藤田若雄

目 次

          [ 祈り ]  [  ]  [ 神の国 ]  [ 十字架 ]  [ 信仰 ]  [ 重荷を負う ]  [ 体制の外に出る ]  

          [ 主の僕の立場 ]  [ この世に生きる ]  [ 神の前に一人立つ ]  [ 誓約集団論 ] 

          [ 略歴 ]  [ 年譜 ]  [ 主要信仰著書 ] [ 参考文献 

 

                                        〔注〕『著作集』‥‥『藤田若雄キリスト教社会思想著作集』 発行所 木鐸社

 

                                                                                      [ホームページ]


 祈 り

 

           お祈りが僕はきらいです。上手なお祈りくらい僕のきらいなものはないです。

                                             (『著作集』第2巻.70頁)

   

           最近の切なる祈は、私が終りの日まで信仰を維持しうることである。この世の務については、

           とても大いなることをする力はないから、私に与えられた職場における最低限の義務を信仰

           における誠実をもって果すことである。そして、ともかくも、彼は信仰を捨てることなく死を迎え

           たことが家庭や少数の友人に認められることである。

                                             (『著作集』第2巻.319頁)

 

           ‥‥老年になったため朝早く目がさめることと結びついて、早朝の散歩が慣習になってしまった。

           それは私の朝のいのりの時でもある。‥‥

           四時には明けはじめ、四時半には外へ出られる。外へ出て歩きはじめると、ヤハウェにあって、

           一日路の時が経過したと心に語りかける。石を枕に一夜すごした感が深い。朝は感情が落着いて

           いる。

            読者諸兄姉の誰彼のことが心に浮んでくる。思い浮べながら、ただひたむきに歩く。心をかむ思い

           のすることは、私の愛の足りないことである。‥‥

            朝から思い乱れてはと思い、ひたむきに歩く。それでも涙がぽろぽろ流れる時もある。足に力を

           入れて、いそぐ。

                                              (『著作集』第2巻.427頁)

           

           感情が流れて、心が不安にいらだつ時がある。感情が意志に勝って働き、意志に服することを

           拒否する時がある。私の脱出の仕方は、幾度かの挫折の中から案出されたものである。それは、

           ともかくも資料つ゜くりにはげむことである。なるべく機械的な仕事をコツコツと繰り返すことである。

           ‥‥‥‥

            われら祈りのうちに(その形態はいろいろであろう。前記、私の脱出方法も一種の祈りである)、

           不安はやがて悲哀にかわる。それは、聖霊くだって、われらの心に満ちるが故にこの世の充満感

           とはことなった充実感をもつことを意味する。

                                               (『著作集』第3巻.484~485頁)

           

            自分の目でたしかめ、祈り、かつ考えよ。

                                     (『著作集』第3巻.511頁)

     

            われらの最も強い連帯はともに祈りのうちにおぼえることであります。

                                               (『著作集』第3巻.529頁)

                       

                                                          [藤田若雄 目次]  [ホームページ]

 


  

 

            内村は挫折において超越的絶対的な人格神に出あっている。そして、国人に捨てられた時もこの神

            によりすがって、日本国に対する自然生的愛を焼き切っている。矢内原もまた国人に捨てられた時、

            内村と同じ体験をもっている。

             ‥‥‥‥‥‥‥

             国人に捨てられた時、あるいは客気により体制から排除された時、人は自然的生を剥がれ焼かれ

            る。その時、国又は体制を超えて働く超越的絶対的人格神について、国又は体制の変動を通じて働く

            神の経綸に身をおき、そこから再び現実に立ちかえる立場をとるか、時々刻々の変動そのものを常に

            認めて己を無にする立場をとるかは人の現実に対する基本的なる姿勢を決定する。前者においては

            未来への展望を内包する現実への対決の姿勢が生まれる。

                                              (『著作集』第2巻.296頁)

 

                                                                    [藤田若雄 目次]  [ホームページ]

 


 神の国

 

           われわれの住んでいる国が、いま巨大な軌跡を描いて転換しつつあるとき、われらは、確実に存在しつ

           づけている神の国に脱出しなければならない。神の国は目に見えない国である。だから人々に納得的に

           説明することはできない。すぐる大戦の時を思いおこそうではないか。われら神を信ずるといいつつ容易

           に神の国へ脱出することができなかった。しかし、終戦の時、かくれていた神の国は審判の形をとって明

           確に姿をあらわした。

                                               (『著作集』第2巻.423頁)

 

                                                                      [藤田若雄 目次]  [ホームページ]


 十字架

 

           ピューリタンは、エホバの焼き尽す火に己が欲を潔めた(禁欲)。この焼き尽す火を日本の人は知らない。

           日本の人々の精神態度の中には、″和″がひそんでいる。この″和″を焼き潔めなければならない。

           日本的和と十字架による贖の結果との質的な差を十分意識しなければならない。

                                               (『著作集』第2巻.319頁)

 

             十字架を負うとは、人に捨てられることであって、今問題を共に考えている人々が共に戦って行くことでは

           ない。皆それぞれ己が道を歩き楽しむのであり、彼一人が一人で十字架を負うということである。そのこと

           はイザヤ書五十三章に示されている。気がついた時、彼の登った梯子はとりはらわれ、人々は既に遠くへ

           行っており、呼べども通じないのである。人々は意識して去って行くのではない。何時の間にかそうなって

           いるのである。イエスは十字架上で神に捨てられた。

                                               (『著作集』第2巻.436頁)

                                                

                                                                 

                                                                        [藤田若雄 目次]  [ホームページ]


 信 仰

 

            聖書が我がものになるためには、聖書の中にある基礎経験に我々は着目して、それをつかまえなけ

            ればいけないのではないか。

                                              (『著作集』第1巻.294頁)

 

               ‥‥‥そこで、私どもは、職場からはじき出されても世間に通用する一人前の生計が維持できるよう

            な職業を身につけておくことが大切だということになります。この問題を便宜問題と考えるのでなくて、

            信仰の力というものが、生活を離れて異常に興奮するのではなくて、職業の選択なり訓練を通じて不断

            に緊張するように働くことが問題なのです。むしろ、そういう性質の信仰が重要なのであります。

                                              (『著作集』第1巻.386頁)

 

               宗教的真理は、自然科学や社会科学とは認識の方法がことなる。宗教的真理の認識は、主体の実践

            ということなくしては不可能である。人間の一生の間に当面するさまざまな問題において、人間主体が

            ひきさかれるその傷のところから宗教的真理が認識されてくる。

                                              (『著作集』第1巻.435頁)

 

               「今の悪の世」にぶつかって行くことをさけるという態度の下において信仰による義を主張することが、

            わが国の現実において如何なる性格をもってきたかが問題なのだ。

             第一に、内村がもっていた現実社会に対する強い関心を捨象しているということである。それは、内村

            鑑三が、現実社会の問題にぶつかることによって、キリスト教のドグマを己が信仰の血となし肉となした

            という信仰を学ぶダイナミックスを捨ててしまったということである。信仰を学ぶということは本来経験主義

            的なことなのである。

             ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                                               (『著作集』第1巻.436頁)

 

               神によりたのめということは、興奮を静め、波立つ心を平静にし、主体性をとりもどせということである。

             神によりたのめ。人によりかかるな。神によりたのむならば、静かにより頼み、己が心を空しくするなら

             ば、神は途を示し給う。

                                               (『著作集』第1巻.487頁)

 

               集会に欠かさず出席したとか、講習会に毎回出ているとか、上手に御祈りができているとか、そんなこと

            は問題にならない。パウロはいう。信じて御霊を受けなければクリスチャンではないのであると。それが

            神秘的にきこえ現代的でなくともクリスチャンとはそういうものだ。‥‥‥若い時にキリスト教に接し就職

            してキリスト教を捨て去る人の多いのは、この基本体験がないためだ。

                                                (『著作集』第1巻.492頁)

 

              聖書の中から我々は何をつかみとるかといえば、構想力とそのダイナミックスという力である。‥‥‥‥

            牧師のいうように宗教によってこの世に調和がもたらされるようにと言っても、こんな激しいテンションの

           ところに、そんなアメチョコみたいなものをはりつけてもどうにもならない。もっと大きなテンションがぐんぐん

           来ている。‥‥‥‥それほどはげしい合理化競争の中にある。こういうときに口先だけで「アーメン」と言っ

           てもどうにもならぬ。‥‥‥‥とにかく今は既成のものをひっくり返してゆかねばならぬ時期です。あらゆる

           ものを変えて新しいものをつくってゆかねばならぬ。

                                                (『著作集』第2巻.30頁)

 

              ‥‥‥‥超越的絶対的な人格神信仰にもとづく思想の根源性を知ることが大切である。この思想こそは、

           絶対的な客観主義思想を対立物として生みおとすものであり、両者とそのかかわりあいこそが現実の混迷

           を超える強い構想力を打ちいだす。これらの思想を下じきにすることなしには、自然主義的汎神論を根にも

           つ日本の精神的風土は、その酵母を焼き切って飛翔力を身につけ ることはできないであろう。

                                                (『著作集』第2巻.295頁)

 

              信仰というのは、世の中から一歩身をひいて生きる姿勢、ここに強さがあると思う。中に入ってベタベタする

            のはよくない。自分は信仰を持っているからといって仕事をちゃらちゃらする人があるが、これは信仰の安

            売りです。大道でバナナをたたき売りするのと同じです。人と競争しないというのは一見弱そうに見えるが、

            徹底的に負ける精神をもっていることが強いのではないか。負けるという言い方はマックス・ウェーバーの

            表現で言えば精神的禁欲です。

                                                (『著作集』第3巻.215頁)

 

                                                                       [藤田若雄 目次]  [ホームページ]

 


 重荷を負う

 

            我らは、信仰をあくまで純粋に高くもつ。また地上の生活にしっかりとり組んで行く。そして、その生活

            態度はイエスの様に、時に旧きものを破壊することもある(宮潔め)が、基調は世の重きを負うこと(十

            字架)にある。

                                                (『著作集』第1巻.259~260頁)

 

               われわれは、職業を通じて社会関係の中に入り込む。そこでは、さまざまな関係が複雑にからみ合って

            いる。‥‥‥

             我々は、この諸関係の中で闘わなければならない。闘うというとき、人はしばしば勇ましき行為をするこ

            とのみを考える。しかし、我等の闘いは、その器量に応じてなすべきであって、自からの器量をこえて力み

            かえる必要はない。イエスは、我等にその器量をこえた過当な闘いを要求したまわない。

             我等の闘いは、我等でなければできない闘いである。我等は、我等の身をおく諸関係の重荷を負って

            じっと耐えなければならない。このことは世の戦士にはできない闘いであると思う。我等は塩のようにその

            姿を没することによって世を塩つけるのである。そのことにおいて、我等は勇気を以て当らなければならない。

                                                 (『著作集』第1巻.407頁)

 

               われわれは、これまで職場で重荷を負ったことを延長してアジアの中で重荷を負う立場に立とう。

              ‥‥‥‥‥‥‥

            日本の職場には、ある程度で職場矛盾を緩和する方策があるから、重荷を負い通すということはない。

            立場が正しいとされ、しかも最後までということはないから、重荷の意味も何時の間にかゆるんでしまう

            のが常である。これに反し、アジアの中に出て行けば、われらの立場は、おおうことなき日本の業罪の

            立場であり、その業罪の罰を負うものは、沖縄である。この沖縄の負う罪が日本の罪の代償であること

            を知るのであるから、われらの心はそこで徹底的に砕かれるのである。

                                                 (『著作集』第2巻.211~212頁)

 

               私が期待をつなぐ人々は、かような心情主義の昂進状態に埋没した人々ではない。職場で従来の没

            心情主義を否定しつつも、重荷に耐えている人々である。運動が成果を産むには条件が熟しなければ

            ならぬのであり、その成熟を待つだけの禁欲忍耐が重要なのである。かくの如き精神態度こそが、事態

            の質を変えて行く力をもつのである。

                                                  (『著作集』第2巻.471頁)

 

                                                                        [藤田若雄 目次]  [ホームページ]

 


 体制の外に出る

 

               ‥‥‥‥‥‥‥

            私は、かくの如き体制のとる動きに躰を張って抵抗し死すということはしない。私はできれば合法

            ギリギリの戦をするかも知れないが、私の主たる戦いは、かくの如き体制の社会科学的分析によ

            る運命批判である。‥‥‥‥

             かくの如き社会科学的批判なしの直接倫理的体当り――かくの如き体制の運動は正義に反す

            ること多きが故に直接倫理的批判はわかりよく大衆受けをする。その倫理批判者は勇気があり

            尊敬すべき人々であるが、私の任務はそこにない。私の任務は社会科学的運命批判と体制から

            外に出るということである。

               ‥‥‥‥‥‥‥

            体制の外に出るということは、家族からも友人からも無視されることである。そして、時として自分

            が自分について疑いをもつことである。‥‥‥‥

                                                  (『著作集』第2巻.437頁)

 

               体制の外に出るとは、キリスト者用語を以てするなら国籍を天におくものである。この世の国籍は

            あるが魂の国籍を天におくことを強い生命信条とするものといっておけばよいであろう。

                                                  (『著作集』第2巻.501頁)

 

               体制の外に出るとは、教育勅語問題以後の時期の内村鑑三、戦時中の矢内原忠雄の如き、体

            ごと体制の外に出ることばかりではない。身は体制の中にあっても、体制の誉の外に心をおくもの

            もふくむ。この点を私は、職場で十字架を負うと呼んできた。

                                                  (『著作集』第2巻.540頁)

 

               私は、体制の外に出ることだけに意味があるとは思っていない。体制の外に出ることは大変な戦

            いであることはいうまでもない。しかし、だからといって体制の中にとどまるということは無意味では

            ない。体制の外に出るも、内にとどまるも、大切なことは神の召に従って、その召された場にいるこ

            とである。召された場が体制の外のこともあれば、体制の内であることもある。‥‥‥

             ‥‥‥‥‥‥‥

            私が重視することは、体制の内にいても、精神的に体制の外にいることを含めて体制の外にいる

            ことが大切だといっているのである。

                                                   (『著作集』第3巻.72頁)

 

                                                                       [藤田若雄 目次]  [ホームページ]

            


 主の僕の立場

 

            無教会第二代目は、第一代の内村鑑三と共に、モーセ的であり、ダビデおよびソロモン的であると

            いえる。これに対して無教会第三代目は、その時代的制約を印刻しているが故に、主の僕的立場

            を身を以て代表するものであるといえよう。彼らの人間が仮りに小ツブであるとしても、まさにそこの

            中に、使命感を貫き通して、人の前に立つものより、人に仕える(私はこれをオルグと表現しようと

            したこともある)ことにより、全体を一層活々としたものにすることが重要なのである。霊的解放者=

            後衛的存在たることにより、諸領域に前衛を輩出させることができる。

                                                  (『著作集』第2巻.213頁)

 

               ‥‥‥‥かの理想を高くかかげる明治の児の運動とはことなり、世界の底辺におかれたアジアの

            人々の連帯――日本の底辺にいる人々を含めて――が新しい運動の形として浮かんでくる。

             ‥‥‥‥‥‥

            ここで、ダビデ的メシアから主の僕への転換にも比すべき任務の再把握がなされねばならない。無

            教会の第二代目の人々は、日本を負うて立つかの如き人々であった。これに対して三代目は、みる

            べき姿なき主の僕として、日本のアジアにおける罪を負ってアジアの中に立つことを自覚すべきであ

            る。

                                                   (『著作集』第2巻.219頁)

 

               沖縄本島の姿は、背に重荷を背負った腰の曲った人のようである。

              ‥‥‥‥‥

             沖縄はいま、トボトボと歩いてくる。沖縄はいま帰ってくる。沖縄の姿は、日本がアジアで流した罪の

             かたまりである。

              ‥‥‥‥‥

             沖縄は今静かに歩いてわれわれの方に帰ってくる。われわれは、沖縄復帰というこの社会的事実に

             いかなる内面意義を認めて受けとめるか。それは徹頭徹尾信仰の問題であり、それが問われている

             のである。

                                                   (『著作集』第2巻.221頁)

 

                                                          [藤田若雄 目次]  [ホームページ]


 この世に生きる

 

            戦時中、お前は「馬鹿だ」と云われながら、私は妥協しなかった、特に幹部職員にはつきものの役得

            を排斥した。勿論これはあたり前のことである。あたり前のことを実行することが大切である。そして

            あたり前の行動によって被る不利益を甘受することが大切である。

                                               (『著作集』第1巻.61頁)

 

               宗教革命は何よりも実践的である。その方法は明白である。イエスの死、ハウロの苦難多き生涯。

            ルターの勝利の前にはフッスの死があった。基本的にはそれと何ら異るものではない。捨身の生き

            方である。如何なる生活を捨身で生きるか。

                                               (『著作集』第1巻.62頁)

 

               内村鑑三はイズムにこだわらなかった。例えば戦争に対して、反対という一線を以て友と呼ぶか否

            かをきめた。彼はそこに基督教という基準をもち出さなかった。

             内村鑑三の特色は既成概念にこだわることなく常に活々と変化に対応したことである。我々もまた

            新鮮な反応の感覚をもたなければならない。生命にあふれなければならない。

             時勢に活々と反応するためには、事実を知る必要がある。

                                               (『著作集』第1巻.119頁)

 

               われわれは、この世から離れることが出来ませんから、その中に生きてゆかなければなりません。

            その中に生きて行くということと、その中で、そこに支配的に行われている徒党的生活関係に従って

            生きるということとはちがいます。われわれは、その中で神の国の一員として生きなければなりませ

            ん。それは「闘い」の生活になります。われわれは、闘わなければならないが、われわれの闘いは

            平和な闘いです。しかし、それは実際は大変なことなのです。この闘いの態度なしに聖書研究会に

            集まればその研究会は、逃避的な研究会になります。逆に職場内の生活関係が先に示した例の

            ように研究会をとらえ支配してしまうかも知れません。この世から逃避して自分達だけの慰めを救め

            ることは、ある意味ではエレミヤのいう姦淫です。

                                                (『著作集』第1巻.123頁)

 

               非常に高い思想なり信仰をもちながら、現実には極めて世間的にみすぼらしく見える仕事をやる、

            ということが実に重要なんだ。

                                                (『著作集』第1巻.173頁)

 

               ‥‥‥キリスト者組合活動家には、どうしてあの人があれほどよくやれるのかと他の人が疑問に

            思うような誠実がなければならない。そしてかれの家へ遊びに行くなり何なりして、話をきいて見る

            と、かれはクリスチャンである、聖書をよんでいる。そこで自分も聖書を読んでみようと思うようにな

            る。こういう風に間接的な関係で起るべきであって、キリスト教という看板をぶらさげて労働組合の

            中に入るということは、具合が悪いと思う。

                                                (『著作集』第1巻.199頁)

 

               われわれは、われわれの職場、職業を通じて引き裂かれた人々の中に身をおき、その苦悩の声をきく。

            事態を社会科学的に知ることは重要である。しかし、基督者は知ることにとどまってはならぬ。二人三人

            集る基督者の群は、人間回復の場(エクレシア)であるはずである。それは戦闘のエクレシアであるはず

            である。彼が人間の裂け目で地の塩となることによって世の罪を負うのである。この戦闘のエクレシアこそ

            が、労働組合の力を回復させ、政党の力を回復させる。基督者の使命は、人間回復の原基体をつくること

            にある。

                                                 (『著作集』第1巻.403頁)

 

               学歴差別の社会的ノロイから解き放たれよ。解き放ってくれるものは、社会的には不可能な事情の下に

            おいても、霊を受ける体験の事実である。学歴差別は社会的事実であるから、事実を以てしなければ解放

            されない。それは、霊を受けるという体験の事実である。これが社会的解放を生み出す運動と機能的に関連

            する。その意味で根源的である。

                                                 (『著作集』第1巻.439頁)

 

               パウロは虚無を説くと共に、栄光を待ちのぞむことを説いている。これが苦難ということである。虚無の中に

            いながら、栄光へ望をもって生き、かつ存在していることが苦難ということだ。

                                                 (『著作集』第1巻.493頁)

 

               若き日の興奮による行動が中年の生活態度と何のかかわりもないというような人生は、何の意味もない。

            人は、そんなきびしい人生は面白くないというかも知れない。しかし、もし、生きることに価値をおくならば、

            我等は、日本社会においてここに問題をおかざるを得ない。

             我々は多くの仕事に従事している。従事している仕事が多方面であればあるほど意味があるのであって、

            誰もかれも独立伝道者にならなければならないというのではない。私は独立伝道者が無意味な存在だと

            いっているのではない。職業に従事するものが、仕事がくみ込まれている社会関係の中で十字架を負うて

            生きることは、独自的に価値をもつ生き方であることを強調しているのである。

             ‥‥‥‥‥‥‥‥

            十字架を信ずるという以上、我等は自から捨てられて、貫き通す一生を送るべきでないか。地の塩とは

            具体的にはこういうことではないか。一人が一本のスジの通った一生を生きることにより、日本の社会の

            中に精神的態度の背骨の礎に一石をおくことができるのである。

                                                 (『著作集』第1巻.522頁)

 

               キリスト者が、この世において生きがいをもつということは、神に捧げた生涯の中に自分の仕事を位置

            づけるということである。そうすれば、仕事の仕ぶりや性質に変化が生れてくる。‥‥‥

             高くかつ深い信仰にもとづいて――砕かれた心をもって、日常与えられた仕事をする態度が出来たと

             き、神は彼に新しい任務を与えることがある。‥‥‥しかし、新しい任務の内容は、決して人の心を

             おどらせるほど輝かしいものではない。召し出されて与えられる仕事とその仕事をめぐる人間関係は

             極めてみすぼらしく煩わしいものである。これが神から出た仕事かといぶかることさえある。神から出た

             ものかどうかは長い信仰による忍耐の生活の中で実証され、かつ心に確信がもてるようになるもので

             ある。

                                                 (『著作集』第2巻.70頁)

 

                自分を常に前進させるためには、自分を常に対象化することが必要である。

              ‥‥‥‥‥

             自分を美しくみせようとすることは人の本能であるが、罪―挫折もまた不可避な人生の事実である。罪

             ―挫折をそれとして受けとめること、これ私のいう対象化である。対象化を怠ると本当のものにつきあた 

             らない。

                                                 (『著作集』第2巻.267頁)

                                                         [藤田若雄 目次]  [ホームページ]

 


 神の前に一人立つ

 

             ‥‥‥‥‥‥

             ここまで自分の思想を追いつめてきて考えるのは、死は主体的には絶対に個人的である―― 一人で 

            あることである。その一人であることの意味を徹底的に知ることではないか。真暗な天地万有の下に私は

            一人立っている思いである。

                                                 (『著作集』第2巻.213頁)

 

               人は、信仰をもって生涯を貫こうとすれば、その晩年において、いよいよ孤独にならざるを得ない。この

            孤独に耐えうる内的充実をもつことが、晩年において決定的に重要なことである。

                                                 (『著作集』第2巻.303頁)

 

               無教会の真骨頂は、神観ではなく、神の前に一人立つところにあります。エレミヤが、三一章三一節以下

            で、末の日には神は、一人一人と契約するということをいいます。ああいう風に、神の前に立つ一人をしぼ

            り出して来ます。又、ヨブが一人裸で生れ、裸で帰るといっているように、神の前に一人立つというのが無

            教会の真骨頂だと思うようになりました。

                                                  (『著作集』第3巻.236頁)

 

               私が戦時中矢内原忠雄先生から学んだ福音は、自分一人でも聖書を読み、一人で神の前に立ち、神の

            啓示を直接に受けとめかつ生きることでありました。神が立てといえば立ち、出でよといえば出で、とどま

            れといえば軛(くびき)を追うてとどまり、神によりたのんで死の山路をこえて行くことでありました。

                                                  (『著作集』第3巻.375頁)

 

                                                                      [藤田若雄 目次]  [ホームページ]

 


 誓約集団論

 

            組織論の中で「ゼクテ」は、小集団理論です。大集会になれば、必ず官僚制が出てきてブチこわされてし

            まう。戦時中の矢内原集会は少数であるが故に、戦闘的な誓約集団でありえたのです。これが今井館に

            移って、誰でも来れる集会になり、大集会になった。人数が多くなれば、「取り巻き」が出てくる。それが官

            僚、つまり「側近」である。これは、ウェーバーの「カリスマの日常化」に書いてある通りの事実が起ったわ

            けです。だから、無教会は、組織論としては、小集団主義に徹底しなければ、その精神を維持することが

            できない、という結論になるのです。

             無教会は組織論をもつべきであり、その組織論をもつというのは教会制度をもつということではなくて、

            まさに、小集団理論をしっかり自覚すべきである。というのが誓約集団論です。

                                                  (『著作集』第3巻.57頁)

 

               誓約集団の本質は、対等で互に信頼できて何でも言える関係にある。誓約集団というのは基本的人権

            を生み落す組織なのだから、その中には差別はない。そういう集団を組むことができれば、そこが社会

            の差別を弱めるための合理的なものを何か生み落すことができるであろう、と考えている。

                                                  (『著作集』第3巻.62~63頁)

 

               矢内原先生は、体制の外に出ているが、私たちはこの世の職業に従事しているのであるから、体制の

            中にいる。しかし誓約集団としては、体制の外に出ているのである。精神的には体制の外に出ている。

             ‥‥‥‥‥‥

             ‥‥‥この誓約集団に属した私の体験によれば、この誓約集団の戦いの中にこそ生きがいと魂の

            平安を見出し、この戦闘の中で信仰を理解した。

             ‥‥‥‥‥‥

             ‥‥‥その誓約集団の中で学んだ信仰は、かのエジプトを脱走し、モーゼにひきいられた一二部族

            がシナイ山でヤウェの神と誓約連合を組んだこと、原始キリスト教徒の集団、とくに、イエスの一二弟

            子に象徴化された誓約集団と同質であり、イザヤ書の残りのものも、カトリックに対抗したプロテスタント

            の出発時の小集団も同じ性質のもののように思う。

             こういう誓約集団は、歴史の転換期にあらわれるもののようである。それは旧秩序の体制化の中で精

            神が圧迫されているとき、それを突破する集団の原基形態であり、その中に確立された戦う個人を見出

            すことができる。今日の日本もまた転換期である。明治百年の体制が、資本の自由化に適応するため

            ――世界的競争社会の真只中にひきずり込まれ、その中を切り抜けるために否応なしの体質変化を

            とげつつある。まさに、その中で、精神的自由・救の事実を体得しうるのは、かくの如き誓約集団(小集

            団)を除いてない。

             ‥‥‥‥‥‥‥

            社会が富裕化し、一切が科学的営みによって解明されるかに思われてきた今日、旧新約聖書の全体を

            貫く信仰の基礎体験を純粋に表現するものは少数の誓約集団であるから、われらは、この基礎体験を

            内在的に把握し、富裕社会の体制の外に出ることによって、生き抜くことが大切である。

                                                  (『著作集』第3巻.360頁)

 

               私がなぜ、村共同体をさけて誓約共同体を考えるかといえば、今日重要なのは、戦争反対者も肯定者

            も含んだキリスト者集団ではなくて、非戦の立場をとる者のみの集団というように、戦いの目標が共通な

            集団が最も大切であり、かくの如き目標の共通な誓約集団の内部秩序として愛(誓約関係)をとらえるべ

            きであると考えるからである。

                                                  (『著作集』第3巻.396頁)

 

 

                                                                       [藤田若雄 目次]  [ホームページ]

 


 略 歴

  1912.11.2    北海道に生まれる

  1931.12      喀血

  1932.8      新居浜で療養中、矢内原忠雄と出会う

  1934.5      矢内原集会に入会

  1937.3      東京帝国大学法学部卒業

  1937.4      産業組合中央金庫職員

  1938.9      応召、即日帰郷

  1941.11     産業組合中央金庫退職

  1941.12     住友鉱業株式会社職員(大阪)

  1944.6      唐津へ転勤

  1946.1      職員組合委員長

  1947.5      住友鉱業株式会社退職

  1947.6      西南学院専門学校教授

  1949.2      東大社研研究員

  1950.6      東大講師

  1960.5      『東京独立新聞』共同編集(65年協力者,67年協力者の立場を退く)

  1962.1      藤田聖書研究会発足

  1962.10     『東京通信』創刊

  1964.8      『エクレシア・ミリタンス』創刊

  1966.3      『労働通信』共同編集(70年まで)

  1968.5      東大教授

  1973.4      東大退官。国際基督教大学教授

  1974.9      『無教会主義の研究―社会思想史的研究―』創刊

  1975.4      国際基督教大学大学院部長

  1977.1.2     逝去

              〔『藤田若雄―信仰と学問―』〈藤田起(編).教文館〉による〕

                                                                         [藤田若雄 目次]  [ホームページ]

 


年 譜

 1912.11. 2   北海道雨竜郡妹背牛村字小藤526の111にて藤田伊太郎、フジの末子として出生。

 1930. 2     北海道庁立滝川中学校卒業。

 1930. 4      大阪高等学校文科甲類入学。剣道部に所属。

 1931. 12.17  学年試験の直前、教室にて喀血。 

 1932. 3      愛媛県新居浜町にて療養開始。

            3月に矢内原忠雄著『マルクス主義と基督教』が出版され、これを読む。

 1932. 8. 12   新居浜教友会館で矢内原忠雄に出会うが、その聖書を読む姿に強い感銘を受ける。

 1932.9      二学期に1年下のクラスに復学。

            この頃すでに黒崎幸吉の聖書研究会に参加。

 1932. 11     矢内原忠雄の『通信』が創刊され購読開始。

 1933. 4. 3    内村鑑三三周年記念講演会における矢内原忠雄の講演「悲哀の人」に強くうたれる。

 1934 .3      大阪高等学校卒業。

 1934. 4      東京帝国大学法学部法律学科入学。

            帝大聖書研究会に入会。

 1934. 5     矢内原忠雄の自由ケ丘家庭集会に入会。

 1936.4      矢内原忠雄が帝大聖書研究会を改組して再開、研究会の初代幹事となる。(1937年3月卒業まで。)

 1936.8      矢内原忠雄の北海道講演旅行に随行。

            20日、矢内原に伴われて層雲峡にて初めて言葉に出して祈る。

 1936. 11     高等文官試験司法科合格。

 1937. 3      東京帝国大学卒業。

 1937. 4      産業組合中央金庫本所に就職。この頃、産青連(産業組合青年連盟)運動に参加。

 1938. 8      下旬、召集令状を受け取る。

 1938. 9      5日頃、軍隊と信仰の問題をもって山中湖畔に矢内原忠雄を訪ねる。

            このとき矢内原から、復活と再臨の信仰に支えられて国民の罪を負って死ぬ、という

            内村鑑三の非戦論を教えられる。

 1938. 9. 14   入隊日で札幌郊外月寒の歩兵第二五連隊に出頭したが、結核既往症のため即日帰郷を

            命ぜられる。

 1939. 5      職場の中に「給仕さん学校」を開こうとしたが、開講式直前に仙台支所へ転任を命ぜられる。

            仙台市越路20の65 本田方、に下宿。

 1939. 5.14   矢内原忠雄の司式により伊藤時子(伊藤祐之の妹)と婚約。

 1939.5.15   二宮健策・庄司源弥と二宮の下宿で聖書輪読会を始める。

 1939. 10     『葡萄』9号に 「戦闘的平和論」を発表。

 1939. 11     仙台市霊屋下79に家を借りる。

 1940. 1. 7    矢内原忠雄の司式により伊藤時子と結婚。

 1940. 2. 27   個人通信『蘖(ひこばえ)』第1号発行。

 1940.4      この頃、自宅で集会(仙台聖書研究会)を始める。

            また、産青連支部の委員長として産青連改革運動に積極的に加わる。

 1940. 5. 11   父、死去。

 1940.5.29    二宮健策と、矢内原忠雄を仙台に迎えて公開キリスト教講演会と嘉信読者会を行う。

 1940.5.30    札幌支所転任の内命を受ける。

 1940. 6. 30    この日をもって自宅での仙台聖書研究会を終える。

 1940. 8.4     札幌支所へ着任。

 1940.9.6     女児死産。

 1940.10.1    大阪支所転任の内命を受ける。

 1940. 11      大阪支所へ転任。住所:大阪市住吉区桑津町566

 1941. 9 .14    三島甫・藤井立らと大阪聖書研究会を住友倶楽部で開始。

 1941. 11. 29   産業組合中央金庫を退職。

 1941. 12.1     住友鉱業株式会社入社、本社経理部第一主計課勤務。

 1942. 1. 11    家庭集会開始。(6月14日まで。)

 1942. 3. 2     治安維持法違反事件(産青連関係)証人として仙台地方裁判所に出頭し

             訊問を受ける。

 1942.6.13     仙台聖書研究会解散。この日、二宮健策からの解散報告の手紙を受信。

 1942. 8       西宮市高木中の坪498に転居。

 1942.10      『ひこばえ』(第1信)発行。

 1942. 12. 6    長女・のぞみ出生。

 1943. 1 .10    黒崎幸吉より来信、集会の内規変更により、この年から臨時聴講者を禁止する旨伝えられる。

              黒崎幸吉の聖書講義に継続出席することとする。

 1943.6        この頃、大阪の聖書研究会が自然消滅。

 1944. 3        再召集されるが、即日帰郷。

 1944. 6         唐津鉱業所へ転勤、経理係長となる。

 1944. 12        再度喀血し、職場を離れる。

 1945. 2        職場復帰。

 1946.1.3      住友鉱業唐津鉱業所職員組合設立委員会で組合長に選ばれる。(1月10日正式発足。)

 1946. 1. 10     長男・起出生。

 1946. 6 .18     鉱員組合のストライキを職員組合の立場で斡旋し解決するが会社の忌避にふれる。

 1946.7        職員組合が分裂し第二組合が組織される。

 1946. 9.16      報復的な制裁人事により東北の鉱山への転勤が発令される。

              不当人事として撤回闘争を組織。

 1946. 12.3      職員組合側の完全勝利となり転勤辞令撤回される。

 1947. 3.15      勤労課長代理兼勤労係長の辞令発令。

 1947. 5        住友鉱業株式会社を退職。

 1947. 6        西南学院教授。単身赴任し舎監を兼務。

 1948. 1        西南学院の学生と聖書研究会を始める。

 1949.3.31      西南学院を退職。

 1949. 4. 1      東京大学社会科学研究所嘱託となる。

              本郷で単身下宿。

              今井館聖書講堂での矢内原忠雄集会に参加。

 1949. 6. 1      文部教官に任命され、東京大学社会科学研究所助手となる。

 1949.9.25~10.15   「法社会学の課題」を『東大新聞』に発表。

 1950.2.3       練馬区練馬仲町へ転居。その後、家族と同居。

 1950.6.21      東京大学講師(社会科学研究所勤務)となる。

 1951.6 .15     商船大学海務学院非常勤講師兼任(1年間)。

 1953.12         『協約闘争の理論』(労働法律旬報社、処女作)刊行。

 1954.10        埼玉大学文理学部(70年より同大学経済学部)講師併任(71年度まで) 。

 1955.1         『労働組合の法律相談』(共著、日本評論新社)刊行。

 1955.6         『橄欖』第16号に「エレミヤ研究」執筆(以後、第21号まで、および『山鳩』第1号

               から第8号(1961年12月)までに執筆)

 1955.10.1        『団結の法構造』(法律文化社)刊行。

 1955.11.10       『第二組合』(日本評論新社)刊行。

 1956 .10.31     『官公労の闘争―労働組合の法律相談続(1)―』(共著、日本評論新社)刊行。

 1956.12         『職場闘争―労働組合の法律相談続(2)―』(共著、日本評論新社)刊行。

 1957.11         『ロックアウト―労働組合の法律相談続(3)―』(共著、日本評論新社)刊行。

 1958.8.9~11    渓水会(今井館聖書集会の若手大学卒業者の会)の長野県野辺山合宿に参加。

 1958.12.2       矢内原忠雄の東京帝国大学退官の日を記念し、奧山清四郎と二日会を結成して

               講演会(繊維会館)を開催、「職場における生活態度とキリスト教信仰」と題して講演。

 1958. 12        東大聖書研究会編『信仰と生活の中から』に「無教会信徒の世代的差異」を寄稿。

 1959.2.10       『労働組合の構造と機能』(共編、東京大学出版会)刊行。

 1959.7.1        『サラリーマンの思想と生活』(東洋経済新報社)刊行。

 1959.8.31       『組合とストライキ』(東京大学出版会)刊行。

 1959.9.20       二日会有志主催基督教講演会(お茶の水YWCA)で、「エレミヤ初期預言と現代」と題して講演。

 1960.3         『日本型労働組合と年功制度』(共著、東洋経済新報社)刊行。

 1960. 5.15       『東京独立新聞』創刊、共同編集者として参加。

 1960.9.19       キリスト者社会問題研究会に参加。

 1961.5.31       『日本労働協約論』(東京大学出版会)刊行。

 1961.9.1       名古屋大学経済学部講師併任(1年間)。

 1961.12.2      矢内原忠雄先生信仰五十年記念基督教講演会(明治大学第九号講堂)で、

               「活ける事実と選びの絶対性」と題して講演。

 1962.1. 21      藤田聖書研究会発足(会場:池袋・豊島振興会館)。

               「ローマ人への手紙」講義。

 1962.1.28      聖書研究会で「ピリピ人への手紙」講義開始。

 1962.4.15      聖書研究会で「エレミヤ書」講義開始。

 1962.4.20      『真理への畏敬 矢内原忠雄先生信仰五十年記念講演』(富田和久・大塚久雄と共著、みすず書房)刊行。

 1962.4         『労働協約―その実態と問題点―』(日本労働協会編)刊行。

 1962.5.9       キリスト教社会思想研究会(東大の学生数人との読書会)発足。

               以後、1964年3月まで原則として月1回開催。

 1962.6         矢内原忠雄全集の準備を進め始める。

 1962.8.4       矢内原忠雄先生記念聖書講習会(御殿場・東山荘)で、

              「矢内原忠雄先生の生涯 ― 二、三の問題について」と題して講話。

 1962.10.10      『労働組合の組織と運動』(ミネルヴァ書房)刊行。

 1962.10.15      『東京通信』創刊。

               同誌に「エレミヤの生涯」連載開始(1969年8月まで60回)。

 1962.12.2      聖書研究会の会場を杉並区成宗町のそろばん塾に移す。

 1962.12.16     矢内原忠雄先生一周年記念キリスト教講演会(東洋英和女子短大講堂)で、

               「われらの課題」と題して講演。

 1962.12.31~1963.1.2  第1回新年聖書講習会で「エペソ人への手紙」講義。

 1963.3.10      自宅で毎月第二日曜日に主婦聖書研究会を始める。

 1963.3.15       『戦後日本の労働争議(上)』(共編著、御茶水書房)刊行。

 1963.3.25      矢内原忠雄研究会を始める。

 1963.3          『矢内原忠雄全集』第1回配本、編集委員として参画。

 1963.4.25      『戦後日本の労働争議(下)』(共編著、御茶水書房)刊行。

 1963.7 .15      『現代労働組合入門』(青木書店)刊行。

 1963.8.10       『労働協約論』(日本労働協会)刊行。

 1963.8.24~27   第1回夏季聖書講習会で「使徒行伝」講義。

 1963.9.15      聖書研究会の会場を千代田区西神田・日本YMCA同盟会館に移す。

               「第二イザヤ書」講義開始。

 1963.11.30      『労働組合と労働協約』(白桃書房)刊行。

 1963.12.31~1964.1.3   第2回新年聖書講習会で「コリント人への第一の手紙」講義。

 1964.1         『東京通信』に「第二イザヤ書研究」連載開始(1964年9月まで、7回)。

 1964.2.2       聖書研究会で「創世記」(1~10章)講義開始。

 1964.3.22      聖書研究会で「ヨハネによる福音書」講義開始。

 1964.4.23       『労働者の経営学』(河出書房新社)刊行。

 1964.4          『労働組合入門(組合運動の問題点―労働運動と民主主義)』(共編、合同出版社)刊行。

 1964.7.19       アンテオケ会(職場問題の研究会)が発足し、指導を始める。

 1964.8.10       『エクレシア・ミリタンス』誌創刊。

 1964.8.28~31   第2回夏季聖書講習会で「ガラテヤ人への手紙」講義。

 1964.9.20      聖書研究会内に「渓流会」(苦難の中にある兄弟姉妹を支援する献金を行なう。)を創設。

 1964.11.21~22  金沢聖書講習会(石川県志雄町)で「ピリピ人への手紙」講義。

 1964.12.31~1965.1.3  第3回新年聖書講習会で「テサロニケ人への第一・第二の手紙」講義。

 1965.3.27~29   仙台聖書講習会で「ヨハネによる福音書」講義。

 1965.4.24~25   和歌山聖書講習会で「テサロニケ人への第一の手紙」講義。

 1965.4         『東京独立新聞』の共同編集者から協力者となる。

 1965.5.23      聖書研究会の学生を中心に、社会科学研究会(社会科学の古典を読む会)を始める。

 1965.6.6       聖書研究会の会場を文京区小日向・東京都社会福祉会館に移す。

 1965.8.21~24    第3回夏季聖書講習会で「ローマ人への手紙」講義。

               この講習会より参加者を公募する。

 1965.9.19      聖書研究会で、「ヨハネの第一の手紙」講義開始。

 1965.12.31~1966.1.3  第4回新年聖書講習会で「コロサイ人への手紙」講義。

 1966.1.9       聖書研究会で「ヨハネの第二の手紙」講義開始。

 1966.1.23      聖書研究会で「ヨハネの第三の手紙」講義。

 1966.1.30      聖書研究会で「創世記」(11章より)講義開始。

 1966 .3.15      『労働通信』誌創刊。

 1966.3.27      聖書研究会の会場を渋谷区神宮前・日本社会事業大学に移す。

 1966.4         武蔵大学講師併任(72年度まで)。

 1966.4.3       聖書研究会の会場を中野区中野・織田文化服装学院に移す。

 1966.5.8       基督教講演会(単独開催、都道府県会館)で、「明治の非戦論と現代の平和論」と題して講演。

 1966.8.23~26   第4回夏季聖書講習会で「創世記1~11章」講義。

 1966.9.11      聖書研究会の場所を千代田区九段・日本YWCAに移す。

 1966.11.27     聖書研究会で「出エジプト記」講義開始。

 1966.12.4      矢内原忠雄五周年記念キリスト教講演会(東洋英和女子短大講堂)で、

              「礎をすえるもの」と題して講演。

 1966.12.31~1967.1.3   第5回新年聖書講習会で「ピリピ人への手紙」講義。

 1967.3.31      『労働通信』を、第5号より山田隆也との共同編集とする。

 1967.4         矢内原忠雄「土曜学校講義」の整理の仕事を始める。

 1967.4         『東京独立新聞』の協力者の立場を退く。

 1967.5.25      『混迷と退廃のなかから』(大塚久雄と共著、みすず書房)刊行。      

 1967.5.27      西村秀夫・原島圭二と「キリスト教社会思想研究会」を東京大学内で始める。

 1967.6.11      藤田若雄聖書研究会規約(藤田若雄と各会員との契約)をつくり集会で配布、説明。

 1967.8.15      建国記念日制定に反対し、終戦の日に日本国民の心が砕かれたことを記念して、

               8月15日に日の丸の旗を立てることにする。

 1967.8.17~20   第5回夏季聖書講習会(西村秀夫と共催)で「律法の形成」講義。

 1967.11.5      聖書研究会の会場を千代田区岩本町・東京衣料会館に移す。

 1967.11.25~26  金沢聖書講習会(石川県加賀市)で「荒野の契約」講義。

 1967 .12.25     『矢内原忠雄・その信仰と生涯』(教文館)刊行。

 1968.2         「原点なき革新」(『展望』2月号) で「誓約集団」なる用語をはじめて使用。

 1968.5.1       東京大学教授となる。

 1968.5.5~6     京都聖書講習会で「出エジプト記」講義。

 1968.6         矢内原忠雄『土曜学校講義』(みすず書房)第1回配本、矢内原伊作と共同編集。

 1968.7.1        『労働組合運動の転換』(日本評論社)刊行。

 1968.8.22~25    第6回夏季聖書講習会で「ヨシュア記」講義。

 1968.9.15       聖書研究会で「レビ記」講義開始。

 1968.10.13      坂井基始良と公開講演会(東京衣料会館)開催、「百年目の混迷の中から」と題して講演。

 1968. 11. 2 ~3   第1回北陸聖書講習会で「コリント人への第一の手紙」講義。

 1968.11.15      西村秀夫・原島圭二らと5人で「非暴力連帯」のアッピール。

 1968.11.22      東大図書館前で「非暴力連帯」の坐り込み。

 1968.12.9       東大総長代行あて、東大紛争についての「上申書」提出。

 1968.12.19       「教授会メンバーと学生諸君に訴える―石は叫ぶ―」を作成。(20日東大構内で配布開始。)

 1968.12.31~1969.1.3   第6回新年聖書講習会で「「十字架」の意義―コリント人への第一・第二の手紙を中心として―」講義

 1969.1.27~3.5   入院、胆嚢摘出手術をうける。

 1969.3.30       聖書研究会で「詩篇」講義開始。

 1969.4.13       聖書研究会で「民数記」講義開始。

 1969.7.13       実兄・茂富死去。

 1969.8.22~25    第7回夏季聖書講習会で「申命記」・「モーセ五書総括」講義。

 1969.9.13~15    第2回北陸聖書講習会で「民数記」講義。

 1969.9          『東京通信』に「出エジプト記研究」連載開始(1973年4月まで、37回)。

 1969.10.7~18     琉球政府主催労働大学講座の講師として沖縄訪問。無教会の集会を行う。

 1969.12.31~1970.1.2   第7回新年聖書講習会で「ガラテヤ人への手紙」・「ヨハネの第一の手紙」講義。

 1970.1.18       聖書研究会で「イザヤ書」講義開始。

 1970.1.31       『革新の原点とはなにか』(三一書房)刊行。

 1970.3.10~15    沖縄訪問、沖縄無教会の集会で「出エジプト記」講義。

 1970.3.28       内村鑑三四十周年記念キリスト教講演会(女子学院講堂)で、

               「古いものは過ぎ去った、すべてが新しくなった」と題して講演。

 1970.8.9        「エクレシア・ミリタンス誌の性格変更に関する提案」を行う。

               (『東京通信』2年以上の読者で自発的に申し込んだ人々の同人誌とする。)

 1970.8.20       『礎をすえるもの』(福村出版)刊行。

 1970.8.21~24    第8回夏季聖書講習会で「使徒行伝」講義。

 1970.9.20       聖書研究会で「第二イザヤ書」講義開始。

 1970.11.14~15   第3回北陸聖書講習会で「イザヤ書」講義。

 1970.12.31~1971.1.3   第8回新年聖書講習会で「ピリピ人への手紙」講義。

 1971.1          『エクレシア・ミリタンス』誌、同人誌として再出発。

 1971.1.23      キリスト教社会思想研究会で、戦時中の矢内原忠雄の抵抗について研究する方針を決定。

 1971.2.21      聖書研究会で「第三イザヤ書」講義開始。

 1971.2.28      聖書研究会内に「アジアを考える会」を設け、以後、アジアの問題に取り組む。

 1971.3         『労働通信』第21号より共同編集者の立場を離れ、山田隆也の単独編集とする。

 1971.4.11      毎週第二日曜日は、「小集会」に分散して自主的に聖書研究するよう指導。

 1971.5.22      キリスト教社会思想研究会で内村鑑三記念講演の研究を開始。

 1971.7.31~8.1   第1回米沢聖書講習会で「イザヤ書」講義。

 1971.8.21~24    第9回夏季聖書講習会で「エペソ人への手紙およびドグマ研究」講義。

 1971.8 .26~10.15  入院、前立腺肥大症の手術をうける。

 1971.10.24      聖書研究会で「ヨハネによる福音書」講義開始。

 1971.11.23      キリスト教夜間講座主催第1回無教会シンポジウムで、

               「日本プロテスタンテズムの倫理と日本資本主義の精神」と題して報告。

 1971.12.5       矢内原忠雄十周年記念キリスト教講演会(東洋英和女子短大講堂)で 「主の僕」と題して講演。

 1971.12.19      聖書研究会の会場を千代田区駿河台・全電通会館に移す。

 1972.1.16       聖書研究会の会場を渋谷区神南・東京都渋谷勤労福祉会館に移す。

 1972.1.25        『日本の労働組合』(日本労働協会)刊行。

 1972.5.21       聖書研究会の会場を豊島区南池袋・豊島区民センターに移す。

 1972.5.26~29    沖縄訪問

                28日 首里教会で「神の国の民として」と題して礼拝説教。

                29日 矢内原忠雄先生十周年記念沖縄・キリスト教講演会(琉球大学内キリスト教学生センター)で

                    「世界に向って―日本と沖縄の運命―」と題して講演。

 1972.6.4       黒崎幸吉先生記念キリスト教講演会(今井館聖書講堂)で、

               「キリスト教と社会主義」と題して講演。

 1972.7.29~30    第2回米沢聖書講習会で「ヨハネによる福音書」講義。

 1972.8.18~21    第10回夏季聖書講習会で「マルコによる福音書」講義。

 1972.12.31~1973.1.2   第9回新年聖書講習会で「ヘブル人への手紙」講義。

 1973.1.15       キリスト教夜間講座主催第2回無教会シンポジウムで発題。

 1973.3.25       『日本労働争議法論』(東京大学出版会)刊行。

 1973.3.30      『日本労働法論』(木鐸社)刊行。

 1973.4.1        東京大学社会科学研究所教授を定年退官。

 1973.4.2        国際基督教大学教授。

               教養学部社会科学科および大学院行政学研究科で労働法・労働問題を担当。

 1973.5.10       内村鑑三記念講演研究、中間報告Ⅰ『十五年戦争と無教会二代目、第三篇、敗戦の神義論』発表。

 1973.5.12~13    第5回北陸聖書講習会で「ヨハネによる福音書」講義。

 1973.5          『東京通信』に「訣別遺訓研究」連載開始(1974年2月まで、9回)。

 1973.7.28~29    第3回米沢聖書講習会で「ヨハネによる福音書」講義。

 1973.8.18~21    第11回夏季聖書講習会で「ローマ人への手紙」講義。

 1973.9.13       国際基督教大学内で聖書研究会を始める。

 1973.9.15       『秋山宗三『軍隊日記』(抄)ほか』編集刊行。

 1973.9.23       聖書研究会で「アポクリファ」講義開始。

 1973.12.31~1974.1.2   第10回新年聖書講習会で「詩篇」講義。

 1974.2.24       聖書研究会で「ヨブ記」講義開始。

 1974.3.15       内村鑑三記念講演研究、中間報告Ⅱ「十五年戦争と無教会二代目、第一篇、満州事変から日中戦争勃発まで」発表。

 1974. 3          『東京通信』で「ヨハネ福音書研究」連載開始(1976年11月まで、32回)。

 1974.4          国際基督教大学大学院行政学研究科科長

 1974.5.12~12    第6回北陸聖書講習会で「ヨハネによる福音書」・「マカビー第二書」講義。

 1974.7.27~28    第4回米沢聖書講習会で「ヨハネによる福音書」講義。

 1974.8.17~20    第12回夏季聖書講習会で「ガラテヤ人への手紙」講義。

 1974.9 .10       『無教会主義の研究―社会思想史的研究―』創刊。

 1974.9.15       聖書研究会で「エレミヤ書」講義開始。

 1974.11.15      内村鑑三記念講演研究、中間報告Ⅲ「十五年戦争と無教会二代目、第二篇、日中戦争から太平洋戦争終結まで」発表。

 1974.12.31~1975.1.2   第11回新年聖書講習会で「詩篇」講義。

 1975.3.15       内村鑑三記念講演研究、中間報告Ⅳ「十五年戦争と無教会二代目、第四篇、内村二十年記念講演」発表。

 1975.3.29~30    第7回北陸聖書講習会で「エレミヤ書」講義。

 1975. 4          国際基督教大学大学院部長 。

 1975.5.10       実姉・タネヨ死去。

 1975.5.22        『労働問題入門』(ダイヤモンド社)刊行。

 1975.7.26~27    第5回米沢聖書講習会で「エレミヤ書」講義。

 1975.8.22~25    第13回夏季聖書講習会で「預言と福音―イザヤ・エレミヤ研究―」講義。

 1976.6.1        国際基督教大学のチャペル・アワーで「エレミヤ書を読んで当面したこと―天皇制の問題」と題して講話。

 1976.6.12~13    第8回北陸聖書講習会で「エレミヤ書」講義。

 1976.7.8         胃癌が発見される。

 1976.7.21       入院

 1976.8.3        胃癌摘出手術をうける。

 (1976.8.20~23    (第14回夏季聖書講習会で「サムエル記上・下を中心に聖書全体が教えるもの」を

                講義予定であったが、 病気入院のため不参加。)

 1976.9.22       退院。

 1976.9          下旬、大学院部長の執務を始める。

 1976.12.8       再入院

 1977.1. 2        死去。

 1977. 1. 15       葬儀(国際基督教大学礼拝堂、藤田聖書研究会・国際基督教大学の共催)。

 1977. 1.15        『内村鑑三を継承した人々(上)敗戦の神義論』(編著、木鐸社)刊行。

 1977.1.15        『東京通信』172号(終刊号)発行。

 1977. 1. 16       藤田聖書研究会解散式

 1977.5.10        『時論』(キリスト教図書出版社)刊行。

 1977.7.14        『エクレシア・ミリタンス』第32号(終刊号)発行。

 1977.8.30        『無教会主義の研究―社会思想史的研究―』第4号(終刊号)発行。

 1977.11.30        『内村鑑三を継承した人々(下)十五年戦争と無教会二代目』(編著、木鐸社)刊行。

 

         参考資料: 「年譜」〔『藤田若雄キリスト教社会思想著作集』(同著作集刊行会発行、木鐸社発売、1984年)第3巻、535~568頁)〕より抜粋し、

                 同著作集(全4巻)および『藤田若雄著作集』(同著作集編集委員会編、三一書房、1983年)第4巻巻末の「著作目録」に記載された

                 事項にもとづき補充・修正して作成。

                                                                                    〔未完〕

 

                                                                       [藤田若雄 目次]  [ホームページ]


 主要信仰著書

             『矢内原忠雄・その信仰と生涯』 .教文館 .1967.

             『革新の原点とは何か』 .三一書房 .1970.

             『礎をすえるもの』 .福村出版 .1970.

             『内村鑑三を継承した人々(上・下)』(編著) .木鐸社 .1977.

             『時論』 .キリスト教図書出版社 .1977.

             『藤田若雄キリスト教社会思想著作集』(全4巻 ) .木鐸社 .1983~1984.

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             『団結の法構造』. 法律文化社. 1955.

             『増補 官公労の闘争』. 沼田稲次郎・佐伯静治・藤田若雄 著. 日本評論新社. 1957.

             『サラリーマンの思想と生活』. 東洋経済新報社. 1959.

             『組合とストライキ』. 東京大学出版会(東大新書). 1959.

             『第二組合 増補版 』. 日本評論新社. 1960.

             『労働組合の組織と運動』. ミネルヴァ書房. 1962.

             『日本の労働争議 (上),(下)』. 藤田若雄・塩田庄兵衛 編. 御茶の水書房. 1963.

             『労働組合と労働協約』. 白桃書房. 1963.

             『労働組合入門』. 青木書店(青木新書). 1963. 

             『労働者の経営学』. 河出書房新社. 1964.

             『労働組合運動の転換』. 日本評論社. 1968.

             『日本労働法論』. 木鐸社. 1973.

             『日本労働争議法論』. 東京大学出版会. 1973.

             『労働問題入門』. ダイヤモンド社. 1975.

             『藤田若雄著作集』(全4巻). 藤田若雄著作集編集委員会 編. 三一書房. 1982~1983.

                    第1巻   労働者の新しい精神の探求

                        第2巻   戦後労働運動史論

                        第3巻   戦後労働組合組織論

                        第4巻   年功的労使関係の法構造

 

 参考文献

             『山路こえて 藤田若雄葬儀の記録』 .『山路こえて』刊行会 編 .1977.

             『藤田若雄 信仰と学問』 .藤田 起 編 .教文館.1981.

             『無教会論の軌跡』. 無教会論研究会 編. キリスト教図書出版社. 1989.

                  「7.藤田若雄   (執筆)溝口正 」(265~311頁)

             『職業・思想・運動 ―マイノリテの挑戦』 .阿部健・奥田暁子・中島正道 編著 .三一書房 .1998.

                  ※ 藤田若雄の指導を受けた人たちの生活記録

             『藤田若雄研究ノート ―キリスト教社会思想の探求―』 .大河原礼三 著 .木鐸社発売. 2000.

             『生きるためのヒント ―自然認識の歩みから― 』. 木村 寛 著・発行. 東方出版発売. 2002.

                 ※ 「付録1 藤田若雄、青年期の自画像」(185~208頁)、 「付録2 マックス・ヴェーバー的問題」(209~222頁)

                『藤田若雄が語る労働運動と無教会キリスト教』. 下澤悦夫・若木高善・大河原礼三 編・発行. 木鐸社. 2016. 

             『藤田若雄没後四十年記念文集』. 若木高善・下澤悦夫 編. 藤田「聞き取り」刊行会. 2017.

             『『内村鑑三を継承した人々』への書評集』. キリスト教社会思想を考える会 編・発行. 2019.

 

                  

                                                                   

                                                            [藤田若雄 目次]  [ホームページ]

 

                                                          

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