江原萬里

目 次

          [ 祈り ]  [ イエス ]  [ 信仰 ]  [ 自由・独立 ]  [ 十字架 ]  [ 神の国 ]  [ 希望 ]  

          [ 無教会主義不唱説 ]

          [ 略歴 ]  [ 主要信仰著書 ]  [ 参考文献 ]  [ 記念講演会 ]

                                                  〔注〕『全集』‥‥『江原萬里全集』 発行所 岩波書店

 

                                                                                    [ホームページ]


 祈 り

 

           祈りとは霊魂の呼吸である。我らが空気を呼吸して生くる如(ごと)く、我らの霊魂はキリストの中に

           在(あ)りて、神の御霊(みたま)を呼吸して生(い)く。我らの凡(すべ)ての生活、凡ての思想、その悲喜

           憂楽の一つとして神と無関係のものはない。されば我らの心中に在る想(おもい)は悉(ことごと)く之(これ)

                 を神に告げ、欲することは悉く之を神に祈り求め、嬉しきことは悉く之を神に感謝すべきである。

           これが信者の生活の根本である。今の信者に欠乏せるものにして祈らんとする心の如きはない。

             ‥‥‥‥‥‥

           今の信者に大なる力なく、大なる歓喜平安のないのは祈が足りないからである。‥‥‥

           されば朝起きるより夜寝るまで絶えず祈るべし。道行くときも、人と語る時も、働くときも、心は常に

           祈りにより神と交わるべきである。

             ‥‥‥‥‥‥

           我らの欲し求むるものは悉く既にキリストと云(い)う宝蔵の内に在り、神は之を我らに賜わったのである。

           我らが祈らざる以前に既にキリストも内に聴かれて居(い)るのである。只(ただ)現実に自分のものとする

           には時を要するまでである。祈はこの実現を待つ心より出る。早晩実現の確実なることを信じてこそ、

           始めて熱心に祈れるのである。

                                               (『全集』第2巻.79〜80頁)

 

           我らは祈りて神に聴かれざることは一つもない。何となれば真にキリストを信ずる者は既に聴かれたる

           祈を祈りつつあるからである。

                                                (『全集』第3巻.11頁)

 

           私は神に祈るときいつでも神を私の眼前に見奉(たてまつ)ることは出来ない。その御姿(みすがた)に触れる

           事は絶対にない。併(しか)し乍(なが)らいつでも私は私の救主、私の神に対する罪のために死して甦(よみがえ)

                 り給(たま)える活(い)けるキリストの御姿を仰(あお)ぎ見る。彼と語り、彼の愛のうちに生き、彼に我が全生命を

           託し得る。彼の愛を思えば思う程(ほど)私の心は燃えて来る。精神は高められる。永遠の希望が輝き出る。

           私は確に神に義とせられ、私の祈りは神に聴かれたことを確信する。

                                                (『全集』第3巻.21頁)

 

           我が祈は、心の中に言い難(がたい)い悩を以(もっ)て神を求めつつある人々の上に聖霊が降下し、暗黒に

           光明を、死に生命を、無智に智慧を与え、人をして言い知れぬ平安を湛(たた)えしめ、歓喜と感謝に満たしめ、

           愛に溢(あふ)れしめ、かくて不治の病に呻吟(しんぎん)する者は周囲の陰鬱(いんうつ)を払って病床をして花園

           たらしめ、生活の不安に悩んで絶望せる者は再起の力を得て、奮然(ふんぜん)新らしき道を開拓し、人皆

           己(おのれ)が利益と享楽と権勢とのために汲々(きゅうきゅう)たることをやめ、隣人を愛し、社会のために働く者と

           ならんことである。

                                                (『全集』第3巻.45頁)

 

                                                                       [江原萬里 目次]  [ホームページ]


 イエス

              

             然(しか)り、我等も亦(また)(あま)りに史的イエスの詮索に心を労し、今復活して天に在(いま)す、生ける

            キリストを仰ぐことを忘れてはならない。彼は一度此の地上に生き、又死し給うたが、死して甦(よみがえ)り、

            今は聖霊を以て我等の霊に臨み給いつゝある。‥‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

              されば基督教の真理なることの確証はこれを単に史的イエスに求むべきではない。況(いわ)んやこれ

            を比較宗教に求むべきではない。聖書に応じて我らの罪のために死し、また葬られ三日めに甦り、ケパ

            に現われ後十二の弟子に現われ、次に五百人以上の兄弟に同時にあらわれ、次にヤコブに現われ、

            次にすべての使徒に現われ、パウロに現われ給える生けるキリストこそ其の権威である。

              此のキリストが聖霊を以て我等の心に臨み給う時、我等の生涯がこゝに一転機を画するのである。

             こゝに動かすべからざる真理に対する確信が生ずる。それはイエスと其の教が我等の思想の一部分

             となるのではない。生けるキリストが我が思想と生活の中心となり給い、此の中心を繞(めぐ)つて新な

             る思想系統が生じ、生活の目的が確定し、新生涯が始まるのである。

                                                (『全集』第1巻.60頁)

 

                                                                       [江原萬里 目次]  [ホームページ]

 


 信 仰

                然(しか)らば信仰とは如何(いか)なるものであるか。それは如何なる人も有(も)ち得る、人類の

            普遍的能力の一つであって、至って簡単明瞭なるものである。例えば、放蕩息子が父より勘当

            せられて諸国に漂浪、困憊(こんぱい)せる時、ある人が父よりの嘉信を齎(もた)らし、その勘当の

            赦されたるを告ぐるや、彼は欣然(きんぜん)としてその赦(ゆるし)を信受する如く、神の福音が宣伝

            えられて、『なんぢの心中奥深く存する神に対する反逆、それある故になんぢの心暗くなりて聖

            なる神を見ることを得ず、霊的生命を失い、己が身に禍(わざわい)に禍を加えつゝ、自ら脱すること

            能(あた)わざる其の罪を、神はイエス・キリストのなんぢの罪の為に死せる、その死によりて赦し

            給えり』と云うを聴き、喜んで其(その)赦を信じ、『有り難う御座いました』と言いて之を受くること、

            これが信仰である。‥‥‥‥

               ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

              かゝる信仰が福音の知識其の物でないことは、此教義を詳知せる学者は悉(ことごと)く之を信じ

            て居るものでないことを見ても明かである。此信仰は正しく清き心を云うものでない。何となれば

            己の心の醜悪を知れるもののみ之を有ち得るからである。此等の者は此信仰により神に義とせ

            られ、神と霊的交通の途が開かるゝに及び、聖霊が降りて霊に満されるのである。未だ霊に満さ

            れずとも信仰は信仰である。只(ただ)罪の赦を信ずればそれで信仰であり、此信仰が義とせらるゝ

            のである。

             此故に義とせらるゝ信仰其の物は謙虚であって、何の内容もない。これは神の福音を容るゝ容器

            に過ぎない。容器は如何に形醜くくも、漏りさえしなければ用は足りるのである。‥‥‥‥

               ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

             されば信仰を有つことは霊的生命を有つことと密接なる関係はあるも、二者同一ではない。信仰

            あって神に義とせられ、義とせられて神と霊的交通が開け、霊的交通が開けて霊的生命が我が内

            に成長するのである。神が信仰により義とし給うと云うことは、此霊的生命の我内に存するが為め

            に我れを義人と認め給うと云うことではない。義人とせられて後、之にふさわしき霊的生命が与え

            られるのである。‥‥‥‥‥義とせらるゝの信仰と霊的生命との区別は甚だ重要である。

                                                 (『全集』第2巻.24〜26頁)

 

                 一、我等は何者にもたよらない(無教会主義)。

              二、我等は自己にも倚らず、唯キリストにたよる(純福音主義)。

              三、我等はキリストが我等を愛し給うように何人をも、然り敵をも愛せんとする(聖一体主義)。

                                                   (『全集』第3巻.8頁)

 

                 何人と雖(いえど)も一切を挙げて身も魂も悉(ことごと)く神に委(まか)せようと努力し精進する時、信仰

             生活程困難な生活はない。到底それは不可能である。何となれば人は自分で自分を神に委せる

             事は出来ないからである。此の『自分で自分を』がある間は決して全部神のみに生くる事は出来な

             い。之自己を神の前に義としようとする事であって、不可能である。

               ‥‥‥‥‥‥‥一度自分を見ず、こんな自分をすら愛し給う神を見上げる時真に安心がある。

             感謝がある。それが真の信仰である。前のは信仰に似て信仰ではない。律法的行為の一種である。

                                                   (『全集』第3巻.20頁)

 

                 信仰とは唯単に神を信ずることではない。其の心に神を思い浮べたり、正義は世を支配すとか

             愛は最後の勝利者であると確信することでもない。

              神に義とせられる信仰とは『キリスト・イエスを信ずる』信仰である。死より甦(よみがえ)り今活(い)

             るキリスト、聖霊をもて信ずる者の霊に宿り、教え、導き、慰め励まし給う彼其の者を絶対に信頼

             することである。

              それ故信仰とは過去の人物を信ずることでない。又過去の歴史的事実を真なりとする確信と異

             なる。イエスの処女降誕、其の伝道と教訓、其の十字架の死と復活等の史的事実を真実なりと信

             じたりとて、それで神に義とされない。‥‥‥‥‥‥

              凡(すべ)ての人間的努力が信仰でないように、凡ての人間的確信も亦(また)信仰ではない。我等は

             之に由(よ)って救われない。唯昨日も今日も永遠にまで活き給う我等の義の完成者、随って愛の極

             なるキリストが我等を救い給うのである。そして我等は唯彼の救に安んじて只管(ひたすら)彼に信頼

             すること、此の信頼が信仰である。

                                                   (『全集』第3巻.22〜23頁)

 

                 神に義しとせられる途は只キリストを信ずる信仰のみ、此の外に何物をも不必要であると主張

             する者がある。否、只信仰と云うだけではいけない、誠実なる信仰でなければならないと主張する

             者がある。二者何れが正しいであろうか。

              ‥‥‥‥‥私が神から義人として認められて居ると確信する所以(ゆえん)は、私が只単にキリス

             トを信じて居るからである。私が純真であるかどうか、私のキリストに対する信仰が誠実であるか

             どうか、そんな事はどうでもよい。否、私が純真でなく、「誠実なる信仰」を有ち得ないから、キリスト

             に信頼するのである。而(しか)して此の信仰に由って、明に私は神の義人たる確信を有するのである。

                                                   (『全集』第3巻.39頁)

 

                                                                        [江原萬里 目次]   [ホームページ]

 


 自由・独立

           信仰の自由とは何人も自己の良心に従って神を信ずることの自由を言い、各人の独立とは直接神に

           絶対の信頼服従をなすためには信仰上如何なる制度、如何なる組織、如何なる権威にも依属しない

           ことを意味する。我等は自己の良心に倚(よ)らず、只他人の説に盲従して神を信ぜず、自ら以て真理

           なりと確信するところに拠(よ)つて立つべきことを主張する者である。

             ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            されば我等は我等の信仰を他人に強(し)いない。何人をも強いて我等の宗旨に引入れようとしない。

           その信仰の自由を尊重し、その人格を尊敬する者である。此の故に教会人に対して教会より出でよ

           と勧めない。現存の教会を否認もしない。教会に入ると入らざるとは人の自由である。かく何人に対し

           てもその信仰の自由と独立とを尊重する我等は又何人に対しても我等の信仰の自由と独立とを尊重

           せられんことを主張する者である。我等の行動に干渉せざらんことを要求する者である。‥‥‥

            かく各個人の自由独立の確保を主張する我等は人々の真の幸福、社会の真の進歩発達は、社会的

           制度組織に因(よ)らざるのみならず、他人の人格的感化力にも因らないことを認める者である。それ故

           我等は社会制度の変革、環境の改良に由って、人々を其の苦悩より救い、社会の病患を除去せんと

           しない。又我等は他人のお情けによって衣食する寄生虫を憎む。働かざれば食うべからずである。自由

           独立人は当に己が天分を尽して生くべきである。信仰の自由と各人の独立との確保を主張する我等は、

           経済上の独立をも人々に勧告する者である。

                                                    (『全集』第3巻.3〜4頁)

 

                                                                        [江原萬里 目次]   [ホームページ]

 


 十字架

            ‥‥‥(十字架)に関して二種の見解がある。

             其の第一は我国の基督者の大多数が有つ見解であって、十字架とは自分が十字架を負うて

           キリストに従うこととする。如何なる苦難、迫害、困窮、死をも厭わぬこと、神の御意(みこころ)と信ぜ

           ば如何なる結果が生じようと顧念せず之を断行すること、正義なりと信じたることを貫徹し、他人

           より受ける苦痛を忍び、人を愛すること、即ち、キリストの歩み給いし道を歩むこと、之れが基督教

           の中心たる十字架の意義なりとするのである。

             ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            然(しか)し乍(なが)ら之を以て十字架教と称せられる基督教の本質であると思う者あらば、それは

           大なる誤解である。‥‥‥‥若(も)し己が十字架を負うてキリストに従うことが基督教であるとせば、

           基督教の本質は自力によって己が救を成就することであって、基督教の説く神の愛、キリストの恩

           恵は何処にも見ることを得ない。

            十字架に関する第二の見解、実に聖書の示すところの見解は、十字架とは我らの負う十字架で

           なく、主イエス・キリストの負い給うた十字架を意味する。我ら各自が負うべき十字架を、キリスト御自

           身我らに代って之を負い給うた十字架である。彼の苦難の死がそれである。‥‥‥‥‥

             ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

             自分の荷(にな)う十字架教がある。自分で荷われる十字架教がある。基督教は後者である。前者

           には常に苦痛が伴い、後者には常に歓喜平安感謝がある。

                                                    (『全集』第3巻.17〜19頁)

 

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 神の国

             ‥‥‥‥「神の国」とは御霊(みたま)が各人を支配する国の事である。人皆此の御霊を受けて

            心から神の聖意に服従し、服従することに由(よ)り、真の自由あり、社会に完全なる調和ある国

            である。聖にして義、愛にして喜悦、平和、寛容、仁慈、善良、忠信、柔和、節制(ガラテヤ五・ 二二)

            一言以てせば、我等が此の地に生れ出でてより、我等の霊魂が言い難き嘆を以て探し求めてい

            る人生の至上善が、始めて確実に我等の物とせられる国である。

             神の国は又「天国」とも云われる、何となれば、此の自由あり、喜悦あり、協和ある社会は天か

            ら新に降り、我等を受容れ、我等を根本から改造し、之を天にまで引上げるものであるからであ

            る。神の国は我等の生来の性質から出でない。我等の有つ智慧と能力とに由って地上に建設さ

            れるものでもない。現社会制度の変革によって来らない。イエスの出現によって既に到来したの

            である。イエスは未だ曾(かつ)て一度も、人は生れ乍(なが)ら神の子であると教え給わなかった。故

            に人間の社会が此の儘(まま)神の国となるのではない。神の子たるイエスの御霊を受けて始めて

            神の子とせられ、神の国を嗣(つ)ぎ得るのである。近時「神の国運動」とか称して、我等の社会改

            良運動に由って神の国を地上に出現せしめようと志すものがある。それは大きな誤謬を為しつゝ

            ある。

                                                  (『全集』第3巻.313〜314頁)

 

                ‥‥‥‥イエスの建設し給う神の国では、現世の社会に在って最も価値ありとされて居るもの

            が全く無価値となり、無価値として棄てられて居る者の中に神の国に入り得る資格を認められる。

            我等が此の世を住み心地よしとし、之を我が世と思う時、其の時程神の国に遠き時はなく、此の

            世に住み難きを嘆じ、現世の不幸に悩む時、神の国は我等に近づいたのである。光明が暗黒を

            通して輝き出るのである。

             されば神の国は現世に接続し、現世の進歩の結果として到達するのではない。天から降るの

            である。両者相反する事は天の地から遠き如く、東の西から相去るが如くである。両者妥協を

            許さない。神の国の教は現世の如何なる教とも折衷さるべきものではない。

                                                     (『全集』第3巻.350頁)

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 希 望

             常に希望を失ってはならない。神に義とされた者は、何を有たずとも希望だけはもつ。希望を

            もたぬ者は義とされたと云えない。何となればキリストを信じ彼に在る神が我等を愛し給うことを

            信じないからである。希望を失ってはならない。どんな暗黒、どんな苦労、どんな誤解、逆境、人

            が見て絶望とし、回復困難とし、如何なる学問如何なる方法も駄目とする時でさえ、キリストに在

            りて希望だけはあり得る。そしてそれが基督教の身上である。

                                                    (『全集』第3巻.557頁)

 

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 無教会主義不唱説

 

             本誌(『聖書之真理』)発行以来満四年の今日に至るまで私は、『無教会主義』を唱(とな)えた事

            はない。今後も唱えないつもりである。それは教会を憚(はば)かるからでは勿論ない。又好を教会

            に通じようと思うからでも毛頭ない。教会は私如きものを相手にせず、小と雖(いえど)も私も亦教会

            如きものを相手にして居ない。それ故に私は無教会である。されど無教会主義を高唱しない。

             ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

             先生(内村鑑三)が無教会主義を高らかに唱えられた頃は何人も教会に頼らねば伝道者は生

            活する事は殆ど不可能の時であった。国人よりは国賊としてきらわれ迫害せられた時であった。

            そして教会に頼ることは外国の伝道会社とその派遣した宣教師に隷属する事を意味した。先生

            は餓狼を前に彼等から精神的に又経済的に独立を唱えたのであった。これは福音の純正と我等

            の精神的独立上必要であり、其のために尊き貢献であった。これがための尊き犠牲が先生の無

            教会主義であった。

             今や時勢は変化した。政府はマルクス主義の防圧のために基督教を利用しようとし、我等は

            教会に頼らずとも伝道に何の支障もなく、教会から放逐されても昔のように生活に窮しなくなり、

            無教会主義を唱えれば信者は其の新奇を歓迎する時となった。かゝる時此等の教会に対して

            無教会主義を唱うるのは大人げない。私の現在の位置よりせば寧(むし)ろ無教会主義を唱える

            方が都合がよい。然(し)かも之を高唱しないでそれらの人々から排斥される方がより以上に無

            教会的である。これ私が無教会主義を唱えない理由である。

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥我等は信仰に由って新時代には新たなる行動を採るべきである。

            之を無教会主義と云うても差支はないがそれは内村先生の無教会主義と余りに紛らわしい。

            自分の独創には他の名称を以て呼ぶを可とする。それが真の無教会主義である。

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

             ‥‥‥‥‥‥‥‥何人も直接神との霊交を語って無教会となる。人の唱えた無教会主義

            を繰返えすのは無教会ではない。教会である。

                                                 (『全集』第3巻.25〜27頁)

 

                ‥‥‥‥‥無教会主義の理想が動(やや)もすれば陥る弊害は、深い意味に於て最も社会的

            であるべき福音が真実其の社会的意義を果さず、独善主義となり易いところに在る。

             ‥‥‥‥‥‥‥‥私は教会主義者でないように無教会主義者でもない。何れの長所にも盲

            目であらざらんため彼等何れよりも独立する者である。それ故徹底的に無教会である。

                                                  (『全集』第3巻.51頁)

 

                 ‥‥‥‥而(しか)して私は無教会主義を唱えない。それは純福音と併行出来ないためではな

            く、専心純福音を唱え度(た)いためである。凡(すべ)て主義は其の人の体験から出た時生命があ

            る。無教会主義も亦(また)信仰の巨人内村先生によって生命があった。巨人去って後に遺された

            主義は、往々にして生命と熱とを失い、死灰となり易い。かくして教派が生じ、教会が生ずる。そ

            れ故私は無教会主義を唱えない。

                                               (『全集』第3巻.587〜588頁)

 

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 略 歴

  1890.8.14    岡山県に生まれる

  1903.4      岡山県津山中学校入学 (1908.3 卒業)

  1908.7      第一高等学校入学 (1911.7 卒業)

            高木八尺と共に内村鑑三の門をたたき、毎日曜内村鑑三の講筵に列して

            キリスト教の信仰を学ぶ

  1911       東京帝国大学法科大学政治学科入学 (1915.5 卒業)

  1915.8       住友総本店入社、経理課主計係を命ぜられて本店に勤務

  1917.10      住友総本店庶務課秘書係勤務

  1918.10      黒崎祝と結婚

             6,7名の先輩友人とともに家庭集会を始める(芦屋会)

  1920.1       住友総本店休職

             大阪北港株式会社設立創業の業務に参劃し、同会社庶務係主任を命ぜられる

  1920.1.21      長男栄誕生 (1921.6死亡)

  1921.9        住友総本店退職

  1921.11       東京帝国大学経済学部助教授に任ぜられ、横浜に転居

              引越荷造中に喀血、これより闘病生活始まる

  1922.1.3       長女鋤子生まれる

  1922.3        退院、鎌倉に居住し自宅にて家庭集会を開く (1923.9の大震災後閉会)

  1923.5.1       二女順子生まれる

  1925.9.27      二男望生まれる

  1927.6        病気のため東京帝国大学休職

  1927.11       月刊個人雑誌『思想と生活』創刊

  1929.4        家庭にて集会及び日曜学校(川西田鶴子担当)を始める

              家庭集会では日曜及び火曜に聖書を講じ、後これを鎌倉聖書塾と名づける

  1929.6        東京帝国大学経済学部助教授退官

  1931.1        『思想と生活』を『聖書之真理』と改題

              咽頭結核と診断され、筆談を続ける

  1933.4         三谷隆正、山田幸三郎、矢内原忠雄の応援を得て日曜毎に基督教講話会を開く 

               (7月9日をもって閉じる)

  1933.8.7       死去

                〔『江原萬里全集 (第3巻)』の「江原萬里年譜」にもとづき作成〕

 

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 主要信仰著書

           『江原萬里全集』(全3巻).岩波書店.1969〜1970

           『地を嗣ぐ者は誰ぞ ―宗教と国家― 』. キリスト教図書出版社. 1984.

 

 参考文献

           『資料 戦時下無教会主義者の証言』. オカノユキオ 編. キリスト教夜間講座出版部. 1973.

              「江原萬里集」(357〜396頁)

           『江原萬里・祝 遺稿と回想』. 松田智雄・江原 望 監修. 高木謙次・福島 穆 編. 新教出版社. 1994.

 

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