独創的な精神をよび起す

           宗教であることが必要であります。

                                                     (『全集』第15巻.214頁)

 

              ‥‥‥私どもが神の前に立つのは、結局、自分一人で立つのであります。自分一人が裸になって神の前に

           立つのです。‥‥‥従って救いも一人の救いであります。‥‥‥そして神の救いは一人の人に向って注がれ

           るのであって、神様は一人ずつを完全にお救いになる。‥‥‥その信仰を私どもがもった時に、私どもは魂の

           自由を与えられるのであります。そうすれば世の中に恐ろしいものはなくなる。

                                                     (『全集』第15巻.267〜268頁)

 

             死に徹底しないと、生が起って来ない。死に徹底しなければ、人生の希望はない。人生の虚無に徹底しなけれ

           ば、永遠の希望は開かれない。その徹底という事が基督教の教の生命です。基督教には決してごまかしとか、

           いい加減という事はないのです。

                                                     (『全集』第16巻.306頁)

                                                                     [矢内原忠雄 目次]  [ホームページ]


 聖 霊

 

         憂いに閉ざされる時、疑いに悩む時、御霊(みたま)はいづくよりともなく我が心に臨(のぞ)みて静かに真理を

         悟(さと)らしめ給(たも)う。之は我が主観の声ではなく、我が主観が客観化せられたものでもない。我とは別箇

         の人格たる「彼」の御声(みこえ)である。而(しか)して御声は己(おのれ)より語り給うのではなく、すべて神より聞き

         たるところを語り給うのである。

                                                        (『全集』第9巻.297頁)

 

           人は不眠の夜、自分の罪や、自分の小さいことや、自分の過去の失敗と前途の不安のことや、要するに自分、

         自分と、自分のことを思い出して、後悔と不安を自分の上に積み重ね、自分で自分をかみくだく。かかる時に

         あたり、突如として聖霊が自分の思いの方向を転じて、自分の事でなく、神の事を考えさせる。自分の小さい

         事をでなく、神の大なる事を考えさせる。それによって自分の弱きことでなく、神の強きことが自分の思考の

         対象となる時、自分の小さいことは問題にならず、ひたすら神の大なる御業に見とれるのである。

                                                        (『全集』第11巻.468頁)

                                                                       [矢内原忠雄 目次]  [ホームページ]


 信仰生活

 

         この世に於(お)ける基督者(きりすとしゃ)の存在意義は、号令をかけて、一世を左右する如(ごと)き性質のものでは

         ない。彼の地位は地の塩、世の光たるにある。而(しか)して彼が信仰の純粋を保って生活するとき、彼は意識せ

         ずしてこの重大なる役割を果(はた)し、神の国の実現に貢献しているのである。

                                                        (『全集』第6巻.355頁)

 

         信仰生活はある意味において冒険である。我らは我らの生涯において、しばしば神につくか世につくかの決断を

         下さなければならない。正しい道を歩むためには、この世の利益と便宜を失い、或(ある)いはこの世から嘲(あざけ)

         と迫害をさえ覚悟しなければならない。こういう場合に、我らは目をつぶって高い処(ところ)から飛び下りる。信仰生活

         に度々冒険があり、跳躍があるのである。

                                                        (『全集』第7巻.111頁)

 

         我らが苦難に陥った時、神に対する信頼が動揺して、神の言によって生きるという信仰的立場を一歩でも譲るならば、

         それによって悪魔は我らの中に処を得るのである。‥‥‥‥

         更に我らが神について思索し、聖書の言を引いてまで信仰問題について研究する際においてすら、悪魔は神に対する

         我らの絶対的信頼の態度を動揺させようと試みる。

                                                        (『全集』第7巻.116頁)

 

         愛敵の教訓は、机の上で考えてもよくはわからない。それは信仰の故に人から憎まれ、責められ、悪口を言われた者

         だけが、本当にわかることのできる教訓である。私は人に頬を打たれたことはない。しかしもし信仰の故に責められて

         右の頬を打たれたとすれば、私はきっと柔和に左の頬をも向けることができると思う(そうでありたいと思う)。

                                                        (『全集』第7巻.203頁)

 

         神を信ずる者の生活は、神の置き給(たも)うた標準(めあて)に向って走る生活である。然(しか)らば我らの如(ごと)く足の

         弱き者は、途中で落伍(らくご)する危険がないであろうか。否、キリストがわが手をしっかりと取って、一緒に走って下さ

         るんだから、必ず目的に到達し、栄えの冠を獲得し得る確信がある。この競走は一著(ちゃく)二著を争う優勝競走では

         ない。よしや走力はのろく、時間がかかっても、目的地に到達しさえすれば、悉(ことごと)く勝利の栄冠を与えられるので

         ある。自力に恃(たの)んで走る者よりも、キリストに支えられて走る跛(は)者の方が、案外早く目的地に達しているかも

         知れない。

                                                        (『全集』第8巻.619頁)

 

         私たちの志は神様が立てて下さる。それを成し就(と)げる方法も亦(また)神様が定め給うところである。私共が考えた

         通りの形では実現しないかも知れないが、神に導かれて忠実に人生の馳場(はせば)を走り、後になって見るならば、

         自分の予想しなかった形で、しかも予想以上に志の成就せしめられたことを知るであろう。

                                                        (『全集』第8巻.626頁)

 

           大なる困難を攻め落そうとする時、我らは直接これにいどみかかってはならない。我らはエホバの櫃(ひつ)を奉じ、

         隊伍(たいご)をととのえ、信仰によって、その周囲を何回もくりかえして、根気よく、忍耐ぶかく、静かに廻っておれ

         ばよい。それによって敵の戦意は次第に衰え、終に時が満ちて、エリコの石垣は一挙に崩壊するのである。

                                                        (『全集』第10巻.299頁)

 

           ‥‥‥八方塞(ふさ)がりの窮境に立っても、信仰によって静かにして居れば、我らはそこに逃るべき細い道の開か

         れて居ることを発見する。境遇に捕われて之に執着し、若しくはあわて騒ぐが故に、神がそこに開き給うて居る道

         をも気付くことが出来ないのである。神は我らにいかなる苦難を与え給うても、必ずそれに添えて逃るべき道を備

         えて居られる。絶体絶命の窮地なるものは、信仰ある者にとりては存在しないのである。

                                                        (『全集』第10巻.523頁)

 

           我らの生涯に失敗が多くある。我らの生涯は失敗の生涯であり、敗北の生涯である。失敗は悲しむべく、敗北は

         いたましい。併(しか)しそれを苦にする必要はないのである。失敗は悲しむべきことだが、決して致命的なことでは

         ない。致命的なものは罪である。キリストによりて罪を赦(ゆる)された者は、失敗の度毎(たびごと)、敗北の度毎に、

         ますますキリストに依(よ)り頼みて、その十字架に身をなげかける。かくして永遠の生命を新にせられ、希望より希

         望にと進むことが出来るのである。

                                                        (『全集』第10巻.576頁)

 

           私も亦(また)いくたび泣きつつ睦坂を上ったことであろう。

          日が暮れてすでに暗くなった後、私は疲れ切った身体に悲しめる心をつつんで、睦坂を上って来た。坂の中ほど

         の十字路まで来て息が切れ、そこで立ちどまって星を仰ぐ。それから私の家まで僅か五十メートルの間を一気に

         上ることが出来ず、富士山をでも登るかのようにヂグザグに、幾度も立ちどまりながら泣きつつ登った。その涙が

         私を神に親しませた。『通信』五年、『嘉信』十年の多くの頁は、この涙をインキとして書き綴られたのであった。

                                                        (『全集』第10巻.593頁)

 

           人は何故堂々と人生を歩まないのか。何故湿地に生えた藻のような、ジメジメした低調の生活を為すか。それは

         神の法の根本原則を、信仰によって大胆率直に把握しないからである。

          真理は簡単である。真理を簡単に生きよ。そこに人生の力と美とがある。枝葉末節に捕われて右顧左眄(うこさべん)

         するは、頭脳がよさそうに見えて実は愚者である。良心的に見えて実は不信仰である。少しく読みて大きく考えよ。

         少しく考えて深く信ぜよ。之が神経衰弱的疑惑より汝を救う秘訣である。

                                                        (『全集』第11巻.17頁)

 

         多くの人は自己の人生に不満であって之(これ)を果敢(はか)なむけれども、神を認めない。よし神を認めても之をよい

         加減にあしらって、衷心(ちゅうしん)の畏(おそ)れを以(もつ)て神を仰がない。だからその人生観が極めて不徹底に終り、

         結局希望なくして墓に下り、露の如く消え失せるだけなのだ。

                                                        (『全集』第11巻.177頁)

 

           我らは苦しみの中に悶え、訴うる時、我自身の苦しみから視線を転じて、イエスの十字架を見る。己自身の主観的

         な苦痛感から思いを転じて、神の救の歴史的・客観的御業を思いめぐらす。己の吐いた思いを己が反芻することを

         止めて、聖書の御言を考える。要するに、己自身から神へと視線を転換する。この転換が、苦しむ者に息をつかせ、

         心に余裕と平安を与え、救の生地をつくるのである。

                                                        (『全集』第11巻.366頁)

 

           われは泣くが、泣き言はいわない。流浪するが、この世から姿を消そうとは願わない。神に依りたのむ者のこの世

         に生きる態度はいかなる場合にも積極的であって、希望的である。いかに涙多き人生であればとて、そのため気が

         滅入って消極的になってはいけない。それは神を知らざる者のことである。神に依りたのむ者は、いかなる場合にも

         希望を以て力強く生きて行くことが出来る。

                                                        (『全集』第11巻.420〜421頁)

 

           苦難の中にとじ込められた者に必要なのは、「静か」であることである。静かにして祈ることである。祈って神の救い

         を待つことである。いけないのは、騒ぎあわてることである。自分の力でもがくことである。神によりたのまないことで

         ある。神の翼の下に身をひそめて居れば、多くの場合苦難はむこうの方から退いて行く。そうでなくても、苦難の中

         から脱出する細い道がはっきり見えてくる。騒ぎあわてるのが一番いけないのである。

                                                        (『全集』第11巻.425頁)

 

           静かなる信頼というのは、必ずしも時間の長短を問わない。否、それは時間的観念ではなくして、心の態度である。

         我々の遭遇する困難の種類・性質によって、或る場合は五年も十年も、否一生涯の間静かなる信頼の中に過す

         必要あるものがあり、又場合によっては一秒間の何分の一という短い時間を以て応急の処置を取る必要ある事柄

         がある。併し静かなる信頼の態度が心になければ、慌ててしまって、適切なる火急の処置さえ取れぬではないか。

         困難に遭遇した時は、如何に短くとも先づ祈らねばならない。たといそれが電光の如き速さであっても、必ず神に

         対する静かなる信頼がすべてに先立ちてあり、且つすべての根底になければならない。祈りによって始めざる対策

         は必ず失敗である。

                                                        (『全集』第12巻.414頁)

 

           人生は苦難に満ち不如意の事が多い。之等の困難を除き去って花園の如き現世を楽しもうとするのは少年の

         空想に過ぎない。少しく人生を歩んだ者に取っては、それが荒野であり沙漠であり、何一つとして真に心を喜ば

         せ、望みを有たすに足るもの無きを知るであろう。併しこの人生の荒野の中に信仰の大道の通ずるありて、凹

         凸は平坦にせられ、曲りくねりたる所は真直ぐにせられる。我らはこの荒野の中をば大手をふってずっと通り

         抜け、天なる故郷、聖き都エルサレムに帰還するを得るのである。

                                                        (『全集』第12巻.457頁)

 

           今から二十年も前に、私は或る問題を非常に苦しみ悩んだ事がある。そして浅間山麓の離山を、泣きながら

         何度上ったり下りたりしたか解らない。自分の涙で以て離山が解けてしまうかと思うぐらいであった。そうして

         いる中に突然「なぐさめよ汝らわが民をなぐさめよ、その服役の期すでに終り、その咎(とが)既に赦されたり」、

         という第二イザヤの始めの言葉が私の心にささやかれた。どうして赦されたのか、どうして終ったのか解らない。

         けれどもそれは「どうして」ということを問い返すことの出来ない圧倒的な天からの慰めの言葉として、私を占領

         してしまった。それで私は涙を拭って山から降りた事がある。

                                                        (『全集』第12巻.518頁)

                                                           

           我らは地の現実の中に生きるが、併し我らを真に生かすもの――我らに生命あらしめ、希望と歓喜と平安と

         あらしむるものは、天の現実である。天の現実が地に宿れるものを、理想と呼ぶ。我らは地上の生活態度を

         ば、天の現実に立脚して定める。かくしてのみ我らは暗黒の境遇をも、光明を以て生活するを得るのだ。天

         的の光を浴びて、始めて我らの心は喜にときめき且つ広闊(こうかつ)となるのだ。

                                                         (『全集』第12巻.626頁)

 

           悲しみの無い人生は、晴天続きの都会の様に、乾燥し過ぎて埃(ほこり)が立つ。悲しみは人生のうるおい

         です。悲しみに潤(うるお)されて、人は永遠を思います。悲しみは永遠の窓であります。悲しみから見た人生

         に永遠の薫(かおり)があります。此の世にこびり着いて離れ難き人の目を、神に向い永遠に向って開くものは

         悲しみであります。悲しみの無い人は俗人であると言って憚(はばか)りません。若し人の人たる事が永遠を慕い、

         永遠の生命を得る事にありとすれば、悲しみは人生の祝福であります。

                                                         (『全集』第14巻.326頁)

 

           ‥‥‥思想上の煩悶は、思想的に考えて解けるものではない。それは私共の日常生活の実践に於いて

         解かれるのです。論理的に解けるわけではないけれども、日常生活の実践を励んでおれば、思想上の

         煩悶はおのづから解けてくるのである。そして神は人間を訓練したもう時、哲学的もしくは神学的思索

         よりも、むしろ生活の実践、生活上の手近かな義務ということを重んぜられる。之は聖書の教が思弁的・

         抽象的な哲学論でなく、人生の事実に即した真理であるからであります。

          それならば思想上の煩悶はいつ解決せられるかと言いますと、いつとはなしに、時が来て解決せられる。

         信仰生活の歩みを確実に歩み、色々の形の偶像礼拝と戦いつつ信仰の純粋を守る日常生活の戦を戦って

         往けば、思想上の疑問は自然に解ける。之は神の深い智慧のようです。

                                                        (『全集』第16巻.415〜416頁)

 

           此の世に於ける基督者の地位は捕囚である。非基督教国に於ける基督信者の地位は特に然りである。

         中にも、非基督教的勢力の支配下にある官庁、会社、学校等に奉職せざるを得ざる多くの基督者青年、

         又非基督教的家庭に入らざるを得ざる基督者婦人の如きは、性質上捕囚である。

                                                        (『全集』第17巻.95頁)

 

           心が屈して判断に迷い、どうしてよいかわからぬ時は、だまって神に面するのがよい。いかに自分の心

         を治めようと思い、自分の考を立て直し、自分で正しい判断をしようとあせっても、あせればあせるほど

         心は乱れて苦しむのみである。そういう時には、自分を見つめることを止めて、神に見とれることがよい。

         心を自分から離して、神の美しさ、神の偉大さに見とれて居れば、聖霊はいつの間にかわが心をととの

         えて、われに平安と喜悦をかえし、正しき道を示し給う。

                                                        (『全集』第17巻.481頁)

 

           私共が信仰問題で実際生活上の問題を割って見るとなかなか割り切れない。之はまだ不徹底だといっ

         て、何時迄もその問題に取りかかっていても、一生かかっても割り切れない。遂には神経衰弱にかかっ

         て他の事は何にも出来ないですんでしまう。他の計算は何にもしないで一生を終ってしまう。之は信仰で

         実際を割る者の本当の態度ではない。信仰に徹底するとは文字通り信仰に徹底することです。割り切れ

         なくとも信ずることです。此の世の問題は信仰によって割り切る事の出来ないものがある。信仰で割ると

         きに、割り切れないのがこの世の姿です。

                                                         (『全集』第22巻.107頁)

                                                                       [矢内原忠雄 目次]  [ホームページ]

 


 悲 哀

 

         猿がらっきょうの皮をむくように、『自分』というものの皮を一枚づつ剥がして行けば、最後に残るものは

         何であろうか。

          ‥‥‥‥

         外側の境遇はもとより、我が身の中に属するものさえ、何一つとして、永遠に存(たも)つものはないので

         ある。之を思うて、無限の悲哀が我が霊魂を襲わざるを得ない。裸にせられた我に残る最後のものは

         悲哀のみである。この悲哀は神と我との間に存する無限の距離の意識である。

          ‥‥‥‥

         悲哀中の悲哀は、我らの方向が神を背にして、逆の方向に向いて居ることである。神いまし給うに拘らず

         神を知らず、頼むに足らざる己が力と智慧とを頼みとして、自己本位の生活を為さんとするところの背叛

         である。それが『罪』というものである。罪の故にこそ、我らの無力と不安と悲哀は、その極まるところを

         知らないのである。

                                                    (『全集』第17巻.178〜179頁)

 

                                                                      [矢内原忠雄 目次]  [ホームページ]

 


 一人で立つ

 

         人生の最も大事な時には、誰のたましいでもただ一人になって、神にだけよりすがる。どんなに温い家庭

         があっても、どんなに親しい友人があっても、誰もはいってくることのできない私の心の至聖所がある。私

         はそこで神とだけ交り、神からだけ力を受ける。こうして神だけが私とともにいて下さるとき、私は一人で

         いかなる酒ぶねを踏むこともでき、いかなる十字架を負うこともできる。否、何人も私の酒ぶねを共に踏む

         ことはできず、私の十字架を共に負うことはできない。それは私一人でしなければならぬ事である。

          本当に孤独であるとき、人は本当に強くなる。それは、本当に純粋に神にだけよりたのむからである。

                                                     (『全集』第17巻.641頁)

 

             十一月二十七日(注:1938年)御茶水聖書講義で、「我はひとりにて酒搾(さかぶね)をふめり」(イザヤ六三の三)

           という条を講義した。それはかなり激烈な講義であったが、その後で一の声が私に臨んだ。曰く、「汝もひとり

         にて酒搾をふめ」と。如何なる仕事を為すべきか、ではない。如何なる生活態度を以て生くべきかである。

         仕事は何でもよい。手近にあるものを為せばよい。しかし私の生き方は狭き途をひとりにて歩むものでなけれ

         ばならない。この事を示された時、透き徹った清水のようなものが私のたましいを流れた。そして私は安らかに、

         又明るくあった。

                                                     (『全集』第25巻.620〜621頁)

 

                                                                      [矢内原忠雄 目次]  [ホームページ]

                           

      
               
               
            
                  
             
                                                                        

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