石原兵永

目 次

             [ 祈り ]  [  ]  [ 回心 ]  [ 信仰 ] [ キリスト者の社会的責任 ][ キリスト者 ] 

             [ 神の国 ] [ 復活 ]

             [ 略歴 ]  [ 主要信仰著書 ]  [ 参考文献 ]

 

                                              〔注〕 『著作集』‥‥『石原兵永著作集』 発行所 山本書店

                                                            『主の祈り』‥‥『主の祈り』 発行所 山本書店

                                                            『イエスの招き』‥‥『イエスの招き』 発行所 山本書店

                                                                       [ホームページ]

 


  祈 り

             ‥‥‥祈りというものは何か。これは信仰上いちばん大事な問題ですが、かんたんに申し

            ますと、神との対話といえましょう。神とお話をする。神との霊的な交わりであります。神は目

            には見えませんが、生きた精神的な存在です。そして私たち人間は目に見える肉体をもって

            いますが、その中心的な生命はやはり、目に見えない精神的存在であります。その精神的

            存在である人間がその霊をもって、霊にいます生ける神と交わり、神との精神的なつながり

            をもつこと、それが祈りであるといってよろしいかと思います。

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

             神は目をもって見ることはできませんが、試みに私たちが静かに目をつぶって、自分の霊

            を神の前に投げ出すような気持をもつ。そうすると、そのつぶった目の前には自分をとりまく

            無限の世界が迫ってくるのが感じられる。そしてそこから迫ってくる力、それが何であるかを

            十分認識はできないとしても、ともかく自分ではない力あるいは他者と対決するのです。それ

            は全宇宙を支配する力であり、その前にあって自分はいと小さな存在にすぎないことがわか

            ります。そこで私は天地の主にいます神の前に立つ一人の人間であることを自覚するでしょう。

            これが神と出会うひとつの形です。つまり目に見える外の世界に目をつぶることによって、か

            くれた所においでになる神の姿が、心の目に示されるわけです。

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

             ‥‥‥‥‥‥そこで私がいま一人の人間として生きて存在しているのは、自分の意志ではじ

            めたことではなく、また自分の力で支えているのでもありません。私を生かして、支えてくださる

            ところの、生きたお方が存在しているからです。そうでなければ、私に生命があるはずはないの

            であって、私に生命があることは、生命のみなもとである見えないお方があって、私に生命を与

            え、これを支えてくださるからにちがいありません。言うまでもなく、生命の主にいます生ける神

            さまです。自分の生命を、このような謙虚なそして真実な気持でうけとること、それが神に対する

            祈りであり、それをキリスト教では信仰と呼んでいます。

                                                 (『主の祈り』.41~43頁)

 

                夜の暗がりに置き去られた幼な子は、ただもうお母さん、お母さんと泣き叫ぶほかどうすること

            もできません。そのお母さんがおらなかったら、どうでしょうか。しかしその時お母さんの声をすぐ

            近くに聞けば、どんなに喜んで母の胸にだきつくことか。それが人間と神との関係です。神に祈る

            人間のすがたなのです。宏大無辺の大宇宙のただ中で、もしも神の声を聞くことができなかったら、

            それこそ私はただひとりさびしく置き去られて宇宙の孤児となります。どう考え、何をし、どこに行け

            ばよいのか、まったくわかりません。しかしそのとき天の神が、お前のお母さんだよ、お父さんだよ、

            と言って親しく呼びかけてくださる。それがイエスによって呼びかける父なる神のみ声なのです。そし

            てその声をきいてはじめて安心するのです。

                                                   (『主の祈り』.46頁)

 

                                                                        [石原兵永 目次]  [ホームページ]

 


                   

 

             この世界のどこかに、神が存在するのではない。その反対に神の中に、世界が存在するので

            あります。時間と空間をもって、神をはかることはできない。神の中に、時間も空間も含まれる。

            神は一切を含み、同時にそれを超絶する絶対的存在者であります。‥‥‥‥‥

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

             では私たちは、どこに神を求めたらよいのか。それはまず第一に、この世界を離れたどこか別

            の所に、神を求めるのではありません。そういう所で神と出会うことはできません。あるいはまた、

            外界から離れた自分の魂の中だけにとじこもって、そこで神と出会うのでもありません。心の中だ

            けをいくらさぐっても、そこにはただ空なる観念がうずまくだけでありましょう。そうではなくて、自分

            の魂をも含めて神が創造されたこの世界のただ中にあって、神と出会うのであります。ではどうし

            て、神と出会うことができるのでしょうか。神と出会う方法、それは最初のイスラエル人が神と出会

            った方法のほかにはない。まず創造をもって呼びかける神の呼びかけを、信仰をもって受けとめる

            のであります。そしてその信仰に立って、神が創造しこれを善しと見られたこの世界を(創一4)、その

            立場から肯定するのであります。そのときはじめて、私たちは創造者である生ける神に出会い、その

            神と相対して立つ自分が独立した自由な一個の人格、つまり精神的存在であることを自覚するので

            あります(ブーバー)

                                                  (『著作集』①.23~25頁)

 

                                                                         [石原兵永 目次]  [ホームページ]

 


  回 心

             ‥‥‥‥回心ということは、人がただ自分の心の中だけで、その考え方を一変するという、人間

             内部の出来事ではない。むしろ、人間とこの世界を超えた、神の世界への救いを意味する。なぜ

             なら、キリストの十字架の死は、罪のこの世の終末であり、キリストは死人の中からの復活によっ

             て、この世以上の神の国の存在となられたからである。したがってこのキリストの救いにあずかる

             ものもまた、キリストにあって、この世以上の神の世界に移されるのである。この意味で、回心は、

             超世界的の救い(cosmic salvation)という終末的な一面をもっている。そして、このようなキリ

             ストの救いにあずかる者は、当然その中に罪のゆるしが与えられている。

                                                  (『著作集』①.39~40頁)

 

                                                                        [石原兵永 目次]   [ホームページ]

 


  信 仰

               ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

               しかしパウロのこの言葉〔編者注:「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。‥‥‥」(ロマ一三1)〕は、

              読み方によっては誤解をまねきやすい。たとえばこの聖句にもとづいて、すべての現存する政権

              をそのまま神の定めとして無批判に受けいれ、一切の政治的批判をしないのが信仰的である、と

              いうような考えをもつ人があるかも知れない。つまり信仰と政治とを区別して、信仰は政治から手

              を引いて、ひたすら霊の世界だけに専念すべきだという考えである。この考えによれば、すべての

              革命は神の秩序に逆らう非キリスト教的行動とみなされるであろう。しかしパウロの言葉をそう解

              釈するのはまちがいである。彼みずからも、愛によって働く信仰といい、愛をもって互いに仕えよと

              言っているように(ガラ五6・13)神への信仰が、兄弟愛の実践と切りはなせないことをつよく主張

              する。兄弟を愛せずには、神を愛する信仰の手がかりはない(Ⅰヨハ四20)。そして兄弟愛の実践

              の場は家庭、職場、社会、国家、世界である。したがって信仰は当然、政治に深い関わりをもつ。

                                                   (『著作集』①.156頁)

 

                                                                        [石原兵永 目次]   [ホームページ]

 


  キリスト者の社会的責任

                クリスチャンの中には、自分のたましいさえ救われるならば、それでよいのであって、政治や

               社会の問題には関係ないのだと、そういう考をもつ人もおります。しかし、そんなはずはありま

               せん。‥‥‥‥‥‥‥

                 みこころが天に行なわれるとおり、地にも行なわれますように、との祈りは、人間社会にお

                けるすべての不義や悪が正され、貧困や悲惨が除かれることを要求する精神です。ですから

                神の国の信仰に生きる者は、社会全体に存在するこれらすべての問題に対して、目をそむけ

                てはならないのであります。‥‥‥‥‥‥

                   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                  ‥‥‥‥‥‥‥‥神の国は神の支配であります。ですから、この神の国に属するものは、

                 この世の流れの中にあって、その矛盾や社会悪に目をつむり、安住することはできません。

                 それらの矛盾や社会悪との戦いが起こるはずであります。その戦いはもちろん、何も社会

                 革命や政治運動に直接身を投じなければならぬ、ということではありませんが、しかしそう

                 いう問題に対しては、いつも、正しい認識と批判をもつ必要があるわけです。

                                                (『イエスの招き』.128~129頁)

 

                                                                       [石原兵永 目次]   [ホームページ]

 


  キリスト者

               風は思いのままに吹く。それがどこからきて、どこへ行くのかは知らないが、しかし神の霊が

              働くところにキリスト者もまた生きて存在する。彼らはこの世的に大きな集団をつくらず、社会的

              にも外形的にも必ずしも目だつ存在ではない。彼らはこの世の宗教団体や政治的勢力のような

              形のキリスト教的勢力とはならぬであろう。むしろイエスが言われたように、この世にあっては比

              較的「小さい群れ」として存在する(ルカ十二32)。しかしそれにもかかわらず、真の意味で社会を

              支え、また組織教会を支えている力は、イエスを信じるこれらの小さい群れなのである。その人々

              を指してイエスは〈地の塩、世の光〉と言われた。そして実際歴史的に見ても、人類の文化と精神

              とを根底から支えてきたものは、小さい群れにすぎないイエスを信じた人々の力であった。

                                                    (『著作集』①.150頁)

 

                                                                        [石原兵永 目次]   [ホームページ]

 


  神の国

               神の国はただ世の終りにだけ来るものではなくて、イエスが「神のものは神に返しなさい」

              と言われたように、神のものを神に返すところに現われる。つまり神とその真理の支配に

              服従するところには、すでに神の国が存在する。そして「神の国が近づいた」とイエスが宣

              言されたように、この神の国は、実際にわれわれが生きるこの地上生活のただ中に現わ

              れたのであり、われわれは直接これを経験することができるのである。

               神の国とは決して、この世ばなれのした空想的な観念ではない。きわめて実際的な現実

              問題である。‥‥‥‥‥‥

                 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

                神の国は、神の霊による支配である。権力による政治的の支配ではない。‥‥‥‥

               すなわち、この世の権力とはまったく性質のちがった、神の権威による支配、神の正義

               と愛による支配である。しかしこの世のものではないと言っても、もちろん現実世界から

               遊離しているのではなく、現実世界のただ中に行われる神の支配である。人間の地上

               生活のただ中にあって、み心が天のごとく地にも行われるところに、神の国が存在し経

               験されるのである。

                                                (『著作集』①.158~159頁)

 

                    ‥‥‥‥‥‥私たちはここに集って、神の御名があがめられることを祈ているでし

                ょう。私が語り、あなたがたが聞いていますけれども、しかし私たちはいっしょになって

                神の御名が聖とされることを願っている。御国がくることをいのっている。この状態が神

                の国の経験なのです。このほかどこに、いったい神の国があるのか。だからきょうのこの

                集まり、この講義の場所を粗末に考えてはいけない。ここで私たちは神と相対しているの

                であります。信仰生活というものが、そういう具体性をもたないなら、つまらんものです。

                またその信仰はわれわれに力を与えない。‥‥‥‥‥‥

                                                 (『主の祈り』.65頁)

 

                     この世の国と神の国とは、この同じ地球上の人間生活の中にあります。神の国はこの

                地球外のどこかにあるのではなく、われわれが住むこの現実世界の中に、神に生きる人

                たちと、この世に属する人たちとがともに生活しているのであります。‥‥‥‥

                同じ人間社会の中で、同じ条件のもとで生活はしているのですが、その生活をいかす原理

                がちがっている。これが神の国とこの世の国との関係なのであります。

                                                  (『主の祈り』.71~72頁)

 

                  ‥‥‥‥‥イエス・キリストの地上生涯は、神の国が近づいたというイエスのメッセージ

                 そのままを、身をもって実現されたものであります。そしてこの神の国はまた、彼の十字架

                 と復活を通して、その霊を受けた人びとによって人間社会の中に出現した、と言うことがで

                 きます。これが地上に来た神の国のすがたであります。どこにその神の国が存在する証拠

                 があるかといえば、それはキリストの霊を受けて働くところの彼を信じる人びとの間に存在

                 する。そこに神の国が実を結びつつあるのであります。

                  この神の国は、現在の社会にあっては、ここかしこに多くはかくれた形で存在するわけで

                 すが、しかしこのままでは終らない。やがてキリストが再び来て全世界を支配される時まで、

                 この神の国は進展をつづけ、最後の勝利を得るにちがいないのだと、私たちはそう信じて

                 おります。

                                                    (『イエスの招き』.91~92頁)

              

                                                                       [石原兵永 目次]   [ホームページ]

 


  復 活

                 復活信仰は、キリスト者にとって信じても信じなくてもよい、というような自由選択の

                問題ではない。信じなければキリスト信仰を失うのであり、信仰的生命にとっては、死

                活の問題である。復活がなければ信仰はむだであり、したがって実際的には救いが

                なく、いまなお古い亡びるべき人間として罪の中にあるのである(一五17)。だから、復

                活の否定はキリスト者にとっては、思想の自由ではなくて、信仰からの堕落であり、罪

                を犯すことになる。

                                                 (『著作集』①.238~239頁)

 

                                                           [石原兵永 目次]   [ホームページ]               


  略 歴

    1895. 4 .12     栃木県・旧篠井村の農家に生まれる。

    1910 .4        旧制・青山師範(現、学芸大)予科に入学。この時、長兄・保一郎の紹介で内村

                鑑三の集会に出席するようになるが1月半で止める。

    1912 .2        内村へ詫び状を出し、再入門。

。   1920          青山学院英文学部卒業、青山師範の英語教師となる。

    1921 .12       「回心」(救い)を体験。

    1923 .3        内村鑑三の司式で石原文子(内村聖書研究会会員)と結婚。(鈴木性から石原性になる。)

    1930. 1       内村の助手となる。

    1930.3        (3月28日、内村鑑三死去) 告別式の司会をつとめるとともに、内村聖書研究会

                 の解散式では、会員を代表して解散を宣する。  

    1930 .5        今井館で石原聖書研究会を開くが、周囲の反対により6月末で止める。

    1930. 9        上荻窪の自宅で第1回の聖書研究会を始める。

    1930.11        鈴木俊郎 創刊『新約之研究』に参加、執筆。

    1931. 8        青山師範を退職。(しばらく講師として働く。)

    1932. 7       黒崎幸吉『新約聖書略注』に「使徒行伝、ピリピ書、ヘブル書」を執筆。

    1932. 10       『聖書の言』誌創刊。

    1936. 6        集会の都内公開を始める。(「新宿聖書研究会」第1日曜、淀橋公会堂)

    1936.9        『基督教平和論』(向山堂書房)出版。

    1938.9        聖書研究集会の会場を、自宅から信濃町・日本青年会館に移す。

    1938.12       黒崎幸吉 『旧約聖書略注(上)』に「出埃及(エジプト)記」を執筆。

    1939.11       聖書研究集会の会場を日本青年会館から青山会館に移す。

    1940.4        聖書研究集会の会場を大久保百人町・婦人矯風会の矢島記念館に移す。

    1942. 5       『回心記』(長崎書店(現・新教出版社))出版。

    1944. 4       聖書研究 集会の会場を自宅に戻す。

    1944. 6       当局の命により、『聖書の言』を、6月号(140号)をもって突如廃刊。

    1945. 11       荻窪集会再開

    1946. 3       『聖書の言』復刊。

    1947. 9       NHKラジオ礼拝で「新日本に望むもの」を放送。

    1948. 3       三島市で聖書研究集会誕生。

    1949. 3       熱海市で聖書研究集誕生。

    1949. 10      伊東市で聖書研究集会誕生。

    1950. 2       『無教会史』(『無教会主義論集』第1巻、静岡・三一書店)出版。

    1956. 8       NHKラジオで、シュヴァイツアーについて放送。

    1958.4       『杉田つる博士小伝』(新教出版社)を編集・出版。

    1958. 11      NHKラジオで、シュヴァイツアーについて放送

    1960. 10      『聖書の言三百号記念文集 福音と生活』発行。

    1963.12       『清教徒』(山本書店)出版。

    1965.9       『主の祈り ―イエスの教と私たちの生活』(山本書店)出版。

    1967.4        『イエスの招き』(山本書店)出版。

    1971~72      『石原兵永著作集』(全6巻、山本書店)出版。

    1980.9       『私の歩んで来た道 ―戦前・戦中・戦後―』(山本書店)出版。

    1982.6       『信仰短言』(山本書店)出版。

    1984          死去

 

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 主要信仰著書

                『石原兵永著作集 1 神との出会い 』. 山本書店. 1972.

                『石原兵永著作集 2 パウロの生涯 』. 山本書店. 1972.

                『石原兵永著作集 3 マルコ福音書注解 』. 山本書店. 1972.

                『石原兵永著作集 4 身近に接した内村鑑三(上)』. 山本書店. 1971.

                『石原兵永著作集 5 身近に接した内村鑑三(中)』. 山本書店. 1972.

                『石原兵永著作集 6 身近に接した内村鑑三(下)』. 山本書店. 1972.

                『聖書の言』(石原兵永 主筆、復刻版、12巻). キリスト教図書出版社. 1982~1986.

                    ※ 創刊号~第164号、1932年10月~1948年12月まで分

                『回心記』. 新教出版社. 1942.

                『清教徒』. 山本書店. 1963. 

                『主の祈り イエスの教と私たちの生活 』. 山本書店. 1965.

                『イエスの招き マルコ福音書を中心に 』. 山本書店. 1967.

                『私の歩んで来た道 ―戦前・戦中・戦後― 』. 山本書店. 1980.

                『信仰短言』. 山本書店. 1982.

                『忘れ得ぬ人々―内村鑑三をめぐって』. キリスト教図書出版社. 1982.

 

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 参考文献

                『 聖書の言三百号記念文集 福音と生活 』. 聖書の言三百号記念文集刊行会. 1960.

                『資料 戦時下無教会主義者の証言』. オカノユキオ 編. キリスト教夜間講座出版部. 1973.

                   「石原兵永集」(101~235頁)

 

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