坂井基始良

目 次

          [ 祈り ]  [ 人生 ]  [ この世 ]  [ 苦難 ]  [  ]  [ 信仰 ]  [  ]  [ 自由 ]  

          [ 神の経綸 ]  [ 神の国 ]

          [ 略歴 ] [ 主要信仰著書 ] [ 参考文献 

 

                                  〔注〕『著作集』‥‥『坂井基始良著作集』(全3巻) 発行所 坂井基始良著作集刊行会

 

                                                                                    [ホームページ]


 祈 り

           自由なる精神は神に向っても、自ら納得するまで断固として挑戦してやまない。祈りとはそう

           いうものではないのだろうか。いいかげんに事を誤間化すことはかれには死んでもできない。

           このような自由なる精神のみが、神の経綸のなかで人間の歴史の車を今日まで回転させて

           来たのではなかったか。真理はただこのような格闘によってのみ、人間の世界に入って来た

           のではなかったか。

                                            (『著作集』第1巻.221頁)

 

          ‥‥‥われわれの依(よ)り頼むものは主イエスの外(ほか)にない。子供が苦しい時に呼ぶのは

           母親であります。同じようにキリスト者(しゃ)は、苦しみの中からたえず神を呼びます。父なる神

           に向って、自分のありのままを打(うち)(あ)けて、「お父さん」と呼びかけます。これがキリスト者

           における祈りです。

                ‥‥‥‥‥‥‥‥

           要するに、キリスト者はひとりでいることは出来ない、創造主である神に向って「お父さん」と呼び

           かける以外に、その日その日を送っていく方途がない。祈りはキリスト者の生活そのもので切り

           離すことが出来ない。考えて祈るのではない、子であるから「お父さん」といってよびかけざるを

           得ない。形をなしてもなさなくても、父なる神に対する訴えが祈りなのです。赤ん坊がまだ言葉を

           知らないで、「ああ‥‥」と欲求を訴えると、お母さんが「そう、ミルクがほしいの」といって子供の

           望みを言葉にしてかなえてくれるように、父なる神も、私共が「お父さん」とよびかけると、形をな

           さない私たちの祈りに助太刀(すけだち)をして、形を与えてくれる。

                                             (『著作集』第3巻.74〜75頁)

 

           ‥‥‥祈りは決して「苦しい時の神だのみ」ではないということです。

                ‥‥‥‥‥‥‥‥‥

           ‥‥‥祈りの本領(ほんりょう)は、「神との交わり」の回復による自己の確立、弱さに徹(てっ)したところ

           に現出(げんしゅつ)する神と一体となった「自己本来の面目(めんぼく)」の発揮であって、「矢でも鉄砲でも

           もってこい」という不死身(ふじみ)不敵の強さであります。

                                             (『著作集』第3巻.76頁)

 

           病(や)んで久しく、何事も為(な)し能(あた)わなくなってみると、つくづくと祈りの大切なことを思う。病人に

           為し能うことはベッドに身を横たえて、祈ることだけである。何を祈っているのか自分でもわからないが

           (ロマ書八の二六)、「死の時には、仰(あお)(む)かんことを」(中原中也、「羊の歌」)と祈るだけである。

           祈りの中に聖霊が一緒にいて下さることだけは確かである。願わくは、本誌がただこの祈りをうつすもの

           たらんことを。内村鑑三先生の『求安録』の最後が思い出される。

             彼能(よ)く祈り能(あた)はざれば祈るべきなり、恵まるるも祈るべし、呪はるるも祈るべし、天の高きに

             上(あ)げらるるも、陰府(よみ)の低きに下(さ)げらるるも我は祈らむ、力なき我、わが能ふことは祈ることのみ。

                  然(しか)らば我は何なるか、

                  夜暗くして泣く赤児(あかご)

                  光ほしさに泣く赤児、

                  泣くよりほかに言語(ことば)なし。

           ああ祈らんかな。

                                         (『著作集』第3巻.851〜852頁)

 

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 人 生

             われら何をなすべきか。幸福か名誉か伝道か事業か。非らず。たゞ神の負わせ給うままに黙して軛を負わんのみ。

          これによりて人生は始めて充実し、生涯はこれによりて始めて価値を取得する。

                                                                (『著作集』第1巻.28頁)

 

              人生は危機の連続だと言っても言いすぎではない。いままで依り頼んでいた価値が突然崩壊して、安定した生活

          の繰り返しが混乱して収拾し得なくなるとき、人は挫折を経験する。挫折を克服する途は、生れかわり、新生の外に

          ない。何故なら旧来の生は、価値の崩壊によって滅んだのだから。

                                                     (『著作集』第3巻.343頁)

 

              人生が人間的な人の希望どおりに実現しないことはいうまでもない。ふりかえってみれば、希望そのものが道を

          それたところにおかれているからである。道に背くことはまた過ちと言ってもいい。人は過つものだということは苦し

          い事実である。けれども過ちは正される。神がその人をすてていないためであろう。人の過ちは時を見はからって

          強制的に神によって正される。

                                                     (『著作集』第3巻.692頁)

 

                                                                     [坂井基始良 目次]   [ホームページ]

 


 この世

            キリスト者のこの世に処する態度ほどわれわれの心を労せしめる問題はない、結論としては、事にのぞんで

           祈りをもって、然り、然り、否、否というほかはないとしても、それはこの世の事に対して全く責任を負わないこと

           であろうか。この世のつとめはパウロが伝道生活の手段として天幕製作に携ったように、ただ神の国に生きる

           ための手段、糊口をつなぐための手段であり、そのことは必要悪以上の意味をもたないのであろうか。‥‥‥

           ‥‥‥‥しかし、この世の生が、如何に屈辱に満ちていようとも、イエスは自らこの世を去ることをわれらに許し

           給わない。‥‥‥‥‥‥この世は過ぎゆくものである、しかいわれらの日常生活はその過ぎゆくもののなかに、

           それ自らその過ぎゆくものの無数の場面の一つとして、くみ入れられている。そうであるかぎり、「我ら、何をなす

           べきか」は、この世に生きるキリスト者にとっていぜんとして真剣な問いである。

                                                     (『著作集』第1巻.53〜54頁)

 

                天国の民の幸福は、あくまで逆説的である。神を知り、永遠の生命にあずかり、エクレシアの仲間入りをし、

            つねにイエスとともに生きるという点では最高の幸福者であるけれども、天国に生きることは、この世と相容れ

            ない。世の不義に目をつむることができない。世の人が、日常茶飯事として見逃す道徳的退廃を敏感にかぎ

            わける。世の人と不義をともにすることができない。ひとり醒めたるものの苦悩がかれのものである。しかし、

            この苦しみによって、かれはイエスの苦難の一端を担うのである。もしもキリスト者がこの姦悪なる世に生きて、

            何の苦悩をも感じないですむとすれば、その信仰は形骸化しているか、滅ぶる者をも愛する愛が冷えているか

            だ。キリスト者が地の塩であるというのは、世に在って、神の国の民として生きることだ。その存在によって世を

            審判くと同時に世の罪を負うて苦しみのうちに生きることだ。信仰によりて生きるものはこのような生き方の外

            に生き方はない。

                                                          (『著作集』第3巻.169〜170頁)

 

                                                                      [坂井基始良 目次]   [ホームページ]

            


 苦 難

               いずれにしろ苦難が神より出ずることを知るとき、たとえ、それがどれほどきびしくとも、それは希望と重なって

           いる。われこの事を心に思いおこせり、この故に望をいだくなり。たとい苦しい一夜をすごすとも、朝には神の囁き

           がかれを一日のつとめに呼びさます。よしその足は重くともその想いは天を仰ぐ。天を仰ぐものにとってどれほど

           重い足もひきずっていけない程に地について離れないということはない。苦難に耐えるのではない。苦難は苦難の

           ままに望みによって生きるのである。本当に人は望みによって生きる。望みによって生きるものには思い煩いがな

           い。そしてこの世によりたのむところのないものは、朝毎に今日一日の糧を与え給えと祈り、夕に一日を無事に

           終えさせ給う神の恩恵を感謝するのみである。

                                                     (『著作集』第1巻.45頁)

 

                                                                    [坂井基始良 目次]   [ホームページ]

 


  

            神の干渉なしに、人が自ら自己の持ち物をいっさい捨て得るか、わたしはそれを疑問とする。西洋のことはい

           わず、内村鑑三でも藤井武でも矢内原忠雄でも、神の干渉によって持ち物を捨てさせられ、神に強いられて福

           音を語った。これは名ある人々のみではない、無名の信仰者がいたるところ神の干渉によって持ち物をすて、

           永遠の生命だけに生きて証言している現実をわれわれは知っている。

                                                    (『著作集』第3巻.288頁)

 

                                                                     [坂井基始良 目次]   [ホームページ]


 信 仰

            信仰は全部的でなければならないことを藤井はその生活をもって示したが、内村鑑三が確立し、藤井、矢内原

           が継承した信仰はそれ以外のものではなかったと私は思う。百パーセント神に仕える生活とは、聖書学者になる

           ことでも職業的伝道者になることでもない。生活の根底を、したがってその全部を神に置く生活である。

                                                    (『著作集』第3巻.241頁)

 

               信仰とは、事実の中に働らく神の意思をとうとんで、これに服従して生きることである。

                                                    (『著作集』第3巻.334〜335頁)

 

                ‥‥‥‥‥‥危機とは既成の秩序の権威喪失である。

              危機を打開するためには、単に秩序を尊べ、権威に従えと言っても、役に立たない。秩序そのものが動揺

             し、権威が自明でないところに危機があるのだから。この混乱の中を生き抜いて行く能力は、インマヌエル

             (神われらと共に在す)という信仰によって与えられる。そして、その信仰の中から新しい秩序と権威とが生ま

             れる。

                                                    (『著作集』第3巻.338頁)

 

                                                                     [坂井基始良 目次]   [ホームページ]


  

             天国の門はイエスによりて開かれ、われわれは原理において天国の民である。しかしわれらはまだこの世に

            生きているかぎり、ヨハネの義の宣教の立場を捨てることはできない。われらが置かれるこの世のところにおい

            て、具体的に義の闘いを闘う以外に神の国のためにそなえうる道はわれらにはない。この世における義のため

            の闘いは神の国へのそなえなのだ。

                                                     (『著作集』第1巻.58頁)

 

                                                                    [坂井基始良 目次]   [ホームページ]

 


 自 由

             ‥‥‥私共の本当の国籍は天に在る。神の国に在るのであって、この世に属する者ではないんだ。この世が

            どうなろうと私共はそれによっていささかも損傷を受けない。われわれは世からすでに取り去られた者なのだ。

            私は世に対して死んでおり、世は私に対して死んでいる。私はキリストに属するものであって世のものではない。

            ‥‥‥‥‥‥われわれは、神の理想に生きるものであって、現代と行をともにするものではないし、現代ととも

            に流れるものではない。われわれは現代を審判くものであって、その中に埋没しているものではない。

                                                    (『著作集』第3巻.130頁)

 

                                                                      [坂井基始良 目次]   [ホームページ]

 


 神の経綸

             神の車輪はゆっくり回るが、結果だけを事件の継起において眺めれば、歴史の動きは、目まぐるしく回転する。

            状況の変化に一切をかけている人は、事件の動きに一喜一憂して神の経綸を思わない。事件を、その深い根底

            において見る予言者と、事件の表面だけを見る群衆とは悲劇的対立を示す。

              ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

            国家的危機に対処するためには、歴史の動きの中に神の経綸を見、自分の立脚地をそこにおかなければならな

            い。これが、社会の混迷と退廃に抗して、地の塩としての役割を果させるのである。これは、個人的不安を復活信

            仰によって乗りこえるのと一体である。

                                                    (『著作集』第3巻.332〜333頁)

 

                 ‥‥‥‥‥‥人が自己の生涯を完全に神の経綸の中においてみることができ、自己の個人的な生涯を神が与え

            給うた独一の生涯としても受けとめることができるならば、幸福も不幸も他との比較をゆるさない唯一無二の神より

            与えられた己れの生涯として、その生涯の意味は神から与えられているとの確信に立つことができる。

             ものを見るのには、見るひとの視点が重要だとすれば、すべてのひとは自分のおかれた位置からだけ見える真実

            を述べることができる。真理は普遍的であるが、活きた、生命を与える力あるものであるためには、ひとの固有の在

            り所から把握されなければならない。そのためには、自己の生涯を運命として諦めるのではなく、摂理として受けとめ

            るのでなければならない。摂理として受けとめるならば、どんなに悲惨な生涯でもそこからでなければ見ることのでき

            ない真理を見、また明らかにすることのできる特別の位置であることが納得される。そこに立つとき、どのような生涯

            も特有の光を放ち、神の言が現われる通路として役立つのである。

                                                     (『著作集』第3巻.582頁)

 

                                                                     [坂井基始良 目次]   [ホームページ]


 神の国

             神の国とは、完全な自由、人間の生命の完全な自由、人間の魂が完全な自由を享受する世界である。死の恐怖

            の完全に克服されたる状態、永遠の生命に生きる状態である。この自由は権力の放棄と結びついている。他に対

            する支配欲からの自由と結びついている。

                                                     (『著作集』第1巻.49頁)

 

                神の国は、永遠の実在だから、歴史的現在となるのはキリスト再臨においてであるが、この世の基底に存在し、

             キリストを信ずる者の間には現実に目に見えざる連帯として存在する。

                                                     (『著作集』第3巻.161頁)

 

                  神の国とは何か、と言うならば、新約的には神ともに在す世界であり、旧約的には正義と公平の支配する世界

              である。愛は如何、と問うものがあれば、正義とは愛の社会的表現である。神の国は歴史の終局目標であるが、

              現世の只中において、われわれに啓示されているものであるから、信仰によって新に生れたる者の生活の指針、

              行動の原理である。

                                                     (『著作集』第3巻.381頁)

 

                                                                      [坂井基始良 目次]   [ホームページ]


 

                                              

 略 歴

  1912.2.13    北海道釧路市に生まれる

  1929.4      東京高等学校に入学 (左翼運動に参加し1931.2 中退)

  1931.4      早稲田第二高等学院入学(読書会「社会科学研究会」に参加し停学処分)

  1937.3      早稲田大学経済学部経済学科卒業

  1937.4      早稲田大学大学院入学 (1941.2 中退)

  1940       矢内原忠雄の御茶ノ水集会に参加

  1941.4      三徳工業株式会社入社 (1945.10 退社)

            矢内原忠雄家庭集会に入門

  1943.1      前田圭と結婚

  1946.10     北海道新聞社入社

  1947.11     『家信』発行 (1948.4 廃刊)

  1948.11     妻、圭死亡

  1950.3      榊原百合子と結婚

  1950.9      北海道新聞労働組合執行委員長

  1952.6      『お便り』発行 (1954.2 中止)

  1953.1      外報部長

  1954.2      ロンドン特派員

  1954.10     帰国、外報部長

  1958.2      北海道新聞社退社

            時事通信社勤務 (1960 退社)

  1958.12     『新生』発行(第一次) (1960.3 中止)

  1960.5      東京独立新聞発刊、編集に従事

            石油評論入社 (1963 退社)

  1962.       矢内原忠雄全集の編集にあたる (1965.7 完結)

  1965.9.26    第一回の公開聖書研究会を開く、以後毎月一回開く

  1966.1      『新生』発行(第二次)

  1966.10     小脳変性と診断される (以後も『新生』の発行、聖書研究会を続ける)

  1976.2.10    逝去

               〔『坂井基始良著作集 (第一巻)』の「坂井基始良略歴」にもとづき作成〕

 

                                                                      [坂井基始良 目次]  [ホームページ]


 主要信仰著書

            『坂井基始良著作集』(全3巻).坂井基始良著作集刊行会.1971.

 

 参考文献

            『いかに生きるべきか あるジャーナリスト・坂井基始良の信仰』.坂井基始良著作集を読む会 編著
                                               キリスト教図書出版社.1996.

            『句文集 青い湖』. 船越道子 著. 角川書店. 1997.

               (「兄・坂井基始良のこと」(346〜363頁))

 

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