[ 祈り ] [ 信仰 ] [ 愛 ] [ 良心 ] [ 神の国 ]
〔注〕『著作集』‥‥『藤本正高著作集』 発行所 藤本正高著作集刊行会
きかれる祈りに価値があり、きかれない祈りには価値がないのであろうか。
否、寧ろ反対である。それが祈りである以上、きかれる祈りよりも、きかれ
ない祈りにこそ深い価値がある。
きかれる祈りは多くの人のよくなす所である。けれどもきかれない祈りは、
特別神に捉えられている人以外には出来ない。
何度祈ってきかれなくとも、なお祈らずにはおれない、これがほんとの神を
信ずるものの態度である。
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我等のきかれない祈りも、実際は深いところに於いてきかれているのである。
きかれない祈りをささげ得るものこそ幸いである。
(『著作集』第5巻.318~319頁)
‥‥‥‥私どもは、神が与えられるものにたいしては、常に最善を求めるので
なければならない。最善を与えるところに、神の神たるゆえんがある。故に神に
たいしては最善以下のもので満足してはならない。
「私どもは罪深い者であるから、最善などを求める資格がない。善いものか、
より善いものでも頂けたら十分である」などと言う人がある。如何にも謙遜なよう
に聞こえるが、これは謙遜でも何でもなく、ごまかしであり偽善である。我等は罪
深い者だからこそ最善を求めねばならない。
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最善と最悪と二つならべられて、どちらを選ぶかと言われた時には、多くの人が
最善をとるであろう。‥‥‥‥‥‥ところが最善と次善tならべられるときには、まあ
これでもよいのだからと次善を選ぶ人が多い。ところがその妥協が実は悪魔のわな
にかかっているのである。エスカレーターに乗って下りる時のように、次善、次善と
つぎつぎと妥協して、最悪にまで落ちてしまう。
(『著作集』第5巻.347頁)
人に悦ばれる愛は神に背むかずしてはなし得ない。神に悦ばれる愛は人に
憎まれずしてはなし得ない。真の愛はこの世では憎しみの意味であり、偽りの
愛は神の前に憎みを意味する。
我等はこの世の人からもっともっと憎まれるまで、真に強くこの世の人々を
愛さねばならない。
(『著作集』第5巻.321頁)
良心におおいをして、野心や虚栄や、其の他色々の不純なものによって
動いている人々は、彼等の心にあわないものを附和雷同して排斥する。
しかし彼等の良心は、彼等のおおいの中で、ひそかに排斥しつつあるもの
に同情している。そして反対に自己の行動を非難している。この良心の叫
びは、どんなものも圧え得ない。
我等はこの世の大多数の非難を恐れる必要はない。ただ神を恐れて神
の支持を得るようにさえ行動すればよい。‥‥‥‥‥‥‥‥神の導きを
謙遜に祈り求めて歩む途は、必ず神がこれを支持するとともに、人々の
良心が支持するからである。
(『著作集』第5巻.323~324頁)
第一に、神の国は霊的に現在にのぞむものである。‥‥‥‥神の国は、
悔い改めて福音を信じ、霊と真とをもて霊なる神を拝する者に、現在、霊的
にのぞむのである。‥‥‥‥‥
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第二に、神の国は来世に於いて完成するものである。現在霊的に我等の
中に与えられた神の国は、成長して、基督再臨のときに完成するのであって、
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第三に、神の国は個人的にのぞむものである。霊的悔改めによって来る
以上、これは当然のことである。悔改めは個人一人一人の責任に於いて
なし得ることであって、悔い改めた団体に加入したとか、その家庭に生まれ
たとかの理由で、神の国にあるのでない事は明らかである。‥‥‥‥‥
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第四に、神の国には社会性がある。神の国は、原語の意味に於いても、
神の支配を現わすのが第一義である。たとい唯一人の人が霊的に神の
支配を受け、悦んでその支配に服従したとしても、そこに立派に神の国は
存在する。原理的には、被支配者が二人以上でなければならない理由は
何処にもない。神の国はそれらの人間的な数の条件を無視して圧倒的に
臨むのである。けれども、神は一人の滅ぶるをも欲しない。神の愛は、な
るべく多くの者に神の国を与えんとする。故に悔い改めて福音を信ずるの
は個人個人の責任に於いてなすのであるが、その悔い改めたもの同志の
霊的交わりがこれに伴うのは当然である。神を愛すると同時に隣人を愛す
ることは基督の最大の戒めである。ここに神の国の社会性がある。
(『著作集』第4巻.24~26頁)
1904. 2. 27 愛媛県喜多郡大洲町で、父・藤本鉄三郎、母・ツタノの二男として出生。
父母は教会に通うクリスチャン。小学校4年位まで日曜学校に通う。
1905. 7 父と兄が相次いでチフスで死去。
1918.4 愛媛県立大洲中学校に入学。
中学一年の頃、一家は八幡浜へ転居したため、知人宅に下宿。母は再婚。
1919 中学2年のとき、寄宿舎に入る。母と姉は八幡浜・メソジスト教会に通っていたので、
休暇で帰省したときは教会に通う。また中学の先輩から内村鑑三の『聖書之研究』誌を
贈られれて読む。
1920 中学3年の頃、愛媛県八幡浜メソジスト教会で受洗。
歴史担任の宮崎重蔵から聖書の講義を受けるとともに『聖書之研究』の購読者となる。
1921 養父の死去により学資の道が途絶えたため中学4年1学期の中途で退学、役場の臨時雇いとなる。
1922.4 愛媛県西宇和郡喜須木小学校代用教員となる。2階間借りの自炊生活。
1922.11 代用教員を辞め、大洲中学校4年に復学。農家の3畳を借りて間借り生活。
1923 中学5年。野球応援団団長。弁論部部長。
1923 近県中学生弁論大会で、「廃墟に瞬く星」と題して話し、銀メダル受賞。
1924. 1 職員会議で退学処分になりそうになるが、宮崎重蔵が身柄を預かることを条件に処分保留となり、
宮崎宅に40日間同居。
1924. 3 卒業予餞会で戯曲『亡国の民』を書き上演。
1924. 3 大洲中学校卒業。
1924. 4 西南学院神学部入学。
1928.11 全国基督者学生代表者会議(御殿場・東山荘)に西南学院代表として出席。
帰路、内村鑑三の集会に出席、また、藤井武を自宅に訪問。
1929. 3 西南学院神学部卒業。佐世保バプテスト教会牧師に就任。
1929. 3 多田クニと結婚。
1929. 12 長男・美彦、出生。
1930. 3 教会改革が受け入れられず、佐世保バプテスト教会を出る。
1930.4 八幡バプテスト教会に転任。
1931. 5 自宅が放火される。
1931. 10 自宅が再度放火され、牧師館が全焼。有力教会員による牧師排斥運動がおきる。
1931.11.2 独立伝道に起つ決心をして、八幡バプテスト教会牧師を辞任。
1931.11.3 八幡市曙町の借家に「八幡独立基督教会」の看板を掲げ、独立伝道に踏み出す。
雑誌『独立』を発行。
1932.4 「八幡独立基督教会」を解散して上京、東洋使徒神学校の聴講生となる。
妻子は妻の郷里に帰す。
1932. 6 杉並区成宗に住居を定め妻子を呼び寄せ、家庭集会を始める。
1933.3 畔上賢造主筆『日本聖書雑誌』に寄稿を始める(終刊号まで続ける)。
1933. 10 杉並区阿佐ヶ谷に転居。
1933.10. 5 長女・実子、出生。
1933. 11. 12 畔上賢造の応援を得て、「阿佐ヶ谷聖書研究会」を始める。
1934. 2 『主イエスと罪人たち』(発行所・阿佐谷聖書研究会、自費出版)を出版。
1934. 5 根岸英語学校(夜間)の講師となる。
1934. 6 ブレーキ著『リビングストンの生涯』を畔上賢造と共訳で出版。
1934.7. 20 長女・実子、腸炎のため死去。
聖書朗読と祈祷を以て納棺式を畔上賢造が執り行う。
夕方、火葬した遺骨を抱いて帰宅。その日にY氏の葬儀の依頼を受ける。
1934.7.21 Y氏の納棺式を執り行う。
1934.7. 22 Y氏の告別式を司式。
1934.7. 23 自宅にて実子の告別式。畔上賢造が告別のことばを述べる。
1934.12. 19 二男・嘉信、出生。
1934 赤羽の牧野正路宅で家庭集会を始める。
1935. 4 『基督の復活と死者の甦り』(松山・土肥書店)を出版。
1935. 10 改造社版『キエルケゴール選集』に「瞬間」を訳出。
1936. 8 『ウイリヤム・チンデル伝』(松山・土肥書店)を出版。
この印税を旅費として第一回伝道旅行を行う。
(以後、毎年、全国各地へ精力的に伝道旅行を行う。)
1937. 2 『キエルケゴールの教会批判』(土肥書店)を出版。
1937. 10 杉並区成宗に転居。
1937.10 三男・和義、出生。
1937. 12 畔上賢造の 『日本聖書雑誌』終刊および「中央聖書研究会」解散の処理をする。
1938. 1 神田・帝国教育会館で「独立聖書研究会」を始める。
一方、日曜夜は自宅で「阿佐ヶ谷聖書研究会」を続ける。
1938. 4 『聖約』誌(月刊)を創刊。
1938.12 黒崎幸吉編『旧約聖書略注・上』出版。その中の民数記略と申命記の一部を執筆。
1939 この年の殆どを『畔上賢造著作集』の編集に費やす。
1940.10.8 杉並署の特高刑事が来宅して『聖約』について調べる。
1940.11.3 この日を最後に帝国教育会館の集会場を取り上げられ、会場を自宅に移す。
1941. 1 二女・径子、出生。
1941. 3 日曜集会を畔上賢造宅に移す。
1941.12. 25 『宿命か摂理か』(杉並区・平和舎)を出版。
1942. 3 昭和第一商業学校講師となる。
1942. 5 黒崎幸吉の『復活の生命』誌が発禁となったため、『聖約』を黒崎・藤本の共同執筆にする(1944年5月まで)。
1942. 7 三女・露子、出生。
1942. 10 『独立伝道者畔上賢造』(畔上賢造著作集刊行会)を編集・出版。
1943. 7 黒崎幸吉編『旧約聖書略注・中』出版。その中の歴代史略上・下を執筆。
1944. 1 日曜集会会場を自宅に移す。
1944. 5 通達により 『聖約』誌、74号で廃刊。
以後、謄写刷りの『聖約会報』、『聖約叢書』を不定期に発行。
1945. 4 愛媛県久万(くま)町に疎開。
「久万聖書研究会」を始めるとともに久万青年学校の教師を勤める。
1945. 5. 25 四女・順子、出生。
1945. 9 校長と意見が対立し、また、無教会主義者ということで刑事が身辺調査のため
学校に来るようになったため、青年学校を辞める。
久万郵便局に勤め簡易保険の集金・郵便配達をする。
1946. 1. 5 四女・順子、風邪がもとで2日間の病気で死去。
翌日、家族だけで順子を山の中の火葬場で葬る。
1946. 9 川崎市立商業学校講師となる。
1946. 9 東京・西荻窪・加藤弘三宅で毎日曜の聖書研究会を始める。
1946. 12 神奈川県川崎市馬絹(まぎぬ)の東部六十二部隊兵舎跡の仮家へ転居。
自宅でバイブルクラスを開く。
1947. 3 『聖約』を復刊。
1947. 6 日曜集会会場を、杉並区・堀維孝宅に移す。
1948. 11. 30 母・ツタノ、死去。家族だけで納棺、リヤカーで1里余ある火葬場へ運ぶ。
兵舎跡の仮家で告別式。
1949. 8 『涙を吸う者』(大阪・明和書院)出版。
1950. 5 日曜集会会場を、世田谷区・藤原明夫宅に移す。
1950. 12 長田穂波遺稿『福音と歓喜』を編集・出版。
1951. 1 『聖約』の印刷を宮崎刑務所に依頼(終刊号まで)。
1952. 1 日曜集会会場を、世田谷区・渡辺五六宅に移す。
1952. 6. 1 日曜集会会場を、世田谷区砧町152に移す。
1952. 8 九重山(くじゅうさん)夏季聖書講習会の講師を務める(1967年まで)。
1952. 11 黒崎幸吉編『旧約聖書略注・下』出版。その中のヨエル書・ヨナ書・ミカ書を執筆。
1953. 1. 2 日曜集会の場所である世田谷区砧町152に転居。
「独立聖書研究会」の看板を出し、落ち着いた伝道生活に入る。
1956. 4 十字屋原町田店の聖書講義を受け持つ。
1958. 4 川崎市立橘高等学校に転任。
1961. 11 『荒野の福音』(聖約社)出版。
1964. 3 橘高等学校退職。
1964. 4 中延学園講師を勤める。
1965. 3 中延学園退職。
1965. 4 十字屋藤沢店・沼津店・吉原店の聖書講義を受け持つ。
1967. 3 赤坂・虎ノ門病院に入院。
1967. 6. 5 胃癌肝転移のため死去、63歳。
1967. 6. 11 告別式。
( 『著作集』第5巻「年譜」(511~630頁)および『著作集』各巻の記述に基づき作成。)
『藤本正高著作集(全5巻)』. 藤本正高著作集刊行会 編集発行. 1968~1969.
『荒野の福音』. 聖約社. 1961.